日常の会話のなかで、「現実を見なさい」とか、「現実的には」とか、「現実的じゃないよね」とか、「現実主義だからね」という言葉を聞くことがある。
このような会話に託されている「現実」という言葉の使われ方は、その言葉をひどく狭いものにしている。
この言葉の前提には、「現実」という世界が確固なものとしてあるような世界観が敷かれている。
そしてそれは、みんなが共有する、ただひとつの「現実」世界のように感覚されている。
しかし、ぼくたちが視る「現実」は、ひとりひとりで異なるものだ。
同じ場面、同じ風景、同じ画面を観ていても、そこに居合わせた人たちは「異なる」事象を観ている。
つまり、ポイントを並べてみるならば、
- 「現実」はただひとつではないし、
- 「現実」は人それぞれに違う。また、
- 「現実」はそれぞれの人がつくりだす「世界」である。
じぶんが(深いところで)信じている「世界」が、じっさいに、じぶんの前に現前してゆく(言葉を変えれば、そのように、じぶんは「世界」を視る)。
日常会話で交わされる「現実」という言葉は、往々にして、ひどく狭い意味と世界観に押しこまれていることになる。
それは、「食べていける」「お金がかせげる」「生活をまかなえる」などの視点で切り取られた世界観を下敷きに、「現実的/現実的でない」の境界線が日々引かれ、強化され、あたかも、「現実」という世界があるかのように、ふるまっている。
このような世界観のもとに、人的な資力を尽くして社会的に推進されたのが、「高度成長期」であったということもできる。
しかし他方で、そのように、ひどく狭い意味と世界観に押しこまれた「現実」という言葉は、じっさいに、多くの若者たちの夢を打ち砕いたり、心の奥底に抑圧するための、呪文のようなものとしてありつづけてきた。
もちろん、局所的にみれば、「サバイバルとしての現実」という状況が、個々の人たちの生きる過程で現れたりする。
しかし、だからといって、それがすべての「現実」ではないし、時代は変遷してゆくものでもある。
「現実」の三つの反対語ー「理想」「夢」「虚構」ーをもとに、日本の時代の変遷を論じた見田宗介の論考(『社会学入門』岩波新書)が示唆しているように、言葉は、それぞれの時代の状況と感覚に支えられているものでもある。
そのようにして視野をひろげてみると、狭い意味に押しこまれた「現実」という言葉が、ぼくたちの日常の会話で、あたかも真実であるかのように語られることの力学(とその強さ)に、おどろかされる。
そして、時代が変遷してゆくなかにおいても、そのような言葉が、その言葉の語る「現実」を生きてきた者たちによって、ときに、語られつづけている。
そのような「共同幻想」の強固さが、「安定」であるかのように見える世界を形づくっていたりするのである。
ひどく狭い意味におしこまれた「世界」の殻を、内から破っていくことが、これからの未来をつくってゆく原動力となる。
理想や夢などを「現実化」してゆく力である。