詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)。相田みつをの書く詩はシンプルであるとともに、書かれた文字は心の深いところにはいってゆく。
シンプルであることは必ずしも「簡単」ということではないけれども、じつは<簡単>でもある。「生きる」ことの核心は<簡単>でありつつ、しかし、実際には、複雑になってしまっていたりする。
そんなふうに書かれた、相田みつをの「書」に、ぼくはひかれる。
じぶんの心をひらいて、すーっと、うけとってみる。
「意味」を掘り下げ、じぶんの<生きるという経験>をうつしだす鏡としてみる。
あるいは、「意味」を横におき、書かれた文字ひとつひとつの強弱や大きさ、流れや空間を、ひとつひとつの文字を「なぞる」ことで追い、そこに心の機微を感じとってみる。
そんなとき、じぶんの心が、どのように「動く」か、あるいは「動かない」か、を、観てとる。
しんじつ
だけが魂を
うつみつを
ポストカード「相田みつを美術館」
相田みつをの他の書「夢中で仕事をしているときは…」とくらべると、「しんじつだけが…」の文字たちには、だれもがみてとるように、そこに激しさのようなものが現れている。
ひとつひとつの文字を心のなかで「なぞる」と、いっそう、情感が感じられる。
「しんじつ」が、<魂>としか呼ぶことのできないような領域を「うつ」経験に揺さぶられる情景が見えるとともに、いっぽうで、このことばの「見えないところ」(背後に、余白)に、「しんじつではないもの・こと」の経験がいっぱいに重ねられてきたように、ぼくには見える。
「しんじつではないもの・こと」の経験、それらがじぶんの言動であれ、他者たちの言動であれ、社会の状況であれ、そのような苦い経験がまるで<土壌>となって、書の文字を力強く「芽」立たせている。
高度経済成長後の日本を特徴づけてきた「虚構の空間・虚構の時代」(見田宗介)。日本だけにかぎらず、高度産業社会を特徴づけてきた「虚構性」である。
そんななかにあって、「しんじつ」は、どのように語られるか。
相田みつをのことばは、ぼくにとっては、この虚構性をいっきにつきやぶるようにして、きこえてくる。