「War is over, if you want it…」。
争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。
John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲のひとつである「Happy Xmas (War is Over)」のバックコーラスが届ける歌詞である。
ジョン・レノンが主旋律を歌いながら、ヨーコとハーレムコミュニティ合唱団の子供たちが声を奏でている。
2002年から2003年にかけて、戦争が停戦に至ったばかりの西アフリカのシエラレオネに赴任していたときも、それから2003年から2007年初頭にかけて、独立したばかりの東ティモールにいたときにも、この名曲はぼくの深いところで、力強いメロディーと歌声で鳴り響いていた。
シエラレオネは停戦に至っていたけれども隣国リベリアは内戦が激化していて、難民がシエラレオネに押し寄せていた。
独立したばかりの東ティモールは平和を維持してきたけれど、2006年になってディリ騒乱が発生し、国内避難民を発生させた。
そのような現実に身をおきながら、国際支援を展開しているぼくの内面を、ジョン・レノンの歌が支えてくれていた。
「争いは終わる、望むのなら」と。
東ティモールの首都ディリでの騒乱は、ふりかえるのであればその前触れはいっぱいに集められるけれど、騒乱へと突如に落ちてゆく行き方は(万が一の準備はしつつも)あまり予測されない事態であった。
ディリ中心街の銃撃戦の場に、ぼくはいつのまにか置かれ、翌日には東ティモールを退去せざるをえない状況になった。
すぐにもどる予定が、国際支援の制度上のしばりにしばられ、なかなか戻れず、日本から遠隔でプロジェクトを指揮していた。
ディリの状況はよくならず、情勢は不安定さを増していくことになる。
その間、しばりのない他のチームがディリに入り、国内避難民の支援をはじめていた。
そうして情勢が若干の落ち着きをみせはじめたころ、ディリを退避してから数ヶ月後に、ようやく、ぼくはディリにもどることができた。
2006年9月のことだったかと思う。
不安定さはまだ残り、慎重な支援事業を展開していった。
一時は恐れたコーヒーの出荷を、コーヒー生産者たちとチーム一丸で、ぼくたちは達成した。
出荷作業も終わり、そのフォローアップも落ち着いたのは、2006年の末であった。
クリスマスは、ぼくはディリにいた。
いたるところで小競り合いがつづくディリであったけれど、クリスマスの前あたりから、街は「落ち着き」を得ていた。
クリスマスの夜、事務所の前からディリの山腹をながめながら、ぼくはじぶんのなかで、つぶやいていた。
War is over, if you want it…
争いをつづけている人たちであっても、「クリスマス」という、カトリック教徒であろう彼らにとって大切な日には、争いをとめることができたのだ。
その事実に、ぼくは少し安心した。
<共同幻想としてのクリスマス>という、人間的な事象はくずれることなく、生きつづけている。
完全に人間がこわれてしまったわけではない。
ジョン・レノンの歌にこめられた<共同幻想>を書き換える企ては、その根拠をもっていることを、ぼくは争いが続く場で感じたのだ。
望めば、争いは終わるのだ。
たとえ、それがつかの間のことであったとしても。
今では東ティモールは、ふたたび、平和な日々をとりもどしている。
東ティモールにいる間、「Happy Xmas (War is Over)」の東ティモール版のようなバージョンを収録したいと、ぼくはかんがえていた。
ニューヨークのハーレムコミュニティ合唱団に替わって、東ティモール合唱団(あるいは世界の合唱団)のような合唱団がバックコーラスの歌声を奏でるというものだ。
そのときはその夢を形にすることはできなかったけれど、ぼくの「人生でやりたいことのリスト」にひきつづき含まれている。
ここ香港でクリスマスイブをむかえるなかで、ぼくはその夢をおもいだす。