中原中也の書く「宮沢賢治の詩」。- <感性の新鮮>に泣く精神。 / by Jun Nakajima

🤳 by Jun Nakajima

 

詩人の中原中也(1907-1937)は、宮沢賢治の「心象スケッチ」である『春と修羅』の「十年来の愛読者」であった。

宮沢賢治が亡くなってから「宮沢賢治全集」が刊行されたとき、宮沢賢治が「認められること余りに遅かつた」と不思議に思い、また気が休まらなかった中原中也は、愚痴っぽい文章と自身が語る文章で、この「十年来の愛読者」のことにふれている(中原中也「宮沢賢治全集」青空文庫)。

中原中也をよく読み、よく知る人たちにとっては、誰もが知るところなのかもしれないけれど、ぼくの勝手な印象の世界では、中原中也と宮沢賢治はだいぶ距離があった。「詩人」ということでは同じであるのだけれども、詩の読後感から、とても距離があるように感じる。

だから、中原中也が『春と修羅』の十年来の愛読者であったということに驚き、また興味をおぼえたのだ。

さらに、中原中也が「宮沢賢治の一生」をきりとることばに、ぼくは共感しつつ、とてもひかれるのである。


 人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があって、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であったと云うことが出来る。

中原中也「宮沢賢治の世界」青空文庫


これだけでも充分ではあるのだけれど、宮沢賢治の「一生」から、宮沢賢治の「詩」へと焦点をしぼりながら書いた中原中也の文章も、ここではとりあげておきたい。


 彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶまゝを、ーつまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。

中原中也「宮沢賢治の詩」青空文庫


「一生」であっても「詩」であっても、中原中也はそこに「宮沢賢治」を鮮烈にとらえており、「要するに」と、つぎのようにことばを足している。


 要するに彼の精神は、感性の新鮮に泣いたのですし、いよいよ泣かうとしたのです。…

中原中也「宮沢賢治の詩」青空文庫


<感性の新鮮に泣く>という表現に、目が留まる。

宮沢賢治の<感性の新鮮>という核心をつきとめながら、中原中也らしく(ぼくにはそう見える)、「泣く」という表現をしている。

「詩の作風」においてはだいぶ異なるように(ぼくには)見える中原中也と宮沢賢治なのだけれど、中原中也は宮沢賢治と彼の詩の本質にいっきに迫っていることに、ぼくはやはり興味をおぼえる。

「だから?」と問われるかもしれない。そんなことを学んでも「役に立つのか?」という問い。

「詩」に向けられてきた問いであるかもしれない。「何の役に立つのか?」と。

ひとつ述べておくのであれば、これからの時代において、<感性の新鮮>ということがいっそう、ひとが生きるという経験のひろがりとふかさを支えてゆくものであることだ。ぼくはそう思っている。