海外・異文化

東ティモール騒乱 ー 東京での一本の電話 by Jun Nakajima

2006年、東ティモール騒乱。
独立後平和を取り戻していた東ティモールの街に
また銃声が響く。

ハンドルを失った東ティモール政府は、オーストラリア
政府など、他国に支援を要請。
同日には、他国の軍隊が上陸する。
翌日には、ぼくたちは、インドネシアのジャカルタに
退避。それから、東京に戻ってくる。

他国の軍隊が首都ディリに入ったものの、
情勢は即座にはよくならない。

首都ディリに戻りたい一心のぼくは、
関連機関から許可がおりず、日本で待機する。

夕方、仕事場から家に電車で帰宅途中のぼくに、
一本の電話が入ってきた。
国外からの電話で、緊急事態と思い、
ぼくは、静かな電車の中で、携帯電話に出る。
やはり、東ティモールのスタッフからだった。

「事務所が危ないんです。事務所の備品を退避
させますが、よいですか?」

緊迫した声だった。
首都ディリの事務所の周辺が不安定性を増していた。
事務所の警備員と事務所周辺のコミュニティが、
事務所を守ってくれている。

携帯電話が使えない日本の電車だったが、
ぼくは、静かに、話す。
ぼくは、次の停車駅である板橋駅を待って、
そこで下車することにした。

事情を聞き、ぼくは「ゴー・サイン」を出し
安全第一を伝えて電話を切る。

電話を切ると、板橋駅のプラットフォームの
静けさに包まれる。

東ティモールの首都ディリと東京。
ぼくは、その「間」で、不思議な感覚に捉えられる。

そして、ぼくは思いを、ディリに戻る日に向けて
投げかける。

旅行で日本を訪問した人たちから。ー「道案内」という光 by Jun Nakajima

日本に旅行で訪れた人たちと話す。
日本での経験談を聞く。

しばしば耳にするのは、この二つである。

①日本は(道など)「きれい」である。
②日本人は「親切」である。

日本人は親切である、ということの経験は、
「道案内」を受ける経験からだ。

道に迷う外国の人たちが、道を尋ねる。
そうすると、丁寧に道案内を受ける。
時には、夜遅いからと車でおくってくれるなどの
経験をする。
遠くまで、一緒に歩いて、教えてくれる。

このような経験が、日本・日本人の印象をつくる。
これは、ぼくたちが想像する以上に、深い印象を残す。

「道案内」ということが、道に迷う人たちに
「光」を与える。

迷っているという暗闇への光。

「日本人」というイメージへの光。

そして、人間性への光。

この小さなことの積み重ねが世界をつくる。

ニュージーランドで「本」に開かれる by Jun Nakajima

ワーキングホリデー制度を利用して
ニュージーランドに滞在していたときは、
ぼくはオークランドの日本食レストランで働いていた。

休日は、オークランドの散策。
その一つに「オークランドの図書館」があった。

ニュージーランドに来る前まで、ぼくは、普段
本を読んではいなかった。
大学の授業で指定された本を読んだりすることは
あっても、進んで本を読んだりはしない。

そんなぼくが、ニュージーランドの図書館を訪れ、
本棚を眺め、本を手に取る。
英語を学ぶ機会とすることもあったのだけれど、
それ以上に、ぼくは、学びたくなったのだ。

手に取った本のなかには、「国際関係論」があった。
学術的な本である。

その後、オークランドの古本屋に行っては、
「The Twenty Years’ Crisis」(E.H. Carr) などの
国際関係論の本を購入したりした。
(大学休学を終え、大学に復帰したとき、
ぼくは、アメリカ人の教授による「国際関係論」の
ゼミに参加することになる。)

ニュージーランドから東京に戻り、
大学に戻っていくなかで、
いつのまにか、「本」が日常の生活になくては
ならないものになっていった。

読めば読むほど、次の本が読みたくなる。
ジャンルを問わず、興味のむくままに、読む。

ニュージーランドの図書館で、
ぼくは、何を通過したのだろうか。
ぼくは、何を得たのだろうか、
あるいは、何を失ったのだろう。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(2)90マイルビーチ by Jun Nakajima

なにはともあれ、1996年、ぼくは、ニュージーランドで
徒歩縦断を目指して、歩くことにした。

オークランドを出て北端に向かう。
北端に行くことから、すでに困難の連続であった。

また、北端といっても、北端周辺に何かがあるわけでもなく、
ぼくは道らしき道のない田舎道を歩いて、北上することになる。

「歩くこと」は、ただ歩くのではないという事実も、
身にしみて知ることになる。
背中には18キロ程の荷物を背負うのだ。
この重さには、さすがに、まいってしまった。

さて、北端のポイント、レインガ岬に到着する。
そこから、ぼくは、海沿いのルートを選択。
90マイルビーチ」と呼ばれ、海岸線が延々と続くルートである。
誰もいないビーチで、海の光景も絶景である。

しかし、背中の荷物が、ぼくにのしかかり、途中からは
自分との闘いになってしまう。
ビーチを堪能する余裕はなくなってしまう。

特に、水が重い。
ビーチのどこにも、水道はない。
だから、節約しながら、ぼくは水を飲む。

歩いても歩いてもビーチが続く。

夜はビーチから内陸に入る境界線あたりでテントを張る。
ここなら、波はやってこないことを確認する。

内陸から水がちょろちょろと流れ出ている箇所を見つけ、
ぼくは、安堵と共に、その水を採取して夕御飯をつくる。

また、明日も、ビーチを延々と歩くのだ。
まずは休養をきっちりと取っておこう。
ぼくは、海岸線に鳴り響く波の音を耳にしながら、
眠りにおちる。

(続く)

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(1)目標 by Jun Nakajima

1996年、ぼくは、大学2年を終えたところで1年間休学し、
「ワーキングホリデー」に出ることにした。

当時、日本がワーキングホリデー制度を締結していた国は、
オーストラリア、カナダ、ニュージーランドであった。

ワーキングホリデー制度の「王道」であったオーストラリアに
行きたかったのだけれども、人数制限のため、申請ができなかった。
第二候補のカナダも、申請時期か何かの問題で申請ができない。
残るは、ニュージーランドということで、アルバイトで貯めた
50万円程を手に、ニュージーランドに行くことになった。

ニュージーランド滞在中、ひとつの「目標」を定める。

・ニュージーランドを「徒歩で縦断」すること

当時、ワーキングホリデー中に、自転車などを利用して
国を一周したり縦断したりということが、「やること」の
ひとつとして一部に定着していた。

ぼくは、そこで、自転車ではなく「徒歩」に決める。
大学1年から2年にかけて東京でやっていたアルバイトで、
ウェイターとしては毎日とことん歩いていたからである。

到着して半年ほどは、オークランドの日本食レストランで
働きながら、生活を楽しむと共に、「準備」を進める。

アウトドアショップに行き、靴・上着・テント・簡易ガスなど
を購入する。地図も手に入れる。

そして、一軒家に同居していたフラットメートたちに見送られて
ぼくは、「徒歩縦断」の旅に出る。
ルートはニュージーランドの北端から南端を目指すことにした。
北端の方が、住んでいたオークランド(北島に所在)から
近いこと、また南島はまだ冬が明ける時期で寒いことが
理由であった。

当時も、今も、なぜこんなことしたのかはよくわからない。
でも、ぼくは、とにかく、歩くことにしたのだ。

(続く)

最初の「扉」となった書籍 - "The Success Principles" by Jun Nakajima

自己成長・自己啓発関連の書籍の中で、最初の「扉」となった書籍は
Jack Canfield “The Success Principles”であった。

2007年初頭、休暇を過ごすために東ティモールから来ていた
香港の書店で、ぼくは、たまたま、この書籍を手にする。

ずっしりと厚さと重みのある書籍である。
「成功原則」が67項目にわたり書かれた書籍で、600頁以上もある。
(日本語翻訳版は、項目を絞って出版されている。
読みやすい英語であるから、ぜひ英語でも読んでほしい著作である。)

600頁以上もあるけれど、休暇中のぼくは、シドニーシェルダンの
小説を読むがごとく、時間も忘れてのめりこんでしまった。

「成功原則」は、できるものから、すぐに実行に移した。
東ティモールに戻ってからも、実際にワークショップで使ってみた。

ぼくにとっては、すぐに「結果」が伴うものではなかったけれど、
今の時点から見ると、いろいろな仕方で「結果」が出てきている。

また、書籍は、様々なトレーナーやスピーカーや著者などの情報に
充ちていて、ぼくは、この書籍を「基地」として、様々に探求して
いくことになったのだ。

書籍は、このような「基地」があると、その拡がりをみせていく。
そのような書籍に出会えたことは、奇跡である。

「旧正月」を生きる by Jun Nakajima

香港や中国、その他中華圏では、毎年1月あるいは2月には、旧正月を迎える。
旧暦による正月で、時期は毎年変わる。
2017年は1月28日が旧正月にあたる。

海外に出て、旧正月が生活や仕事の中に入り込んできたのは、
東ティモールでのことであった。

東ティモールでは、中国系インドネシア人がビジネスを展開していた。
例えば、建設用の資材などを扱う店などである。
ぼくたちも、プロジェクト用の資材を調達する必要があり、
しばしば店に足を運んだ。
ただし、旧正月前後は、資材の入荷がストップした。
店の「ボス」である中国系インドネシア人も、休暇を過ごすため
国外に出てしまい、交渉ごとなどが滞ってしまう。

だから、旧正月を見越し、プランを立てる必要があった。
2007年に香港に移住してからは、旧正月は完全に生活の一部となった。
香港では、旧正月に始まる3日間は、法定の休日である。

今でも、香港の方や華人の方から、聞かれる。

「日本は、旧正月は祝うのですか?」

「日本は旧正月は祝いません。1月1日です」と回答をしながら、
時折、ぼくは考え込んでしまう。
日本も明治維新の前は旧正月を祝っていたという。
旧正月を祝っていた日本人は、どのような感覚を持っていたのだろう。

旧正月を祝うことには、すっかり慣れてしまった。
旧正月が明けると、新年が完全に明けたことを感じる。

春の訪れを微かに感じながら、自分の1年プランをレビューし、
ぼくは1年の一歩を進む。

紛争とクラシック音楽 by Jun Nakajima

最近はクラシック音楽を聴くようになった。
香港で、クラシック音楽を聴く。
香港には、世界から一流の奏者がやってくる。
規模が小さい香港だけれど、これはよいところだ。
Lang Lang以外であれば、チケットも比較的容易に手にはいる。

それにしても、ぼくにとってのクラシック音楽は、小学生から
10代にかけて退屈極まりない音楽であった。
だから、ぼくは、ロックやパンクロックにはまっていく。
10代は、そのような音楽のバンド活動に熱中していったのだ。

時を経て、ぼくは、海外ではたらくようになる。
最初の赴任地は、西アフリカのシエラレオネ。
赴任した当初2002年は、紛争終結後間もない時期である。
国連が組織する平和維持軍が駐屯する国であった。

シエラレオネでは、紛争の傷跡を見て、心身の深い痛みを
負う人たちと接触し、暮らし、仕事をしていく。
そのような生活をおくっていくなかで、いつからか、ぼくは
クラシック音楽を聴くようになっていた。

そもそも、クラシック音楽が生まれた時代は、
戦争や紛争が絶えない時代でもあった。
クラシック音楽の美しい調べには、痛みや悲しみが
埋め込まれているのだ。

クラシック音楽を聴きながら、ぼくは、音楽がつくられた時代の
人たちのことを思う。
そして、この現代において戦争や紛争に翻弄されてきた人たちの
痛みや悲しみを感じ、祈りと微かに光る希望を抱く。

東ティモールでの「バックミュージック」 by Jun Nakajima

人生には「バックミュージック」が流れている。
あの風景、あの場面、あの状況に、バックミュージックが流れている。

東ティモールに住んでいたとき、二つの音楽が、ぼくのバックミュージックであった。

一つは、五輪真弓の「心の友」である。
インドネシアでも大ヒットしたこの曲は、東ティモールでも人々の心を捉えていた。
なぜか、この曲は、東ティモールという土地にしみこんでいく。

そして、もう一つは、ブライアン・アダムスの音楽である。
2005年前後、ぼくは、東ティモールで、ブライアン・アダムスの音楽をいろいろな場面で聞いていた。
信号もない首都のディリ。夜はわずかに光る街灯。その風景の中で、ブライアン・アダムスが、バラードを歌う歌声は、心情の深くに響くメロディーを届けていた。

音楽は、その場所にいるときにも増して、その土地を離れ耳にするときに、ぼくたちの心情をさらっていく。
音楽は、時間も、そして空間も超えていく。

2017年1月。ブライアンが、香港のステージで、「(Everything I Do) I Do It For You」を歌うのを聴きながら、ぼくの心情は「あの世界」に運ばれていく。

シエラレオネと言葉 by Jun Nakajima

2002年から2003年にかけて、ぼくは、西アフリカのシエラレオネで仕事をしていた。
シエラレオネで仕事をしているとき、ぼくは、感じていること・思っていること・考えていることを「言葉化」することが、ひどくつらくなってしまった。

仕事をこなしていくこと、現実に対応していくことで精一杯であったこともある。
ひどく混乱してしまったこともある。

仕事が終わると、ぼくは事務所(兼住居)の前に椅子を持ち出し、考え事にふける日々が続いた。
「現実」の中で、言葉を失ってしまった。
「現実」に圧倒されてしまった。
シエラレオネには延べ1年近く滞在することになったのだけれども、ぼくは、言葉を紡ぎ出すことができなかった。

人は、時として、自分の言葉を凌駕するような現実に出会う。
自分の言語空間がつくりかえられていく経験をする。
破壊と創造。

社会学者の見田宗介が、バタイユの言葉を転換して述べるように、「創られながら創ること」。
何かを創ってきたというよりは、創られてきたという感覚の方が大きい。

シエラレオネでの仕事から、10年以上が経過して、ぼくはようやく「自分の言葉」をつむぎだしていく素地ができた。
ぼくは、今こうして、言葉をつむいでいる。

写真家との出会い - シエラレオネにて by Jun Nakajima

2003年にシエラレオネで仕事をしていたとき、ある写真家の方に出会った。

写真家の彼は、岩波書店の戦争シリーズのなかの1巻を創作するために、西アフリカのシエラレオネとリベリアに取材に来るという。ひどく忙しい日々がつづいていたけれど、同世代の彼の取材に、ぼくは出来る限りの協力を提供した。

彼と過ごす内に、彼がパレスチナで片目を喪失したこと、彼の父親は自殺されたことなどを知ることになった。そんな彼が、戦争の途方もない傷痕を負ったシエラレオネの人々と、笑顔で陽気に戯れている姿を見ていると、彼自身の痛みや哀しさが、シエラレオネの人々の痛みや哀しさと、底のほうで共振しているように、ぼくには見えた。

その彼が、当時内戦が続くリベリアに旅立っていった。首都モンロビアはまだ銃撃戦がつづいている危険地帯。一歩間違えば、確実に生命を落とす空間。シエラレオネのスタッフたちを含め、皆が心配していた。

その後、彼から連絡もないまま、ぼくは日本で休暇を過ごすことになる。その移動のため、シエラレオネの首都フリータウンの空港にいたぼくは、そこで偶然にも、彼に再会した。懐かしい声が遠くから聞こえ、ぼくは驚嘆と共に安堵したことを覚えている。彼も、リベリアでの取材を終え、日本に帰国する途上であった。

飛行機を待つ間、また飛行機の中で、またロンドンの空港で、ぼくは彼の話に耳をかたむける。リベリアの首都モンロビアの街中は依然として戦闘が続き、死体は散乱し、コレラが子供の命を奪っている。フリータウンの空港では、CNNがモンロビアの状況を映し出していた。瞬間、ぼくの身体にはとても冷たいものが貫き、身体が悲しみでいっぱいになった。身体の悲しみはとめどなく湧いてくる。なぜか、シエラレオネの人々の悲哀と憎悪が、ぼくの身体と心にどくどくと浸透してくるのであった。シエラレオネを離れ、ロンドン経由で日本に帰国したぼくは、気づかない内に、身体に多くのものを背負っていた。

「彼」の作品は、その後、雑誌『アエラ』に掲載され、また当初の目的どおり、ひとつの作品となった。

彼が後日送ってくれた、その作品、亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)というフォト・ドキュメンタリーの写真一枚一枚に引き込まれ、ぼくは、身体と心にひどい痛みを感じる。

でも同時に、痛みを知る彼だからこそ、そんな作品ができたのだとも感じる。見るたびに、痛みが身体に伝わってくる写真を見ながら、ぼくはアフリカの戦争とそこに住む人々に思いを馳せる。そして、亮さんの一連の写真に時折織り込まれている、人々の絶望的なまでの「祈り」の写真のように、ぼくも心で絶望的なまでに叫びながら、でも静かに、この世界に光をさがす。

香港における「安心」 by Jun Nakajima

香港は「お金」だと言われる。
企業と人との関わりも「お金」が中心である、と言われる。

お金を「汚いもの」と見がちな日本人は、お金での繋がりは「企業に対してロイヤリティがない」と感じる。

香港という「不安定な都市」では、お金は「安心」である。
頼るのは、家族とお金である。
人生の「根」が、そこに在る。

でも、だからこそ、家族とお金だけではない「根」を探し求める人たちもいる。
新しい「コミュニティ」が、どう形成され、どこに向かうのか。

本屋と香港 by Jun Nakajima

2016年も、その終わりに近づいていた頃、(当時勤務していた)事務所近くに位置している大型書店が閉鎖された。

それは突然の出来事としてやってきた。

お昼のランチを買いに、ショッピングモールの人混みをかきわけながら、ぼくはその書店の入り口が閉じられていることに気づく。

張り紙をみると「一時的」な閉鎖であるように見受けられる。
でも、その後、一向に店舗が開く様子がないところ、ニュースで、その書店が「完全に」閉鎖されたことを知る。

「本」が読まれなくなってきているなか、あるいは電子書籍が普及していくなか、書店の閉鎖は予期せぬものではないけれど、それはやはりショッキングであった。

ぼくは、人生や仕事で悩んでいるとき、本屋にいく。東ティモールの騒乱から日本へ一時避難していたときもそうだし、ここ香港でも同じである。

人は、インターネット上に広がる「情報」を得る。検索エンジンでキーワードをタイプし、「答え」を求める。ぼくも時にはそうする。得たものも多いけれど、ぼくたちは、そこに、「何か」を失ってしまったように感じる。

紛争と本屋 - 東ティモール騒乱から by Jun Nakajima

2006年、東ティモールでの騒乱から逃れ、インドネシアのジャカルタを経由して東京に戻る。

銃弾が飛ぶ音がぼくの意識に残る。
小さな、はじけるような音がすると、身体がびくっと反応する。

車両から降りて、建物の敷地に入った途端に、後ろで銃撃戦が繰り広げられる。
何時間にも渡って、断続的に、銃撃音が鳴り響く。

銃弾だけでなく、石が投げつけられる怖さから、ひらけた空間が居心地が悪い。
一度、ぼくたちの車両が、走行中に大きな石を投げつけられたことがある。
幸いにも、車窓ではなく、車体にあたった。

戦争は、ぼくを、どこか、荒涼とした心情空間に投げ込む。

東京に戻ったぼくは、気がつくと、渋谷の本屋さんに立ち寄っている。
本屋さんに広がる、様々な想像や物語が、ぼくの荒涼とした心情空間に色彩を与え、そっと癒してくれる。

東京に戻り、そんな日々が続く。
本屋さんで見つける、何でもないタイトルに、心が温まる。