ぼくが心から尊敬している社会学者の見田宗介(真木悠介)氏の著作は、<どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか>(真木悠介)という問いに導かれながら、「学問」がほんとうの<知>であるところへとつきぬけてゆく仕方で、ことばをぼくたちに届けている。
それぞれの著作における根柢的な問いと明晰な論理、そして生きられた美しい文体は、読む者の思考と心、そして「生きること」の全体を揺さぶる。
また、それぞれの著作のなかには、ぼくたちの「視点・見方」を変えてしまうようなことばが、いっぱいにつまっている。
人が日常においてかんがえている「天才」という言葉ひとつ取ってみても、認識を一段も二段も深めるような視点・見方を、ぼくたちに見せてくれる。
「時間」の問題を、比較社会学の観点から明晰に論じた『時間の比較社会学』(岩波書店、1983年)のなかで、「天才」について、つぎのように書いている。
天才はしばしばひとつの狂気であるということばによって、ひとはこの問題を片付けようとする。天才はただ、時代の狂気をより深く身にこうむり、より妥協なく対面するのだ。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1983年
ここで指摘される「この問題」とは、「天才」と呼ばれる思想家や芸術家などの手記等のなかに、いわゆる「精神病者」に見られるような状況が見られることである。
「時間」や「じぶん」(自我)といったものが崩れさるような感覚などが記され、また作品となっていたりする。
そのことに対し、「天才はひとつの狂気だ」ということばで、人はわかったような気になる。
そのことばを語る側も、また聞く側も、ともに、ある種の納得感を共有するのである。
見田宗介(真木悠介)は、そのようなことばを掘り下げてゆく。
あるいは、そのようなことばの内実をつかむことで、「問題のありか」を明晰に布置してゆく。
<時間の解体>と<自我の解体>というノエマ的=ノエシス的な崩壊感覚の鋭く生きられる「精神疾患」群についての諸研究が明らかにしていることは、それらがその根柢において関係の病いであるということだ。そしてその関係の質は、<近代社会>がまさしくその原理とする関係の質の極限に他ならなかった。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1983年
「天才」は、<近代社会>が原理とする関係の質の極限という状況に、正面から妥協することなく対面し、「時代の狂気」をみずからの身にこうむる。
このように、見田宗介は、「問題のありか」そのものを、じぶんと他者、そして社会という全体のなかで、捉え返してゆくのだ。
そのようなことばが、見田宗介(真木悠介)の著作群には、いっぱいにつまっている。
だから、ぼくは、そのようなことばそれぞれの前で、立ち止まっては、つぶさに読みとく。
そのようなことばは、ぼくの視点・見方の「道具箱」に収められては、道具が使われる出番を待つことになる。
どこかで「天才」が語られたり、また天才の作品や文章の断片などを見たりして、それらを読みとくとき、ぼくは、見田宗介のことばを「道具箱」からそっと取り出し、それら対象を見る「メガネ」として活用する。
「世界」は異なる側面を開示して、どこまでもつづく興味を、ぼくの内に点火する。