「不死」のテーマをおいつづけて。- 養老孟司の「不死へのあこがれ」という文章を導きとして。 / by Jun Nakajima

著書『Homo Deus』で、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は、人類が「飢饉、伝染病、戦争」を管理可能な課題にまでもってきたことを指摘しながら、人類が次に直面する課題は、次の3つとしている。


● 不死
● 幸せ/至福
●「神的な領域」に入ること

このうちの「不死」ということについて、とりあげたい。

最近読み返している養老孟司の本のなかに、「不死へのあこがれ」と題される、興味深い一節があったからである。それに、触発されたからである。


「不死」ということを、ぼくはときおり、思い、考える。

「不死」を痛切にねがうわけではないけれど、ぼくの内奥のどこかに「不死」をねがう気持ちがないとはいえない。以前は、死をおそれて「不死」を思うこともあった。

あるいは、これまでの人間の歴史をひもとくと、「不死」が語られ、希求され、それがなんらかの形となって残されているのを目にする。

「不死」のこれまでとこれから。

これから、テクノロジーの進展とともに、「不死」が追求されてゆく(いまも、追求されている)。

それにしても、「不死」への衝動を、根源的なところでひきおこしているのは、なんであろうか、どのようなメカニズムであろうか。

養老孟司の著書『遺言。』(新潮新書、2017年)のなかの一節「不死へのあこがれ」は、このような問いに応える。「意識」が考えることではなく、「意識」そのものにわけいることで、「不死」へと向かう(向かわざるをえない)「意識」について書いているのである。


「不死」を語るさいに、ヒトが必死に「デジタルの世界」を作ろうとするのはなぜか、という問いを、養老孟司は話の導入としている。

このような問いに、コンピュータのようなデジタル世界は、便利・合理的・経済的だからと、多くの局面では応える。この説明の仕方を「機能的な説明」と養老孟司は読んでいる。

人体でいえば、「心臓は血液を送り出すポンプである」という言い方であり、それで人は納得するし、この言明はわかりやすいから、「人工臓器」として心臓が最初につくられることになる。

この「裏にある暗黙の意図」をおう。

人工臓器は具合が悪くなれば変換する。この論理を延長してゆくと、この意図がわかるというのだ。

それが、「不死」である。

「不死」と「デジタル」の関係性が、ここで語られることになる。


…デジタル・パタンとは、永久に変わらないコピーだと述べた。なんとコンピュータの中には、すでに不死が実現されている。デジタル・パタンが死にそうになったら、つまり消えそうになったら、どんどんコピーを作ればいい。だからクラウドなのである。どこにコピーが存在しているのか、よくわからないけど、ともかくどこかにコピーが存在している。これをいたるところに置けば、実際的には死にようがなくなるではないか。だから自分の記憶、感情のすべてをコンピュータに入れたらどうなるんでしょうね、という質問がなされる。その暗黙の裏は「俺は死なない」ということであろう。

養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)


これにつづけて、さらに、とても興味深い「考え方」が書かれている。

骨子は「空間の支配から時間の超越」。ヒトは、空間を支配しようとし、空間の支配が達成されると時間の超越という課題ぶつかり、その課題を解決しようとしてきたということである。

「空間の支配」の衝動につきうごかされながら、たとえば、かつてのローマ帝国や大英帝国ができた。空間を支配したところに、「時間の超越」という課題があらわれる。そこで、たとえば、秦の始皇帝は万里の長城を作り、エジプトの王たちはピラミッドを作る。石で作った巨大な建造物は、時間を超えて、いまでも残っている。

さらに、時間の超越のためにつかわれたのが「文字」である。養老孟司はそう指摘する。書かれたものは永久に変わらない。巨大な建造物をつくる必要もない。そうして、巨大な建造物に変わって、文字が「永久」をつくりだしてゆく。

そして、その延長線上にデジタル・データがあり、そこで時間の超越は終止符を打つ。


「時間と空間」というテーマは、ぼくにとって大きなテーマである。これからの「生きかた」をふりかえり、考え、その未来を構想するときにも、この二つの軸が「人生マッピング」のうえでも役に立つ。でも、そのような功利的な思考をとらなくても、このテーマそのものはぼくの好奇心がうずまくところだ。

それにしても、この「意識」そのもののメカニズムから、歴史をきりとり、現代社会をきりとり、また生きかたをきりとると、いろいろなものごとが「違って」見えてくる。

なお、「耳が時間、目が空間」をとらえるものであり、この二つを統合するのが「言葉」であるということを、養老孟司はべつのところで書いている。が、ここではそこには立ち入らないことにする。

ともあれ、「意識」そのものが、空間を支配し、時間を(ある意味)超越しようとし、不死を希求する。デジタル・データがある意味で時間の超越に終止符を打つようなものであるものとして、しかし、ヒトは、徹底的に、ほんとうに徹底的に、この「不死」をデジタル・データを駆使しながらさらに追求している。

ユヴァル・ノア・ハラリが書くように、「不死」は、残された人類の課題のひとつとして、徹底的に追求され、これからも追求されてゆく。


「意識」は、ヒトの身体に左右されるからべつに偉くないのだけれども、意識はそれが気にくわず、意識が偉いのだと主張しながら、不死を希求する。世界を支配しようとする。養老孟司はそう書く。


 ヒトの生活から意識を外すことはできない。できることは、意識がいかなるものか、それを理解することである。それを理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはずである。それはそんなに難しいことではない。

養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)


知性。これも(ある意味)「意識」の産物とも言えるけれど、その知性のもっともすぐれたところのひとつは、「いかなるものかを理解する」ことである。

「意識」そのものを意識する、理解する。そこに<出口>がある。「意識」は意識そのものの性質と機能のなかに、みずからの<出口>を装填している。