香港で、「Hong Kongに行きたい」と書きつけたときのことを振り返る。- ニュージーランドに住みながら書きつけたこと。 / by Jun Nakajima

ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。

1996年4月、ぼくはニュージーランドの商業都市オークランドに降り立っていた。

身体の深いところからくる衝動に導かれながら、大学2年を終えたところで大学に休学届けを提出し、東京のニュージーランド大使館でワーキングホリデーのビザを取得して、ぼくは大韓航空で韓国を経由して、ニュージーランドのオークランドに降り立った。

とくに具体的な計画をつくっていたわけではなく、とにかく、ひとまずニュージーランドに降り立つことを、ぼくは大事にした。

20歳を迎える、少し前のことであった。

 

オークランドに到着し、はじめのころは、中心街のQueen Streetにある「Aotea Square」に隣接していたバックパッカー向けの宿に宿泊していた。

街の中心にあり、ビジターセンターもあったから、なにをするにも便利な場所であったし、ぼくはその宿が気に入っていた。

ただし、オークランドに来てから「次の一歩」がうちだせず、気持ちが焦りだしたころ、宿の共有キッチンの掲示板に、たまたま「farm helper in NZ」の文字を見つけたのを契機に、ぼくはファーム・ステイをしてみようと思い立ったのであった。

オークランドを離れ、まずは温泉で有名なロトルアというところに行き、そこからファームへ移動した。

その数日間のファーム・ステイをしながら、やはりオークランドに戻って、仕事と滞在先を見つけようと、ぼくの意志は方向づけられていく。

そうして戻ったオークランドは、いつもとは違う街に見え、ぼくはそこで、仕事探しと家探しをはじめたのであった。

 

そのような、「はじまり」の不安と期待のなかに置かれながら、ぼくはなぜか、つぎのように、唐突に、日記に書きつけている。

「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」と。

 

香港へは、そこから9ヶ月ほど前に、訪れていた。

大学の夏休みを利用して、香港から広州、広州からベトナムへ行き、そこからまた広州・香港へと戻ってくるルートで、一人旅をしていた。

香港に滞在したのは、数日であった。

それほどいろいろと散策したわけではなかったのだけれど、なぜか、9ヶ月後のニュージーランドで、ぼくは「Hong Kongに行きたい」と、思ったのであった。

そんなことを書いたのは、今の今まで記憶しておらず、ほぼ20年後の今、書きつけられた文字を、ぼくは見つける。

 

大学でぼくは「中国語・中国文化」を専門としていたのだけれど、ニュージーランド滞在時から、ぼくは「国際関係論」という分野にひかれ、またその関心がやがて「途上国研究」の方向へと水路を見出してゆくことになる。

さまざまな変遷を経験しながら、ぼくは2002年、NGO職員として西アフリカのシエラレオネに赴任し、「中国・香港」からはますます距離が離れていくことになった。

そのシエラレオネの滞在中に、今でも覚えているのは、同僚が持参してくれたAERA誌に見つけた「香港SARS」の記事であった。

シエラレオネの、当時水も電気も通っていないコノという街で、ぼくはこの記事を読みながら、その出来事の深刻さを感じるとともに、出来事がはるか彼方のところで起こっているように感じたものだ。

そのシエラレオネを去り、次は東ティモール。

アジアに来たとはいえ、さらに「中国・香港」からは距離が離れていった感があった。

その感覚は、とくに良いものでも悪いものでもなく、ただそのように感じただけであり、ニュージーランドで「Hong Kongに行きたい」と思ったことなど、ひとかけらの記憶も、ぼくの意識には上がってこなかった。

 

ただし、人生の道ゆきは、ときに、思ってもみないところに、つながり、またひらかれてゆく。

人との出会いに導かれながら、東ティモールの後に向かったのが、「香港」であった。

その「香港」に来たのが2007年のことであり、それから10年以上が過ぎたことになる。

そんな地点において、ニュージーランドの日記に書きつけた「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」の言葉を見つけ、とても不思議に、そしてとても面白く思う。

 

「願いは叶う」ということだけに還元できない何かがあるようにも思う。

むしろ、「何がそんなに引きつけるのか」というところに「何か」があるのかもしれない。

「何がそんなに引きつけるのか」わからない場所や人や事柄に、ぼくたちは、生きていくなかで、引きつけられていく。

なんとなく言葉にすることもできるのだけれど、それだけでは何かが欠けているように感じる。

そんなふうにして言葉にして「何が」を突き詰めてゆくよりも、そこに、入ってみる、飛び込んでみる。

あるいは、「何が」は、<未完了な事柄>として、いずれ、じぶんのところにやってくるのだとも、言える。

そんなところから、<じぶんの生>が展開し、ひらかれてゆく。

 

ぼくの経験の地層は、ぼくにそのように語っている。

そして、ぼくはじぶんに問うてみる。

「何がそんなに引きつけるのか」と感じさせる「何」とは、今のぼくにとって何だろうか、と。