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あらゆる「技術」に共通するものを追って。- 野口晴哉の整体とカザルスの音楽。 by Jun Nakajima

整体の創始者といわれる野口晴哉。野口晴哉の存在を知ったのは、いつだっただろうか。すでに20年以上前になると思う。「自分を変える道ゆき」を探し求めていたときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。...Read On.

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ひとに「伝える」ことができるとしたら -「伝える技術」の一つ下の地層で。 by Jun Nakajima

「伝える技術」的な書籍がポピュラーである。

ぼくも、日々の生活のなかで、いろいろと
参考にしている。
佐々木圭一『伝え方が9割』など、実際の
実践につなげていくべきところが多い。

そもそも本を読む人は意外に少なかったり
する。
また、本を読んだとしても、ぼくを含めて
多くの人が、読んで終わりになりがちで
ある。
内容を実践にうつして、試行錯誤のなかで、
じぶんなりの仕方を身につけていくことが
何よりも大切である。

このような書籍がポピュラーである背景
には、コミュニケーションのむずかしさ
がある。
コミュニケーション能力が、さまざまな
場と局面で求められている。

ひとに伝わらない苦々しい経験と
もどかしさが、伝える方法・仕方の学び
を求める人たちをひきつけていく。

「伝える」ということを考えるとき、
ぼくの脳裏には、社会学者・真木悠介
の文章が浮かぶ。

「エローラの像」という文書で、
真木悠介著『旅のノートから』(岩波
書店)に収められている。

真木悠介は、インドにあるエローラ石窟
群にある「teaching Buddha」という
像から、「伝える」が成り立つことの
「秘密」をとりだしてきている。

この「teaching Buddha」は、3つの
像があり、それらは「教える」という
ことに至る3つの姿勢を形づくっている
という。

 

 最初にあるのが ”giving Buddha” -
「与えるブッダ」、あるいは自分を
「明け渡す」という姿勢。自分を

オープンにするという姿勢である。
次にあるのが ”touching Buddha” -
「触れる」ということ。相手に触れる。
ということである。「心に触れる」
「魂に触れる」という日本語がある
ように、そしてtouchという英語も
また、感動させる、心に触れるという
意味があるように、元々は相手の身体
に触れる、じっさいに触れるという
具体性からくるのだろうが、とにかく
相手の存在の核の部分に「触れる」と
いうこと。このことが次にある。
teaching pose - 「教える」という
ことが可能になるのは、この2つの後
ではじめて成り立つことである。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

教える、つまり「伝える」ということは、
与えること、それから触れることがあって
はじめて成り立っていく。

伝えることができない苦々しい経験の
只中で、ぼくは、この「秘密」を思い出す。

「技術」「術」などのハウツーの手前、
一段下の地層において、ぼくは、自問する。
相手に与えることができているか。
オープンになれているか。
相手の心に触れることができているか。

「方法」は「姿勢」がともわないと、
ぼくたちを、伝わらないことの、あの苦々
しい経験のなかに、おきざりにしていく。

だから、今日も、ひとつ下の地層を、
ぼくは掘っていく。

「コミュニケーション能力」を紐解く - 平田オリザ著『わかりあえないことから』の繊細さ。 by Jun Nakajima

劇作家・平田オリザの「コミュニケーション」
に対するまなざしは、繊細でしなやかである。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)は、副題を「コミュニケー
ション能力とは何か」としている。

世の中で、あまりにも「コミュニケーション
能力」が叫ばれてきたことに対する、問題提起
である。

 

(1)「コミュニケーション能力」とは何か

平田オリザは、コミュニケーションに対して
繊細・しなやかで、しかし真剣な切り口で
疑問を投げかける。

例えば、企業の人事採用では「コミュニケー
ション能力」が求められてきている現状がある。
これに対して、即座に問い返す。


「では、御社の求めているコミュニケーション
能力とは何ですか?」

 

また、企業の管理職者が、若者たちのコミュニ
ケーション能力に嘆くことに対して、きりかえす。


「はたして本当にそうなのだろうか?」


劇作家である平田オリザからの問いかけは、
シンプルだけれど、重い。

ぼくが経験してきた国際協力の現場でも、
海外の企業においても、コミュニケーション
能力の大切さはとてもつもなく大きい。

しかし、コミュニケーション能力を叫ぶ
当の本人たちの「間」において、そこでいう
コミュニケーションの内実のズレがあったり
する。

だから、一段おとして、企業なり企業、
個人なり個人のレベルで、コミュニケーション
能力の内実を明晰に理解しておくことが求めら
れる。


(2)「ダブルバインド」にしばられる

平田オリザは、企業が求めるコミュニケー
ション能力に「ダブルバインド」(二重
拘束)が見られることを指摘する。

「ダブルバインド」とは、二つの矛盾する
コマンドが強制されていることであるという。

例えば、自主性のコマンドが発出されて
いるなかで、ある人が上司に相談する。
相談を拒否されるが、問題が起きると、
報告しなかったことに対して叱られる。

このようなダブルバインドのなかで、
社員たちは身動きがとれなくなっていく。
平田オリザは、日本社会に転じて語る。

 

いま、日本社会は、社会全体が、
「異文化理解能力」と、日本型の「同調
圧力」のダブルバインドにあっている。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

(3)「わかりあえない」地点から。

平田オリザのまなざしは真剣だが、繊細な
地点からの視点だ。

題名にあるように「わかりあえないこと
から」という地点から、コミュニケーション
を語る。

わかりあえないなかで「わかりあう」こと。

しかし、平田オリザは、上記のダブルバインド
を必ずしも悪いこととはみていない。

 

 私たちは、この中途半端さ、この宙づり
にされた気持ち、ダブルバインドから来る
「自分が自分でない感覚」と向きあわなけ
ればならない。
 わかりあえないというところから歩き
だそう。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

そう、
わかりあえないというところから
ぼくは、歩きだし、歩きつづける。

そうすることで、言葉は、「わかりあう」
メディアとなり、そして、まれに、
それは言葉をこえる言葉となるのだ。

とことん人から学ぶこと - James Altucherの流儀に心身が動かされる。 by Jun Nakajima

ベストセラー作家・投資家・起業家の
James Altucherは、とにかく人から学ぶ。
とことん学んでいく。

Jamesは、新著『Reinvent Yourself』
中で、「プラス、イコール、マイナス」の
流儀を紹介している。
(2017年1月の出版。邦訳はなし)

学びはこの「プラス、イコール、マイナス」
から生みだしていく。

「プラス」は、自分よりも「上」の人。
つまり、メンターからの学び。

「イコール」は、自分の「ライバル」で
ある人。ライバルであることからくる学び。

「マイナス」は、自分から「下」の人。
教えることからの学び。

彼の、徹底した学びと、そしてそこから
気づき、さらには実践に、ぼくは心を
動かされ、ぼくの行動へとつながっていく。


(1)徹底した学びの「姿勢」

彼の学びの「姿勢」は、圧倒的にオープン
である。文章から、話し方から、姿勢が
あふれだしている。

彼のPodcast「The James Altucher Show」
では、いつも、そのことを感じさせられる。

毎回、超一流のゲストを迎えての「学び」
のインタビューである。

2017年3月のTony Robbinsのインタビュー
は、JamesもTonyRobbinsも、語りが圧巻
であった。


歴史家Yuval Harari氏(『Homo Deus』
の著者)へのインタビュー
も、傑作である。
ぼくは、Jamesがインタビューの終わりで
投げかけた、とてもシンプルな質問に、
心が震えた。

 

(2)徹底した学びの「振り返り」

それから、彼は徹底して学びを振り返る。

「The James Altucher Show」の
インタビュー終了後に、彼は学びを
文章でまとめる。

その学びは、ブログで公開されていく。
そして、それが、書籍になっていく。

徹底した振り返りには、頭が上がらない。
 

(3)徹底した学びの実践

そして、学びと振り返りは、もちろん
「実践」につなげられていく。

これまで数々の「失敗」を繰り返して
きたJamesが、自分をアップグレード
していく。

 

(1)から(3)のサイクルが高速で
回されていく。

彼の英語は、シンプルな単語で構成され
話し言葉的な文章はリズミカルだ。
文体は真面目すぎず、しかし真剣である。

これらが、総合的に結晶していく形で、
彼の新著のタイトルにある言葉
「reinvention」が生まれたように、
ぼくは思う。

ぼくは、彼の学びへの「謙虚さ」と
「オープンさ」に心身が動かされる。

Jamesのインタビューに耳を傾けながら
自分をアップグレードしていく気持ちの
<炎>を、ぼくは大切にともしている。

「香港」を視て考える - トラベルガイドでもなく、学術書でもない1冊(英語) by Jun Nakajima

「香港」を視て考える。
語りにくい香港を、日々の体験から、
その「世相」から、すくいあげていく。

香港の人や街路や食などから
手がかりをすくっていく。

そして手がかりを文章におとしていく。
ぼくは、文章を書きためているところだ。

文章が書きたまったところで、
他者がどのように香港を「書いて」いるか
気になりグーグル検索する。

検索していて気づいたのは、「香港」に
関連する書籍は、

  1. トラベルガイド
  2. 学術書

の二つが主流である。

この主流に加わる形で、
香港を舞台にした小説などがある。

1と2の「中間」が見つからない。
英語でもグーグル検索するが、やはり
この二つのカテゴリーに収まってしまう。

その間隙から見つけたのが、この書籍で
ある。

『Reading Hong Kong, Reading Ourselves』
Edited by Janel Curry, Paul Hanstedt
(CityU Press, 2014)

香港の大学に来ていたアメリカの研究者
たちが、それぞれの専門分野の視点で、
でもカジュアルな文体と構成で書いた
文章群から成っている。

トラベルガイドでもないし、
がちがちの学術書・研究書でもない。
しかし、学術的な「客観性の姿勢」がある。

トピックは多岐にわたっている。
食、社会、街路、言語、歴史、教育など。
これらを日々の「体験」からすくいあげる。

視点は、西洋人が視る「香港」。
日本人が視る「香港」だけではみえない
視点もはいってくる。

文化と文化の「間」からみえてくる視点が
面白い。

そこの「間」から、
ぼくたちは、どのように、よりよい生き方
を構想できるだろうか。

そんなぼくの思考にお構いなく、
香港の街は、今日も、忙しなく、活気を
装っている。

こんな書籍もある。グローバルに生きていくために。- John Marcarian著『Expatland』 by Jun Nakajima

グローバルに動くようになり
なかなかのチャレンジングな課題は
「税金」である。

少なくとも、ぼくは、税務や会計の専門家
ではない。

日本を拠点にして、ある期間の間、海外で
仕事をしていくのは、まだ比較的わかりやすい。
あくまでも「軸足」は日本であるからである。

ただし、グローバルな時代においては、
日本生まれであったとしても、様々な仕方で
海外にうつっていくことになる。

大別すると、下記のようなカテゴリーがある。

  1. 「日本を拠点」に海外で生活をする
  2. 「海外を拠点」に海外で生活をする

海外を拠点とする場合は、生活形態は、
さらにバラエティに富む。

「海外Aを拠点」に、「海外A」で生活を
することもあれば、
「海外Aを拠点」に、「海外B」で生活を
していくこともある。

さらに、IT技術の発展による「もう一つの
世界」、つまりインターネットの世界に
おけるビジネスは、状況をさらに複雑にして
いく。

「グローバルなリアルの世界」と
「インターネットのバーチャルな世界」が
重層的に重なりあい、制度が状況においつ
いていない。

そんな「チャレンジ」を前に、
グーグル検索を重ねていたら、標題の書籍を
見つけたのだ。

John Marcarian氏による『Expatland』。
(英語の書籍で、邦訳はない)

著者は、税金のアドバイザーである。
グローバルな国外居住者(expat)の税金
に関する専門家で、自身で会社を設立している。

本書は「設定」が面白い。
「Expatland」という架空の世界を設定し
国外居住者にまつわることを説明している。
各国の国外居住者を「ひとつ」にまとめて
いる。

扱っているトピックは次の通りである。
税務まわりを中心に、幅を少し広げている。

・「Expatland」の家族生活
・「Expatland」の教育
・「Expatland」の銀行
・「Expatland」のファイナンス
・「Expatland」のファイナンシャル・プランニング
・「Expatland」のエステート・プランニング
・「Expatland」の保険
・「Expatland」の法務
・「Expatland」のセキュリティ
・「Expatland」の構造
・「Expatland」の税務
・「Expatland」の定年

書籍紹介の動画もよくできている。

これらの「導きの系」を頼りに、
ぼくは「Expatland」の税務にわけいって
いく。

英語でのグーグル検索が、ぼくに
幾千もある導きの系のひとつを手渡して
くれた。

「インターネットのバーチャルな世界」は、
ひとつではない。
そこでは、言語により、異なる世界が
広がっている。
ひとつの世界の裏に・横に、別の世界が
ひろがっている。

「英語」は、字義通り、もうひとつの
「世界」にわけいる入り口である。

生き方の「モデル」をみつけることで変わる - シュリーマンの語学力 by Jun Nakajima

外国語を勉強してきて、
外国語を駆使し、ぼくは
日本以外のところで生活してきた。

「きっと将来役にたつ」との確信の
もとに、英語にフォーカスし、勉強してきた。

外国語学習ということで、
誰か「モデル」となる人がいたかと
いうと、なかなか思い出せない。
鮮烈な「モデル」は、人の人生を
大きく変えていく力をもつことがある。

覚えているのは、
『古代への情熱』(岩波文庫)の
シュリーマンである。
シュリーマンは、19世紀に生きた
人物である。

トロヤ戦争の物語から、トロヤの
古都が必ず存在したことを信じる。
そして、数々の困難を乗り越えて
トロヤ遺跡を発見した人物である。

ぼくは、学校の「課題図書」で
この『古代への情熱』を読むことに
なった。
副題にあるように「シュリーマン自伝」
である。

トロヤ遺跡に辿りつくまでの「情熱」に
も、ぼくは心を動かされた。
しかし、彼の語学に対する「情熱」も
また、ぼくの脳裏に鮮明に焼きついたのだ。

彼の言語習得の「一方法」は次の通りである。

● 非常に多く音読すること
● 翻訳しないこと
● 毎日1時間をあてること
● 興味ある対象について作文すること
● この作文を教師の指導によって訂正すること
● 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること

(『古代への情熱』岩波文庫より)

「あとがき」にあるように、
シュリーマンはその後15ヶ国語を
話したり書いたりするようになったという。

ぼくのイメージには、
この圧倒的な語学力をもつシュリーマンが
存在している。

その後のぼくの人生で、15ヶ国語が
できるようになったわけではない。

でも、シュリーマンの「生き方」は、
ぼくに、夢や勉学の情熱と人間の可能性を
教えてくれたように、思う。

学校の「課題図書」は、その当時は
できれば避けたいものであったけれど、
シュリーマンやヘルマン・ヘッセなど、
その後のぼくの人生に影響を与えてきた
ことを、25年ほど経ってから、ぼくは思う。

世界で人々の生活を観る「メガネ」: 柳田國男『明治大正史-世相編』のちから。 by Jun Nakajima

世界のいろいろなところで
いろいろな人たちの生活をみることは
楽しみのひとつである。

着るもの・着方、食べるもの・食べ方、
住むところ・住み方など、興味と関心
はつきない。

香港に10年住んできたなかで、
それら変遷を観ることは、ぼくの
楽しみであった。

例えば、日本の「おにぎり」。
香港の食に最初は浸透せず、
でもそれが徐々に受け入れられていく
移り変わりは興味深いものであった。
香港では主食に「冷たい食べ物」は
好まれないと思われていたから、
なおさら興味深いものであった。

柳田國男の著作『明治大正史 - 世相編』
は、このような「世相」を観る視点や
洞察の宝庫である。

見田宗介の仕事(「<魔のない世界>
ー「近代社会」の比較社会学ー」
『社会学入門』所収)に導かれて、
ぼくは、柳田國男のこの著作に
たどりついた。

第1章「眼に映ずる世相」の冒頭は
こうはじまる。

 

以前も世の中の変わり目という
ことに、だれでも気が付くような
時代は何度かあった。歴史は遠く
過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて
記憶するというだけでなく、
それと眼の前の新しい現象との、
繋がる線路を見きわめる任務が
あることを、考えていた人は
多かったようである。ところが
その仕事は、実際は容易なもので
なかった。この世相の渦巻きの
全き姿を知るということは、
同じ流れに浮かぶ者にとって、
そう簡単なる努力ではなかった
のである。

柳田國男『明治大正史-世相編』
(講談社学術文庫)

 

今の時代も「世の中の変わり目」
である。誰もが気づいている。
しかし、「同じ流れに浮かぶ者」
として、世相を知ることは容易
ではない。

柳田國男がこれを書いたのは、
1930年であったという。
この時間の隔たりに関係なく、
本書はほんとうに多くのことを
まなばせてくれる。

ぼくたちの日本での「衣食住」を
ふりかえるだけでなく、
柳田の視点や洞察は、時間と
空間を超えるものがある。

ぼくは多少なりとも、
そんな視点と洞察の「メガネ」
をかけて、ここ香港の「世相」
を眺めてみたいと思う。

日本以外の国・地域(海外)に
いることのいいところは、
「同じ流れに浮かぶ」ことから、
多少なりとも、流れの外にでる
ことができることである。

それを寂しいという人もある
かもしれないけれど、興味の
つきない<立ち位置>であると、
ぼくは思ってやまない。

Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方 by Jun Nakajima

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。

「人間の歴史」を巨視的に視ること - 見田宗介の明晰な理論 by Jun Nakajima

「人間の歴史」を巨視的に視ること。
日々の生活や明日生きていくことには
関係なくみえる。

でも、そのことは、ぼくたちの
「生き方」をきりひらいていくため
にも、とても大切なことである。
今日のパンをつくってはくれない
けれど、ベネフィットは大きい。

「不確実性の時代」のなかで、
日々のメディア情報の渦のなかで、
巨視的な視野を獲得しておくことは
精神をおちつかせてくれる。

Yuval氏の著作、
『Sapiens』と『Homo Deus』は
そんな効果もあたえてくれる。

巨視的な視野を獲得していく上で、
見田宗介先生の理論は極めて明晰で
ある。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
に収められている論考、
「人間と社会の未来 - 名づけられない
革命 -」は、とてもパワフルである。

そのなかで展開される論の内の二つは
次の通りである。

●人間の歴史の五つの局面。現代の意味
●現代人間の五層構造

「人間の歴史」は、五つの局面から
なっている。

  1. 原始社会(定常期)
  2. 文明社会(過渡期)
  3. 近代社会(爆発期)
  4. 現代社会(過渡期)
  5. 未来社会(定常期)

見田先生は「現代」をこのように
明晰にとらえている。

 

…「現代」と呼ばれる社会は、この
「近代」の爆発の最終の位相である
という力線と、新しい安定平衡系に
向かう力線との拮抗する局面として、
未知の未来の社会の形態へと向かう、
巨大な過渡の時代としてとらえておく
ことができる。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)


見田宗介先生はこれに照応する
ように、「現代人間の5層構造」を
図示している。

④現代性
③近代性
②文明性
①人間性
⓪生命性

その上で、大切なものに焦点をあて
るように、ていねいに説明を加えて
いる。

 

人間をその切り離された先端部分
のみにおいて見ることをやめること、
現代の人間の中にこの五つの層が、
さまざまに異なる比重や、顕勢/
潜勢の組み合わせをもって、
<共時的>に生きつづけている
ということを把握しておくことが、
具体的な現代人間のさまざまな事実
を分析し、理解するということの
上でも、また、望ましい未来の方向
を構想するということの上でも、
決定的である。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)


見田先生は、このことばを、
言い方をかえながら、繰り返すよう
な仕方で、ていねいに添えている。

ぼくたちは、日々、「人間をその
切り離された先端部分のみ」で
みてしまう。

この警鐘を、この書が出版される
数年前に、ぼくは見田先生の講座
で耳にしていた。
そのときは「素描」のような仕方
で論を展開されていた。

ぼくは、その後、西アフリカの
シエラレオネ、東ティモール、
そして香港と移住していくことに
なる。

世界のさまざまな人たちに出会い、
一緒に喜び、一緒に苦闘し、
一緒に悲しみ、ときには互いの
フラストレーションをぶつけあう。
そのなかで、自分の感情から、
一歩距離をおくとき、ぼくは
この「現代人間の五層」を
思い出してきたのだ。

 

見田先生は、この文章につづき、
「名づけられない革命」の
素描的な記述をしている。

Yuval氏の新著『Homo Deus』
の副題「A Brief History of
Tomorrow」にある「明日の
歴史」を、この「名づけられない
革命」に接続することを、
ぼくなりに思い巡らしている。

「名づけられない革命」が
「明日の歴史」を形づくる、
ひらかれた未来を想像しながら。

Yuval氏の新著『Homo Deus』を読みながら、ふと気づく。 by Jun Nakajima

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』を読む。
副題は「A Brief History of
Tomorrow」。

Yuval氏の前著『Sapiens』
(邦訳は『サピエンス全史』)に
続く、名著である。

著作『Homo Deus』は、
サピエンス(人間)が3つのことを
克服してきたことから始まる。

●飢饉・飢え(famine)
●ペスト(plague)
●戦争(war)

もちろん、飢えや伝染病や戦争が
完全になくなったわけではない。
世界では今も、それらに苦しむ
人がいる。
ぼくも、そのような境遇に置かれた
人たちを、国際協力の形で支援した
ことがある。

ただし、Yuval氏は、これらが
「manageable challenge」に
なったことに焦点をあわせる。

現代は、一部を除き、これら3つが
日々の生活に隣り合わせにあるわけ
ではない。

確かに、人間は、これら3つを
ある意味において克服したのである。

この第1章を読みながら、ぼくは
ふと気づいたのである。

「戦争」は、この「manageable
challenge」に変わっていて、これは
歴史においては大きな意味を持つこと。
ぼくの視野が狭くなっていたこと。

ぼくは「戦争」が幼少期の頃から
嫌いである。
シエラレオネや東ティモールで、
戦争の傷跡も間近に感じてきた。
現場でできることをしてきた。
でも、「人間の歴史」という歴史の
長いスパンの中で見ることができて
いなかった。

「人間の歴史」の中では、
今の時代は「特異な位置」にいる。
このことを、長い時間軸の中で、
考えさせてくれる書籍である。

何かの可能性だけでなく、
何かの「予感」に充ちた書籍である。

ぼくは、自分のなかで、手につかめ
そうな「予感」を感じている。
自分の「何か」につながる予感を。

「香港」は、語りにくい - 香港を知るための2冊 by Jun Nakajima

香港に住んで10年になる。
香港とともに成長してきた。
日々「香港」である。
日々「フィールドワーク」である。
でも「香港」は語りにくい。

その「香港」を知るために、
この2冊は読んでおきたい。

・倉田徹・張彧暋『香港』(岩波新書, 2015年)
・吉川雅之・倉田徹『香港を知るための60章』(明石書店、2016年)

人により、香港を知る「目的」は
さまざまである。

それは、香港で住むため、
香港を研究するため、
香港や香港文化に興味があるため、
であるかもしれない。

いずれにしろ、この2冊は読んで
おきたい。

ぼくは、これら2冊には、
香港で10年ほど生活してから
出会った。

『香港』(岩波新書)の冒頭は、
ぼくの「感覚」を共有する出だしである。

 

「香港は一冊の難解な書だ…。」
この言葉は、…中国政府の香港出先機関
である中央政府駐香港連絡弁公室(中連
弁)の初代主任を務めた姜恩柱が残した
名言である。…
…この台詞は、香港研究を生業とし、
「香港とは何か」を捕捉することを
職業とする筆者(倉田)の頭の中にも、
毎日のように去来する。

倉田徹・張彧暋『香港』(岩波新書)
 

大学で中国語を学んでいた
ときに香港に授業で触れ、
大学在学中に、香港に初めて足を
踏み入れ、
そしてこの10年住んでみて、
それでも、ぼくも感じる。
香港は語りにくい。

そして、その語りにくい香港は、
常に変わっている。
スピードも圧倒的に速い。

いつまで香港にいるかはわからない。
でも、しばらくは、この変動の香港を、
ぼくは見続けていく。

そして、香港を知るためのもう一冊を、
近日中に、世に放ちたい。