人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。
ぼくが知るところ、それほどは、直接的に語られていない。
見田宗介がどのように「リーダー」を語るのかは興味深いところだ。
個人的に「リーダー」というものを見直しているなかで、そんなことを思う。
そのような折に、一息ついて見田宗介の著作集(『見田宗介著作集X』岩波書店)を手にとり、「春風万里ー野口晴哉ノート」という論考(講演)の文章を、ぼくは読む。
どんなにつかれているときでも、見田宗介(真木悠介)の文章を読んでいると、心身がときほぐされていく。
論考の最初の章は「春風万里ー技を修めて技を用いず」と題され、整体の創始者と言われる野口晴哉の『治療の書』という、「分類不能の書」にふれている。
その中で、見田宗介はエピソードのひとつを語っている。
東演という劇団の演出家が亡くなり、若い俳優の相沢治夫が劇団をひきつぐことになったときの、激励のパーティーでの話である。
パーティに出席していた野口三千三(「野口体操」の創始者。野口晴哉・野口整体とは別である)が、相沢治夫をそばに呼んで、次のようにささやくのを、見田宗介は隣席で耳にする。
「リーダーはむつかしいぞ。利口でだめ。馬鹿でだめ。中途半端はもっとだめ」
見田宗介は、「指導者となるべき人間の器を問う観察として、鋭く的確な表現」と、この論考(講演)の時点でも考えていることを伝えている。
見田宗介の「リーダー」論があるとすれば、とりあげられる言葉だ。
野口三千三の言葉は、見田宗介が言うように、的確でありながら、人を迷わせる。
利口はだめ、馬鹿はだめ、その中間もだめであるならば、リーダーはどのようであるのがよいのか、と。
見田宗介は、ここで論考のテーマである野口晴哉にもどる。
『治療の書』の冒頭に近い所に、このような一節がある。
技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。
技を修めて、技を技として振うのが利口の道である。技をはじめから修めないのが馬鹿の道である。技を修めて技を用いずという道は利口でも馬鹿でもないが、その中間ということでもない。人はこのような仕方で、利口とか馬鹿とかいう地平を越えて出ることができる。
見田宗介『見田宗介著作集X』岩波書店
野口三千三の言葉、野口晴哉の「技」にかんする到達点(通過点)、見田宗介による読み解きは、ぼくの中に思考の芽を点火する。
「技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。」
ぼくの中の思考の大海に、ぼくは言葉を投ずる。
しかし、観念だけの大海ではなく、体験や経験と重ね合う思考の大海だ。
野口晴哉や野口三千三や見田宗介といった「身体」から人や社会を考える、ほんとうの思想家たちと(ぼくの中で)議論を交わしながら。