ヒトの歴史は「自然の世界」に対する「脳の世界」の浸潤の歴史(養老孟司)。- 『唯脳論』とぼくの出逢い。 / by Jun Nakajima

「意識」そのものを考える。「意識」によって考えられたことを議論するのではなく、「意識」自体を議論の俎上にのせる。このタブーとされてきたことを解き放つ試みとしての『遺言。』(新潮新書、2017年)にふれながら、ブログ(「「意識と感覚」の<段差>を意識する。- 養老孟司の提案。」)を書いた。

ちょうど、養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫、1998年)も読み返していたところであった。『唯脳論』は、あいかわらず、スリリングな本である。まったく古くなることのない本だ。


『唯脳論』との出逢いは、もう20年以上まえのことになる。20年以上まえに、「発展途上国の開発・発展」を研究していたぼくは、『開発とは何か』という主題で修士論文を準備していた。開発・発展の「方法」を学ぶなかで、「そもそも論」として「開発とは何か」をきっちりと見定めておきたくなったのである。

開発・発展にたずさわる人たちそれぞれが、それぞれの考えを暗黙の前提にして、つまり明確に明示することなく「方法」を語っているように思えたのだ。だから、ときに議論がかみあっていないように見える。「何」や目的を間違ってしまうと方法をいくら変えても、目指すところからそれていってしまう。だから、きっちりと見定めておこうと、ぼくは思ったのである。

「発展途上国の開発・発展」と「唯脳論」(ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場)が、どのようにつながってくるのか。

唯脳論の定義にあるように、ぼくは視界を思いっきりひろげながら、「ヒト」というところまでひきのばして、「人間社会の発展」のなかに、発展途上国を含めた現代社会を位置づけたのだ。

大雑把に言ってしまえば、「自然からの解放・離陸」ということである。

「ヒトの歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史だった」と、養老孟司は『唯脳論』のはじめに書いている。そのことを、人は「進歩」と呼んだのだと。こうして、いまあるような社会を「脳化=社会」と呼び、養老孟司は議論をすすめている(管理社会化も、身体性も、ダーウィンも、哲学も、三島由紀夫の生と死も)。

このように、現在ある社会を歴史の大きな流れのなかに描いておくことで、ぼくは「開発とは何か」ということ、そしてこの「何か」の未来の方向性を確認したのである。


明示しておきたいのは、このことは、「発展途上国の開発・発展」ということとともに、先進産業国に住むぼくたち自身の問題・課題である。

人間や人間社会が何を求め、どのように「進歩」し、そして「どこに」行こうとしているのか。

20年ほどまえの当時、人間は、そしてもちろんぼく自身は、「何のために」勉強をし、仕事をし、生きているのだろう、という問いが、ぼくのなかで切迫していた。

そんななかで出逢った本の一冊が、養老孟司の『唯脳論』であった。

『唯脳論』は、すぐに何かを解決してくれるものではないけれど、ぼくが「世界」を見る見方を変えてくれるものであった。そのようなものとして、「脳化=社会」というコンセプトを、ぼくは修士論文で引用した。

そして、いま『唯脳論』を読み返しながら思うのは、それは、いっそう、「ぼく自身」(あるいは、ヒト自身)を見る見方を変えてくれるものであることである。

もちろん、すぐに何かの問題を解決してくれるものではないけれど、ぼくたちの脳、あるいは「意識」がどのようであるのか、その法則性を知っておくことで、そもそもの問題・課題のありかを見定めておくことができる。

それは、とても重要なことである。ぼくはそう思う。