ニュージーランドで、「日曜日」に、ぼくは生活様式を問われる。- 「当たり前」の風景から離れてみて。 / by Jun Nakajima

もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。

慣れずにいたのは、日曜日には、街の大半のお店が閉店しまうことであった。

ニュージーランドに来る前までは東京に住んでいて、日曜日だって、祝日だって、夜だって、開店していることにすっかり慣れていたから、大半のお店が閉店してしまう「日曜日」を、はじめのころは、心身のリズムが合わないままに過ごしていた。

 

一方で「プラクティカルでないこと/便利でないこと」が好きになれず、他方で「(皆で一緒に)きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだと思う。

この二つが同居していて、けれども、これまでのじぶんの「生活様式」における習慣からか、また異なる文化に対してぼくが充分にひらかれておらず、柔軟性に欠けていたからか、「プラクティカルでないこと」の気持ちがより優って、はじめのころは、どうしても日曜日が好きになれずにいたのであった。

ニュージーランドに着いたばかりのころ、オークランドの中心街にある宿に泊まっていたときは、日曜日はメインストリートであるQueen Streetは閑散とし、歩いているのは観光客(日本人観光客をよく見た)であったりした。

Queen Streetにある中規模のスーパーマーケットは(確か)限定された時間で営業していたから、ぼくは、食料の買い出しにスーパーマーケットに足を運んだのであった。

 

この図式に変更が加えられることになったのは、宿住まいから、共有ハウスの一部屋を借りて過ごしはじめてからであったと思う。

ぼくを含めて7名で住む共有ハウスに移り、旅的な生活から、より生活感のある生活をするようになって、日曜日に「きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだということが、ぼくの生活のなかに入り込んできたのだ。

ある日曜日には、オークランドの街を一望できるMt. Eden(マウント・イーデン)に足を運んだりした。

 

このような生活の変化とともに、もちろん、ニュージーランドに暮らす「時間」も、ぼくの味方であった。

幾度もの日曜日を過ごしながら、幾度もの「週」を生きながら、ぼくの心身は、次第に、時間のリズムと生活様式を取り入れていくことになる。

こうして、ぼくは、静かな「日曜日」の生活に慣れていき、じぶんの生活の仕方に、ある種のひろがりを獲得していったのであった。

 

そんななか、ニュージーランド滞在の後半、徒歩縦断旅行やトレッキングやキャンピングなどをしているときは、日曜日に限らず祝祭日も大半が閉店であるから、旅程や買い出しなどにおいてより注意が必要となった。

そのような時期もあったけれども、それでも、生活の仕方における「ひろがり」の獲得は、ぼくにとって大きな体験であったと思う。

便利さを生きることもできるし、ひとつの社会の中での特定の生活様式も生きることができる。

なによりも「日曜日は休み」という生活様式を実際に生きてみることで、異なる時間と生活のリズムを心身で感覚し、そこで「見えてくる」ことをかんがえる。

どちらが良いだとか悪いだとか、結論するということではなく、異なる社会の「あり方」から、これまで「当たり前」だと生きてきた「あり方」を客観視する。

こうして、「当たり前」のように生きてきた日本の生活様式から実際に離れてみることは、ぼくにとって、とても大切な経験であった。

日曜日には近くの建設工事が「休み」になる、ここ香港で、そんなことを思う。