東ティモール

「ささやかなしあわせ」- 東ティモールできく坂本九 by Jun Nakajima

今年2017年1月に、
今は亡き歌手・坂本九氏の年賀状が
悲劇の死から16年を経て長女に届く
という「奇跡」が起きた。

ニュースによると、
1985年に開かれた筑波万博にて
坂本九氏が未来の長女に宛てた
直筆の年賀状だったという。
亡くなる4ヶ月前に投函され、
それが、今、届く。

ぼくは、坂本九の名曲『見上げて
ごらん夜の星を』の美しいメロディー
を思い出す。

東ティモールで仕事をしていた
10年程前。
ぼくは、一時帰国していた日本の
成田空港で、歌手・平井堅の
このカバー曲が収められている
CDアルバムを購入した。

当時は、インターネットがまだ
今ほどは発達していなかった。
デジタルダウンロードや
YouTubeなどで、海外どこに
いても音楽が楽しめるような
状況ではなかった。
だから日本に一時帰国したときに、
好きな音楽をCDで購入していた。

成田空港で、ぼくは、
『見上げてごらん夜の星を』を
どうしてもききたくなったのだ。

海外できく日本の曲は、
日本できくのとは、違う響きを
ぼくたちに届けてくれる。
東ティモールに再び戻り、
ぼくは、この曲をきいていた。

あっ、とぼくは気づく。

この曲は、ぼくが小学校6年生の
ときに、音楽会で歌った曲である。
記憶に強く残っている曲である。

あっと気づいたのは、
この曲の「歌い方」で、ぼくは
間違っていたということである。


見上げてごらん夜の星を
小さな星の小さな光が
ささやかな幸せをうたってる

坂本九『見上げてごらん夜の星を』


平井堅のアルバムでは、
当時の技術を駆使して、坂本九と
平井堅のデュエットをつくりだして
いる。

この曲の一音一音に耳をすませていたら、
坂本九が歌う「ささやかな幸せを」の
「な」が、とてもやさしく、音を抜く
ような感じで、発声されていることに
気づいたのである。

「ささやか」ということは、
軽やかで、肩に力をいれないイメージ
であるのに、
ぼくは、逆に重たいイメージで、力を
込めて歌ってしまっていたのである。

もしかしたら、ぼくは、「ささやかな
幸せ」を、肩肘はって追い求めてきた
のではないかと、その矛盾に目を
向けさせられたのだ。

ただ、坂本九も、曲の最後のフレーズで
この歌詞を歌うところでは、
この「な」に、力を込めて発声している。

「ささやかな幸せ」が手に入らない
もどかしさが、この最後のフレーズに
凝縮されてはじけたように、ぼくには
聞こえる。

東ティモールで、
東ティモールのコーヒー生産者たちと
「しあわせ」をつくっていく。

そのなかで、ぼくは、
坂本九のこの美しい歌に、大切な
気づきをもらった。
そんなことを思い出す。

16年を経て長女に届いた、奇跡の
年賀状は、長女・大島花子氏に、
感動とともに、どのような「気づき」
を与えたのだろうか。

その奇跡の年賀状をつたえるニュース
は、ぼくに、東ティモールできいた
『見上げてごらん夜の星を』と
そのときの気づきを思い起こさせて
くれた。

ここ香港できく『見上げてごらん
夜の星を』も、ぼくの心奥の深くに
響いていく。

テトゥン語で生きる ー 東ティモールにて。 by Jun Nakajima

東ティモールでは、テトゥン語(Tetum, Tetun)で
生きてきた。

「テトゥン語で生きる」とは、文字通り、テトゥン語が
できないと、会話ができないということ。
英語が通じない。

首都ディリであれば、英語でも生きていくことができる。
ただし、首都ディリを離れると、テトゥン語あるいは
インドネシア語(あるいはその地方の言語)ができないと
生活が困難である。

仕事場は、首都ディリとコーヒー生産地のレテフォホ。
レテフォホに行く時は当初「通訳」をお願いしていた。
ただし、毎回というわけにはいかない。
いつしか、必要性にかられ、ぼくは、テトゥン語を
覚えていった。

これまでに学んできた英語と中国語とは異なり、
最初から「話す」「聞く」から始めた。
そして、後に、文法や単語の綴りを学ぶ。
日本での言語教育と逆の方法。
文字というより音で学ぶ。日々の会話で学ぶ。

その内、日常会話はもとより、スタッフとの会議、
コーヒー生産者との会議、さらには農業省での
プレゼンテーションもテトゥン語でできるようになった。

この言語習得経験は、学ぶことが多かった。

  1. どんな言語でも学ぶことができるという感覚
  2. 「必要性」という環境設定の有効性
  3. 「音」から学ぶことの有効性

世界で約80万人が話すというテトゥン語。

「テトゥン語ができるようになったとしても
80万人しか喋れないからなあ」

当初はそう思っていた。

しかし、テトゥン語で生きていくことから多くを
学んだ。
そして、東ティモールの人たちと生きていくことが
できた。

「手を振る女性」が伝えたかったこと ー 東ティモール騒乱から。 by Jun Nakajima

2006年のある日の午後、ぼくは、ディリにある
事務所から車で5分程離れたところにある住居へと
急いでいた。

スタッフが運転する車両の助手席に座り、
誰もいない通りを見ながら、状況を分析していた。
首都ディリの治安が悪くなってきている状況である。

通りには誰もいない。車両もまったく見られない。
静けさが漂い、ぼくたちの車両の音だけが響く。

ディリの繁華街の入り口にさしかかったところで、
ぼくたちは、通りで女性二人が手を振っていることに
気づいた。
どうやら、ぼくたちに向かって、手に振っている。

ぼくたちは、仕事に関係のない人たちは
車両に載せないことになっている。
だから、「何だろう」と思いながらも、先を
急ぐことにする。

そこの交差点を左に曲がれば、すぐに住まいに
到着するが、一方通行であるため、迂回しなければ
ならない。

車両は迂回して、先ほどの地点からすぐのところにある
住まいのコンパウンド前で止まる。

ぼくは車両の後部座席から荷物を取り出し、
スタッフに気をつけるように言葉を残して、
コンパウンド内に入る。

コンパウンド内に入った途端に、後ろで銃声が鳴り響く。
一発の銃声ではなく、連続的な銃声である。

住まいに入ると、テレビでは、BBCが
首都ディリの緊急事態を報道している。
目の前の通りでの銃撃戦のことを報道している。

スタッフは大丈夫だろうか、と心配になる。
車両だから、走り抜けてくれているだろう。

「手を振る女性たち」は大丈夫だろうか。
何が起こっているかの状況もわからず
助けの手を差し伸べることもできなかった。

その後、幸いにも、「一般人」が死亡したケースは
報道されなかった。
でも、時に、ぼくは、手を振る女性たちが
差し向けた「眼」を思い出す。

そして、その「眼」は、東ティモールを超えて、
紛争地域などで助けを求める人たちの眼に重なって
ぼくには見えるのだ。

世界の各地で、人々は、手を振っている。

緊急事態の「全体像」は後にならないとわからない ー 東ティモール騒乱から by Jun Nakajima

緊急事態が起きたときの行動は、
その緊急事態の「中」にいるときには
わからない。

後になって、緊急事態が収まり、
振り返るときになって、ようやく「全体像」が
見える。

「全体像」が見えないからこそ、
その場でどのように対処したらよいか、
どのように対応したらよいか、
の判断は非常に難しい。

「2006年の東ティモール騒乱のとき・・・」
という話をする際、
ぼくは、すでに「振り返る視点」で
その状況を語っている。
全体像を前提にしながら、語っている。

しかし、まさに「そのとき」は、
「東ティモール騒乱」などの「名前」が
つけられる前の状況に置かれていたわけだ。

だから、「そのとき」に対応する際に
大切なことは次のことである。

① 「パニック」にならないこと
② 身の安全を確保すること
③ 可能な限り状況を把握・分析し判断すること

これらのために、日頃から、情報を収集し、
可能な限りでシミュレーションをしておくことが
大切である。

今の時代、誰が、どこで、どんな事態に
遭遇するかは、わからない。

「世界で生ききる」ために、
ぼくたちは、「安全」を「当たり前」とせずに、
準備して、いつでも「起動」できる状態にして
おきたい。

東ティモール騒乱 ー 東京での一本の電話 by Jun Nakajima

2006年、東ティモール騒乱。
独立後平和を取り戻していた東ティモールの街に
また銃声が響く。

ハンドルを失った東ティモール政府は、オーストラリア
政府など、他国に支援を要請。
同日には、他国の軍隊が上陸する。
翌日には、ぼくたちは、インドネシアのジャカルタに
退避。それから、東京に戻ってくる。

他国の軍隊が首都ディリに入ったものの、
情勢は即座にはよくならない。

首都ディリに戻りたい一心のぼくは、
関連機関から許可がおりず、日本で待機する。

夕方、仕事場から家に電車で帰宅途中のぼくに、
一本の電話が入ってきた。
国外からの電話で、緊急事態と思い、
ぼくは、静かな電車の中で、携帯電話に出る。
やはり、東ティモールのスタッフからだった。

「事務所が危ないんです。事務所の備品を退避
させますが、よいですか?」

緊迫した声だった。
首都ディリの事務所の周辺が不安定性を増していた。
事務所の警備員と事務所周辺のコミュニティが、
事務所を守ってくれている。

携帯電話が使えない日本の電車だったが、
ぼくは、静かに、話す。
ぼくは、次の停車駅である板橋駅を待って、
そこで下車することにした。

事情を聞き、ぼくは「ゴー・サイン」を出し
安全第一を伝えて電話を切る。

電話を切ると、板橋駅のプラットフォームの
静けさに包まれる。

東ティモールの首都ディリと東京。
ぼくは、その「間」で、不思議な感覚に捉えられる。

そして、ぼくは思いを、ディリに戻る日に向けて
投げかける。

最初の「扉」となった書籍 - "The Success Principles" by Jun Nakajima

自己成長・自己啓発関連の書籍の中で、最初の「扉」となった書籍は
Jack Canfield “The Success Principles”であった。

2007年初頭、休暇を過ごすために東ティモールから来ていた
香港の書店で、ぼくは、たまたま、この書籍を手にする。

ずっしりと厚さと重みのある書籍である。
「成功原則」が67項目にわたり書かれた書籍で、600頁以上もある。
(日本語翻訳版は、項目を絞って出版されている。
読みやすい英語であるから、ぜひ英語でも読んでほしい著作である。)

600頁以上もあるけれど、休暇中のぼくは、シドニーシェルダンの
小説を読むがごとく、時間も忘れてのめりこんでしまった。

「成功原則」は、できるものから、すぐに実行に移した。
東ティモールに戻ってからも、実際にワークショップで使ってみた。

ぼくにとっては、すぐに「結果」が伴うものではなかったけれど、
今の時点から見ると、いろいろな仕方で「結果」が出てきている。

また、書籍は、様々なトレーナーやスピーカーや著者などの情報に
充ちていて、ぼくは、この書籍を「基地」として、様々に探求して
いくことになったのだ。

書籍は、このような「基地」があると、その拡がりをみせていく。
そのような書籍に出会えたことは、奇跡である。

「旧正月」を生きる by Jun Nakajima

香港や中国、その他中華圏では、毎年1月あるいは2月には、旧正月を迎える。
旧暦による正月で、時期は毎年変わる。
2017年は1月28日が旧正月にあたる。

海外に出て、旧正月が生活や仕事の中に入り込んできたのは、
東ティモールでのことであった。

東ティモールでは、中国系インドネシア人がビジネスを展開していた。
例えば、建設用の資材などを扱う店などである。
ぼくたちも、プロジェクト用の資材を調達する必要があり、
しばしば店に足を運んだ。
ただし、旧正月前後は、資材の入荷がストップした。
店の「ボス」である中国系インドネシア人も、休暇を過ごすため
国外に出てしまい、交渉ごとなどが滞ってしまう。

だから、旧正月を見越し、プランを立てる必要があった。
2007年に香港に移住してからは、旧正月は完全に生活の一部となった。
香港では、旧正月に始まる3日間は、法定の休日である。

今でも、香港の方や華人の方から、聞かれる。

「日本は、旧正月は祝うのですか?」

「日本は旧正月は祝いません。1月1日です」と回答をしながら、
時折、ぼくは考え込んでしまう。
日本も明治維新の前は旧正月を祝っていたという。
旧正月を祝っていた日本人は、どのような感覚を持っていたのだろう。

旧正月を祝うことには、すっかり慣れてしまった。
旧正月が明けると、新年が完全に明けたことを感じる。

春の訪れを微かに感じながら、自分の1年プランをレビューし、
ぼくは1年の一歩を進む。

「偏見」からの出口 by Jun Nakajima

「〇〇人」とか、「貧困」とか、人は「カテゴリー」を使いながら生きている。

でも、それらカテゴリーには、時代の「偏見」や世間の「偏見」が染みついている。
メディアの情報や他人が口にしていた情報が積もる。
それら「偏見」は、想像の中で肥大する。
肥大した「偏見」は、いつしか「偏見」の衣をぬぎさる。
「当然のこと」として、ぼくたちの思考に住みつくのだ。

「偏見」からの出口のひとつは、「固有名詞」との出会いだ。
「〇〇人」であれば、「〇〇人である」人と直接に出会っていくこと。
一緒に話をしたり、行動を共にしていくことである。

東ティモールにいるとき、ぼくは、「ポルトガル人」に対して「偏見」的なものを抱いていた(東ティモールは、昔はポルトガル領であった)。

でも、あるとき、実際に「ポルトガル人」の方と共に休日を過ごすことがあった。
その際に、ポルトガル人の「カテゴリー」が消えていく感覚をぼくはもった。
カテゴリーではなく、個人になったのだ。

「カテゴリー」は、生きていく上で有用である。
「考える」ことは、「物事を分ける」ことである。
カテゴリー化することである。
そのことで、人類が得たものは、はてしなく大きい。
他方で、失ってきたもの、弊害をもってきたものも大きい。

だから、「偏見」からの出口は、「固有名詞」との出会いである。
そして、他者からは、ぼくも「固有名詞」である。
ぼくが、他者の偏見に対して「出口を照らすこと」もできる。

「世界を生ききる」上で、大切なスタンスである。

東ティモールでの「バックミュージック」 by Jun Nakajima

人生には「バックミュージック」が流れている。
あの風景、あの場面、あの状況に、バックミュージックが流れている。

東ティモールに住んでいたとき、二つの音楽が、ぼくのバックミュージックであった。

一つは、五輪真弓の「心の友」である。
インドネシアでも大ヒットしたこの曲は、東ティモールでも人々の心を捉えていた。
なぜか、この曲は、東ティモールという土地にしみこんでいく。

そして、もう一つは、ブライアン・アダムスの音楽である。
2005年前後、ぼくは、東ティモールで、ブライアン・アダムスの音楽をいろいろな場面で聞いていた。
信号もない首都のディリ。夜はわずかに光る街灯。その風景の中で、ブライアン・アダムスが、バラードを歌う歌声は、心情の深くに響くメロディーを届けていた。

音楽は、その場所にいるときにも増して、その土地を離れ耳にするときに、ぼくたちの心情をさらっていく。
音楽は、時間も、そして空間も超えていく。

2017年1月。ブライアンが、香港のステージで、「(Everything I Do) I Do It For You」を歌うのを聴きながら、ぼくの心情は「あの世界」に運ばれていく。

紛争と本屋 - 東ティモール騒乱から by Jun Nakajima

2006年、東ティモールでの騒乱から逃れ、インドネシアのジャカルタを経由して東京に戻る。

銃弾が飛ぶ音がぼくの意識に残る。
小さな、はじけるような音がすると、身体がびくっと反応する。

車両から降りて、建物の敷地に入った途端に、後ろで銃撃戦が繰り広げられる。
何時間にも渡って、断続的に、銃撃音が鳴り響く。

銃弾だけでなく、石が投げつけられる怖さから、ひらけた空間が居心地が悪い。
一度、ぼくたちの車両が、走行中に大きな石を投げつけられたことがある。
幸いにも、車窓ではなく、車体にあたった。

戦争は、ぼくを、どこか、荒涼とした心情空間に投げ込む。

東京に戻ったぼくは、気がつくと、渋谷の本屋さんに立ち寄っている。
本屋さんに広がる、様々な想像や物語が、ぼくの荒涼とした心情空間に色彩を与え、そっと癒してくれる。

東京に戻り、そんな日々が続く。
本屋さんで見つける、何でもないタイトルに、心が温まる。