成長・成熟

中国語を学ぶ ー 経験から。 by Jun Nakajima

ぼくは、10代の頃、英語を学ぶことが好きであった。
英語を学んでいる間、日本にいても「今ここではない」世界に
行くことができる感覚をもつことができたからかもしれない。

英語を「武器」として、大学入試をなんとか通過した。
大学では、1990年代初頭に「中国の時代が来る」と言われて
いたことから、中国語を専攻にすることにした。

大学では、他の文系大学のように「自由きまま」にという
授業ではなく、高校の授業のように、比較的少人数での
講義が展開された。

点呼があったから授業に遅れることもできず、
また欠席が多いと大学2年から3年に上がるのが困難に
なるため、きっちりと授業に参加した。

文法のクラス、中国人の教授による会話のクラス、
中国文学のクラス、歴史のクラスなどで、忙しかった。
ただ、中国語に熱心になれず、ついていくのでやっとで
あった。

大学2年目が終わり1年大学を休学して、ニュージーランド
で過ごす。
ぼくは、そこで、読書に目覚めることになった。
ぼくは、「何か」を掴んだのだ。

大学に復帰してからは、授業に熱心になった。
中国語をさらに深めるよりは国際関係論のゼミを選択したが、
中国語のクラスには熱心に参加した。
小学館の中国語の辞書は、手垢で真っ黒になるまで
使い倒していた。
授業では漫画コボちゃんを題材に中国語翻訳をしたりもした。

大学卒業後は、中国語からは「離れる」ことになる。
「途上国の開発学」を専攻し、国際協力の道に進むことになる。
それでも、中国・中国語は、ぼくと関わっていくことになる。

国際NGOで活動していたときは、西アフリカのシエラレオネ
で、中国料理にしばしば行ったものだ。
こんなところに、中国人のコミュニティーがあることに
驚いたものだ。

東ティモールでも、インドネシア系・マレー系華人の人たち
によく会った。
そして、東ティモール後は、香港に移ることになる。

中国語が、いつのまにか、ぼくに戻ってくることになった。

今でも、日々は英語(また日本語)を主要言語として
つかっている。

ただ、これも何かの縁。中国語(普通語・広東語)を
一から学ぼうと、ぼくは、思う。

英語を習得する ー 英語圏、アフリカ、アジアで。 by Jun Nakajima

世界で生ききるために、ぼくは、英語を学んできた。

最近の日本でも、フィリピンのセブ留学などが流行って
いるようである。

ぼく自身の英語の学びは、次の方法をとってきた。

  1. 好きな分野を見つける
  2. 英語を話さないと生活できない環境で生活する
  3. 日々の生活に英語をしのばせていく

「好きな分野」とは、自分が好きな分野で、英語を
学んでいくことである。
学校で学んでいるときも、ぼくはこんな方法をとった。

・音楽が好きで、「洋楽」の歌詞で学ぶ
・英語参考書を読んでいて「格言」が好きになり学ぶ
・「シドニー・シェルダン」の小説を英語で読む
などなど。

「英語を話さないと生活できない環境」は、大学以降
に、例えば、こんな環境に自分を置いた。

・アジアへのバックパック旅行
・ワーキングホリデーでニュージーランド(NZ)で生活
・NZの住まいは、他のニュージーランド人6名と共住
・NZでは、日本食レストランで勤務し、英語で仕事
・NZでは、短期間、ファーム(農場)ステイ
・NZでは、一人旅(キャンプ、トレッキングなど)
・西アフリカのシエラレオネで仕事。仕事は英語
・東ティモールでの仕事。一部は英語
・香港での仕事。仕事場は英語
・マレーシアで生活
などなど。

英語圏、アフリカ、アジアで、英語に浸かってきた。

「日々の生活に英語」では、今もこんな風に生活
している。

・iPhoneの言語設定は英語
・Mac Book Airの言語設定は英語
・アマゾンKindleで英語書籍を毎日読む
・Podcastで英語でトピックを学ぶ
・Audio Bookで英語でトピックを学ぶ
・ニュースは英語(BBC, CNNなど)で得る
・雑誌も英語のもの(Time誌など)を購読
・映画は英語で楽しむ
などなど。

英語「を」学ぶ、というより、英語「で」学ぶ、
ということである。

英語は、ぼくの世界を拓いてくれた。
英語圏で、アフリカで、そしてアジアで。

英語を学びはじめて、すでに30年が経過した。
まだ、日々、学びの連続である。

100年時代の生き方:書籍「ライフ・シフト」 by Jun Nakajima

これからの時代を生きていく上での「必読書」の
一つとしては、下記を挙げておきたい。

『The 100-Year Life: Living and Working
in an Age of Longevity』
By Lynda Gratton & Andrew Scott

日本語訳『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』

日本でもベストセラーとなっている書籍。

自分が100歳まで生きるとしたら?

という地点から、自分の人生を見直していく。

本書は豊富な統計データやシミュレーションも
提示しながら、100年時代の人生を展開している。

この本を読みながら、「人生80年」という錯覚を
自分がなんとなくもっていたことに気づく。
ぼくは一生涯働き続けるつもりだけれど、
人生80年と人生100年では、やはり戦略が
異なってくる。

「定年」ということで考えるべきことも、
様々に変わってくる。

ぼくが住んでいる香港でも「定年」は
大きなトピックだ。

香港では雇用関連法では「定年年齢」は
定められていない。
会社が任意で決めていくことができる。
あるいは、決めないでおくこともできる。
その中で、60歳なのか、65歳なのか、
などの議論が起きてくる。

しかし、「人生100年」の視点からは、
この議論は色褪せてくる。
当面は、現状に対処するため、定年と
それにまつわる施策は必要だけれども、
同時に、「人生100年」から考える
制度や施策も議論していく必要がある。

人生100年。

人生80年視点では人生の後半戦のぼくは
人生100年視点ではまだ前半戦。

後半戦に向かうまでの10年で、
ぼくは後半戦を楽しむ戦略と土台を
打ち建てる。

緊急事態の「全体像」は後にならないとわからない ー 東ティモール騒乱から by Jun Nakajima

緊急事態が起きたときの行動は、
その緊急事態の「中」にいるときには
わからない。

後になって、緊急事態が収まり、
振り返るときになって、ようやく「全体像」が
見える。

「全体像」が見えないからこそ、
その場でどのように対処したらよいか、
どのように対応したらよいか、
の判断は非常に難しい。

「2006年の東ティモール騒乱のとき・・・」
という話をする際、
ぼくは、すでに「振り返る視点」で
その状況を語っている。
全体像を前提にしながら、語っている。

しかし、まさに「そのとき」は、
「東ティモール騒乱」などの「名前」が
つけられる前の状況に置かれていたわけだ。

だから、「そのとき」に対応する際に
大切なことは次のことである。

① 「パニック」にならないこと
② 身の安全を確保すること
③ 可能な限り状況を把握・分析し判断すること

これらのために、日頃から、情報を収集し、
可能な限りでシミュレーションをしておくことが
大切である。

今の時代、誰が、どこで、どんな事態に
遭遇するかは、わからない。

「世界で生ききる」ために、
ぼくたちは、「安全」を「当たり前」とせずに、
準備して、いつでも「起動」できる状態にして
おきたい。

ニュージーランドで「本」に開かれる by Jun Nakajima

ワーキングホリデー制度を利用して
ニュージーランドに滞在していたときは、
ぼくはオークランドの日本食レストランで働いていた。

休日は、オークランドの散策。
その一つに「オークランドの図書館」があった。

ニュージーランドに来る前まで、ぼくは、普段
本を読んではいなかった。
大学の授業で指定された本を読んだりすることは
あっても、進んで本を読んだりはしない。

そんなぼくが、ニュージーランドの図書館を訪れ、
本棚を眺め、本を手に取る。
英語を学ぶ機会とすることもあったのだけれど、
それ以上に、ぼくは、学びたくなったのだ。

手に取った本のなかには、「国際関係論」があった。
学術的な本である。

その後、オークランドの古本屋に行っては、
「The Twenty Years’ Crisis」(E.H. Carr) などの
国際関係論の本を購入したりした。
(大学休学を終え、大学に復帰したとき、
ぼくは、アメリカ人の教授による「国際関係論」の
ゼミに参加することになる。)

ニュージーランドから東京に戻り、
大学に戻っていくなかで、
いつのまにか、「本」が日常の生活になくては
ならないものになっていった。

読めば読むほど、次の本が読みたくなる。
ジャンルを問わず、興味のむくままに、読む。

ニュージーランドの図書館で、
ぼくは、何を通過したのだろうか。
ぼくは、何を得たのだろうか、
あるいは、何を失ったのだろう。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(2)90マイルビーチ by Jun Nakajima

なにはともあれ、1996年、ぼくは、ニュージーランドで
徒歩縦断を目指して、歩くことにした。

オークランドを出て北端に向かう。
北端に行くことから、すでに困難の連続であった。

また、北端といっても、北端周辺に何かがあるわけでもなく、
ぼくは道らしき道のない田舎道を歩いて、北上することになる。

「歩くこと」は、ただ歩くのではないという事実も、
身にしみて知ることになる。
背中には18キロ程の荷物を背負うのだ。
この重さには、さすがに、まいってしまった。

さて、北端のポイント、レインガ岬に到着する。
そこから、ぼくは、海沿いのルートを選択。
90マイルビーチ」と呼ばれ、海岸線が延々と続くルートである。
誰もいないビーチで、海の光景も絶景である。

しかし、背中の荷物が、ぼくにのしかかり、途中からは
自分との闘いになってしまう。
ビーチを堪能する余裕はなくなってしまう。

特に、水が重い。
ビーチのどこにも、水道はない。
だから、節約しながら、ぼくは水を飲む。

歩いても歩いてもビーチが続く。

夜はビーチから内陸に入る境界線あたりでテントを張る。
ここなら、波はやってこないことを確認する。

内陸から水がちょろちょろと流れ出ている箇所を見つけ、
ぼくは、安堵と共に、その水を採取して夕御飯をつくる。

また、明日も、ビーチを延々と歩くのだ。
まずは休養をきっちりと取っておこう。
ぼくは、海岸線に鳴り響く波の音を耳にしながら、
眠りにおちる。

(続く)

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(1)目標 by Jun Nakajima

1996年、ぼくは、大学2年を終えたところで1年間休学し、
「ワーキングホリデー」に出ることにした。

当時、日本がワーキングホリデー制度を締結していた国は、
オーストラリア、カナダ、ニュージーランドであった。

ワーキングホリデー制度の「王道」であったオーストラリアに
行きたかったのだけれども、人数制限のため、申請ができなかった。
第二候補のカナダも、申請時期か何かの問題で申請ができない。
残るは、ニュージーランドということで、アルバイトで貯めた
50万円程を手に、ニュージーランドに行くことになった。

ニュージーランド滞在中、ひとつの「目標」を定める。

・ニュージーランドを「徒歩で縦断」すること

当時、ワーキングホリデー中に、自転車などを利用して
国を一周したり縦断したりということが、「やること」の
ひとつとして一部に定着していた。

ぼくは、そこで、自転車ではなく「徒歩」に決める。
大学1年から2年にかけて東京でやっていたアルバイトで、
ウェイターとしては毎日とことん歩いていたからである。

到着して半年ほどは、オークランドの日本食レストランで
働きながら、生活を楽しむと共に、「準備」を進める。

アウトドアショップに行き、靴・上着・テント・簡易ガスなど
を購入する。地図も手に入れる。

そして、一軒家に同居していたフラットメートたちに見送られて
ぼくは、「徒歩縦断」の旅に出る。
ルートはニュージーランドの北端から南端を目指すことにした。
北端の方が、住んでいたオークランド(北島に所在)から
近いこと、また南島はまだ冬が明ける時期で寒いことが
理由であった。

当時も、今も、なぜこんなことしたのかはよくわからない。
でも、ぼくは、とにかく、歩くことにしたのだ。

(続く)

「偏見」からの出口 by Jun Nakajima

「〇〇人」とか、「貧困」とか、人は「カテゴリー」を使いながら生きている。

でも、それらカテゴリーには、時代の「偏見」や世間の「偏見」が染みついている。
メディアの情報や他人が口にしていた情報が積もる。
それら「偏見」は、想像の中で肥大する。
肥大した「偏見」は、いつしか「偏見」の衣をぬぎさる。
「当然のこと」として、ぼくたちの思考に住みつくのだ。

「偏見」からの出口のひとつは、「固有名詞」との出会いだ。
「〇〇人」であれば、「〇〇人である」人と直接に出会っていくこと。
一緒に話をしたり、行動を共にしていくことである。

東ティモールにいるとき、ぼくは、「ポルトガル人」に対して「偏見」的なものを抱いていた(東ティモールは、昔はポルトガル領であった)。

でも、あるとき、実際に「ポルトガル人」の方と共に休日を過ごすことがあった。
その際に、ポルトガル人の「カテゴリー」が消えていく感覚をぼくはもった。
カテゴリーではなく、個人になったのだ。

「カテゴリー」は、生きていく上で有用である。
「考える」ことは、「物事を分ける」ことである。
カテゴリー化することである。
そのことで、人類が得たものは、はてしなく大きい。
他方で、失ってきたもの、弊害をもってきたものも大きい。

だから、「偏見」からの出口は、「固有名詞」との出会いである。
そして、他者からは、ぼくも「固有名詞」である。
ぼくが、他者の偏見に対して「出口を照らすこと」もできる。

「世界を生ききる」上で、大切なスタンスである。

「自分の旅」を急ぎすぎない by Jun Nakajima

人は、時に(あるいはしばしば)、旅路を急ぎたくなる。

メタファーとしての「人生の旅」でも、人は「成功」を急ぐ。
これが欲しい、あれが欲しい。今、欲しい。出来る限り早く欲しい。
あのようになりたい。今、なりたい。
誰しもが、自身の経験の内に、そのような衝動をもっている。

「実際の旅」でも、例えば、トレッキングやハイキングで、
目的地への早い「到着」(「成功」!)を衝動する。

トレッキングで思い出すのは、ニュージーランドでの経験である。
大学を休学して滞在していたニュージーランド。
ぼくは、そこで、トレッキングをしていた。

数日かけてまわるコースである。
政府に管理される山小屋から山小屋に移動していく。
数時間で移動できる場合もあれば、
場所によっては、午前に出て夕方近くまでかかることもある。

ぼくは、朝早く山小屋を出発する。
冬が終わり、しかし、まだ山頂には雪が見える光景である。
そのなか、ぼくはトレッキングコースを急ぐ。
5時間もかからない内、お昼過ぎには、ぼくは次の山小屋に到着する。
そこでゆっくりしていると、夕方くらいに、一人のトレッカーが到着する。
1日かけての到着である。
なぜこんなに遅い時間に到着なのだろう。

スウェーデンから休暇で来ているという彼女。
ぼくは、彼女から、その後も忘れられない言葉を贈られる。

「ジュン、あなたは道中何を見てきたの?」

彼女は、道の脇に咲く花や草木を、心から堪能してきたのだ。
ぼくは、返す言葉がなかった。

人生の道中を急ぎすぎていると気付いたとき、
ぼくは、彼女から教わった、とても大切なことを思い出す。

そして、自分に問いかける。

「ジュン、君はそんなに急いでどこに行くんだ?
道の脇では、いっぱいの花々や草木が、君に微笑んでいるのに。」

「自己啓発」という領域との出会い by Jun Nakajima

書籍カテゴリーに、「自己啓発」という領域がある。
多くの人たちが、敬遠してしまう領域でもある。

「自己啓発」(英語では、Self-help)という言葉に、文化や環境に規定される特定の負のイメージがすりこまれているからかもしれない。ぼくも、自己啓発という「言い方」には、しっくりこない感覚をもってきた。

2007年2月、束の間の休暇を過ごすために、東ティモールからインドネシアのバリを経由して香港に向かう飛行機の中で、ぼくの考えは変わった。キャセイ航空の音楽プログラムの中に、自己啓発のオーディオブックがあり、ふとしたところから、ぼくはそのプログラムを選び取った。そこで語られる話に、ぼくは聞き入ってしまったのだ。バリから香港に向かう青い空の中で、ぼくの人生は、飛行機と共に旋回していた。

今でも、この変化がどうして起こったのか、ぼくにはわからない。

東ティモール争乱が一段落した後、ぼくの心が「落ち着き」を求めていたからかもしれない。そのオーディオブックは、静かな語りで、ぼくに言葉を届けていた。

次のステージに向かう途上の変化であったのかもしれない。人生のステージが一段上がるような経験をするとき、ぼくたちは、そのような、説明不能な出来事に出会う。

その出来事から、ぼくは、自己啓発の領域で学び、実践し、その限界と可能性を感じてきた。だから、今では、「自己啓発」という言葉にはとらわれない。本質は著者との出会いである。そして、著者を通した自分との対話であり、その対話を生かすのも生かさないのも、自分次第である。でも、出会いがほんとうの「出会い」であれば、それは必ず、ぼくたちの人生を彩ってくれる。