「どんな髭剃りにも哲学がある」という、サマセット・モームの言葉に、村上春樹は著作『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)の「前書き」で触れている。
村上春樹は、「どんなにつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの觀照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい」(前掲書)と書いているけれど、ぼくは、どんな髭剃りにも「生き方」が詰まっていると思う。
別に髭剃りでなくても、どんな行為でもいい。
そこには何かしらの哲学、あるいは生き方があらわれてくる。
「洗顔」という、ぼくたちが日々続けている行為においても、ぼくはそこに哲学(生き方)があると思う。
そのような視点において、『顔を洗うこと 心を洗うこと』(サンマーク出版)という著作で、エステティシャンでもある著者の今野華都子(こんの・かつこ)は、「顔を洗うこと」と「生き方」をひとつとするような洗顔の仕方を教えてくれている。
本の最初のページで、今野華都子は読者に次のように質問を投げかける。
「あなたは子どもころ、誰かに顔の洗い方を教わりましたか?」
今野がそのように質問を投げかけると、ほとんどの人たちは「教わってもらっていない」か、教わっていても具体的な仕方は教わっていなかったりする。
ぼくも、見よう見まねでならっただけだと記憶している。
また、最近は女性誌などにも「洗顔の仕方」のページがあったりするけれど、それらは「美容」を目的としているものが多いのだろう。
今野は、そこに、さらに別の効果があるとし、「母親がわが子を大事に思い、キレイな顔でいてもらいたいとの願いを込めて「洗顔」を伝えるとしたら、それはどのような洗い方でしょうか」と読者に問いかける。
そこから、洗顔教室も営む今野が望むこととして、次のように書いている。
あなたが、あなたのお母さんになったような気持ちで、
あなた自身を大切に扱ってあげてください。
今野華都子『顔を洗うこと 心を洗うこと』サンマーク出版、2014年
今野は、こうして、本書で、大きく8ステップの「今野華都子式洗顔方法」を伝えている。
<じぶんを大切にする>ということにより深い次元でコミットしていたときに、ぼくはこの本と出会い、「顔を洗うこと」の見直しをせまられることになった。
「顔を洗うこと=よごれをとること、朝は目をさまさせること」ほどの意識であったから、そこに<心を込めて>という意識と動作はなかった。
そこに、顔を洗うことということのなかで、<心を込めて>ということをじぶんに向けていくことで、これまで<じぶんを大切にする>ということを忘れていたことに気づかされた。
そのようなこれまでの「洗顔の仕方」が、ぼくの生活のいろいろなところにも、出ていたように気づいたのだ。
今野じしんが実際にお客様の「お顔を洗ってさしあげている」と、それだけで、涙を流す方や感謝される方がいるという。
今野は、お客様が「自身が大切にされていた記憶、愛された記憶が蘇るからなのだ」と思うと、書いている。
<じぶんを大切にする>ということは、他者たちのじぶんへの接し方(大切にしてくれる接し方)にも影響し、また、じぶんを大切にすることで生まれるじぶんの状態と余裕が他者に役立つうえでも重要な土台となる。
そのような好循環を生みだしていくうえで、心を洗うように顔を洗うこと、<じぶんを大切にする>仕方で顔を洗うことは、大切な入り口であり、また日々習慣として続いていく大切な「哲学」である。
その意味において、どんな「洗顔」にも哲学(生き方)が込められている。