整体の創始者といわれる野口晴哉は、食餌療法でこれこれ(酸性のものや肉や卵)は良くないと教えられているという食にかんする質問に答えるなかで、「養生」ということの本質を語っている。
毒のものはいけないというのは養生方法ではない。毒のものでも、体に良いものでも、共に害を受けないように摂取する体のはたらきを保つことが、養生の根本的な問題です。体に悪いから止めるというのは間違いで、悪くとも良くとも、使いこなして行くということが大事です。食べ物を食べ拡げるということが食養生であり、どんなものでも食べられるようになることが養生です。だから昔の人が骨折って食べ拡げたものを狭めるということは感心しない。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
「体」を知り尽くしてきた野口晴哉の、「養生」ということにかんする考え方である。
ここでのポイントを、振り返りながら言い換えて並べなおすと、次のようになる。
- 食べ物自体の善し悪しだけによらず、体のはたらきを保つこと
- 食を使いこなして行くこと
- 食べ拡げていくこと
これらの言葉は、人が陥ってしまう罠の存在を際立たせる。
人はときに、食べ物自体の善悪に傾倒してしまったり、いわゆる「善いもの」だけを摂ることで体を弱くさせてしまったり、食を狭めてしまう。
ぼくは食や体の専門家ではないけれど、「外部」のものに思考が依存し、それを「善し悪し」だけで切り取ってしまうことは、人のさまざまな行動にみられるものだと思う。
そのような思考により、「じぶんじしん」というものが置き去りにされる。
もちろん、「じぶんじしん」のことは「じぶん」に任され、託されるわけだけれど、その「じぶん」の身心にほんとうに向き合うことは、いろいろな事情やいろいろな社会の力学のなかで、それほど容易ではない。
野口晴哉は、言葉をさらに紡いでゆく。
だから体の構造をよく知ってやるのならば、食餌療法もまたよいことなのですが、体の研究ということをしないでただ食べ物の分析だけをして、まるで昔の芝居に於ける勧善懲悪のように、善いものと悪いものとをハッキリと区分けして、善いものだけを摂ろうとするのは単純すぎる。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年
野口晴哉の言うように、「勧善懲悪のように、善いものと悪いものとをハッキリと区分け」する思考が、世界のいろいろなところにひろがっている。
それは、やはり「単純」すぎる。
なお、野口晴哉はこの文章のなかで、ベートヴェンやハイドンの音楽にそのような「単純さ」の地平にたつ音色を聴きとっていることは、「野口晴哉の音楽論」という視点においても、興味深いところである。
そのような「単純さ」のなかにあって、野口晴哉が書いているように、草花なら肥料のやり過ぎはそれらを枯らせてしまうことを人は知っている。
しかし、それが「じぶん」のことととなると枯れることはないと、「善い」ことを追い続けるように、栄養のあるものを食べつづける。
栄養の不足という機会によって、「じぶん」の側において摂取する力が増えるという効果には、なかなか思い至らないものだ。
野口晴哉は、ここで、食べ物だけのことではなく、「物事を善と悪とだけに割り切ろうとし、善いものだけを受け入れ、悪いものは何でも排斥しようとする」、勧善懲悪的な、単純な人生観にまで視野をひろげて、心をひらき、そのような人生観そのものを変えていくことをすすめている。
そのことは、「善人と悪人」という括りさえも、無効にする。
人は、ある条件のなかで善人になり、ある条件のなかで悪人になる。
勧善懲悪的な考え方から離れてゆくこと。
生をその全体において、生きてゆくこと。
野口晴哉の「養生」は、そのような方向性において翼をひろげてとんでゆきながら、ぼくたちの日々の生活や生き方をするどく照射してくる。