ひとに「伝える」ことができるとしたら -「伝える技術」の一つ下の地層で。 by Jun Nakajima

「伝える技術」的な書籍がポピュラーである。

ぼくも、日々の生活のなかで、いろいろと
参考にしている。
佐々木圭一『伝え方が9割』など、実際の
実践につなげていくべきところが多い。

そもそも本を読む人は意外に少なかったり
する。
また、本を読んだとしても、ぼくを含めて
多くの人が、読んで終わりになりがちで
ある。
内容を実践にうつして、試行錯誤のなかで、
じぶんなりの仕方を身につけていくことが
何よりも大切である。

このような書籍がポピュラーである背景
には、コミュニケーションのむずかしさ
がある。
コミュニケーション能力が、さまざまな
場と局面で求められている。

ひとに伝わらない苦々しい経験と
もどかしさが、伝える方法・仕方の学び
を求める人たちをひきつけていく。

「伝える」ということを考えるとき、
ぼくの脳裏には、社会学者・真木悠介
の文章が浮かぶ。

「エローラの像」という文書で、
真木悠介著『旅のノートから』(岩波
書店)に収められている。

真木悠介は、インドにあるエローラ石窟
群にある「teaching Buddha」という
像から、「伝える」が成り立つことの
「秘密」をとりだしてきている。

この「teaching Buddha」は、3つの
像があり、それらは「教える」という
ことに至る3つの姿勢を形づくっている
という。

 

 最初にあるのが ”giving Buddha” -
「与えるブッダ」、あるいは自分を
「明け渡す」という姿勢。自分を

オープンにするという姿勢である。
次にあるのが ”touching Buddha” -
「触れる」ということ。相手に触れる。
ということである。「心に触れる」
「魂に触れる」という日本語がある
ように、そしてtouchという英語も
また、感動させる、心に触れるという
意味があるように、元々は相手の身体
に触れる、じっさいに触れるという
具体性からくるのだろうが、とにかく
相手の存在の核の部分に「触れる」と
いうこと。このことが次にある。
teaching pose - 「教える」という
ことが可能になるのは、この2つの後
ではじめて成り立つことである。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

教える、つまり「伝える」ということは、
与えること、それから触れることがあって
はじめて成り立っていく。

伝えることができない苦々しい経験の
只中で、ぼくは、この「秘密」を思い出す。

「技術」「術」などのハウツーの手前、
一段下の地層において、ぼくは、自問する。
相手に与えることができているか。
オープンになれているか。
相手の心に触れることができているか。

「方法」は「姿勢」がともわないと、
ぼくたちを、伝わらないことの、あの苦々
しい経験のなかに、おきざりにしていく。

だから、今日も、ひとつ下の地層を、
ぼくは掘っていく。

「香港」にたどりつくまで - 願いと予感が導くところ。 by Jun Nakajima

2007年に、ぼくは「香港」にうつった。
10年前のことである。

どのようにして「香港」にたどりついたのだろう
と考える。
成田空港から飛行機にのってやってきたし、
香港を住む場所として「選択」をしたことも
確かだ。
しかし、表層ではなく、すこし深い「心の地層」
において、ぼくはどのようにして「香港」に
たどりつくことになったのだろうか。

 

(1)香港への「予感」

香港にはじめてきたのは、さらに時間をさか
のぼる1994年。
大学の夏休みに、飛行機にはじめてのって、
ぼくは香港におりたった。
香港から広州、広州からベトナム、そしてその
ルートから香港へもどってくる一人旅であった。

香港のTsim Sha Tsuiのヴィクトリア湾に面す
プロムナードから香港島のビル群を見渡した。
そのときに、ぼくは、香港に仕事でくるような
そんな「予感」を感じたのだ。

香港はまだ中国への返還前であった。

それから、ぼくは香港とはまったく関係のない
「途上国」での仕事にかかわっていく。
香港からは程遠い世界だ。
2006年、ぼくは、東ティモールで、銃撃戦の
なかにいた。

翌年2007年、仕事がおちついたところで、
ぼくは香港に拠点をうつすことになった。

 

(2)海外への「願い」

「香港への予感」をさかのぼり、大学時代の
一人旅からもさらにさかのぼっていく。

ぼくは、中学生か高校生のときだったか、
卒業文集に「将来の自分」をイメージして
書いていた。

手元には、そのときの文集はないけれど、
ぼくは、「世界をとびまわっている」と
書いていたことを覚えている。

将来にたくした「願い」だ。

文集に書いたことを思い出したのは、
NGO職員として、アフリカやアジアを
行き来していたときだったかと思う。

ぼくの願いに「詳細」はなかったけれど、
願いは現実になっていくものだ。

「願い」と「予感」。

ぼくのなかで、これらが化学反応をおこし
ぼくを香港へとおくりだしていった。

あるいは、ぼくが、自分の人生という
「物語」のなかで、勝手にストーリーを
つくっている。

だから、ぼくは、願いと予感を丁寧に、
これからの未来をえがく。
キーボードをタイプし、字を書くこの
手を大切にしている。

香港の街を一人歩きながら、
ぼくは、ふと、そんなことを考える。

「目新しいものはなにもない」と言わない・考えないための、3つの自問。 by Jun Nakajima

ぼくもかつてはそうであった。

話を聞いたり、本を読んだりしてから、
それらの内容に新しいものがないと
「目新しいものはなにもない」と口にしていた。
「(誰それと)同じことを言っている」などと
そこで考えることをやめてしまうこともあった。

でも、いつしか、この言い方や考え方は
じぶんにとってよくないな、と考えるように
なった。
意味がないだけでなく、弊害を生む考え方で
ある。

この言い方や考え方は、
じぶんは「知っている」という立場にいる。
でも、問われるのは、
「ほんとうに知っているのか」ということで
ある。
また、知っているとして、それに沿ったように
何か「行動しているか」ということである。

「目新しいものはなにもない」という人の
多くは、そこで思考も行動もストップして
しまっていることが多い。

ぼくは、このように考えがちなときに
ぼくのマインドにうちかえす問いを即座に
はなつようにしている。

 

(1)ほんとうに「同じこと」か?

「同じこと」であっても、もう少しうがって
みてみる。
ほんとうに同じことであるのか。
同じことのどこに焦点をあてているのか。
同じことに辿りついた経験や体験は。
などなど、一見同じことにみえても、差異が
あったりする。

 

(2)「同じこと」の展開の仕方はどうか?

同じことであっても、本を出版していたりする。
同じことを、ブログで述べていたりする。
それでも、注目を集めたりしていることもある。
同じことであっても、展開の仕方を学ぶことが
できる。

 

(3)じぶんが行動しているか?

目新しいことではないと切り捨ててみたところで
じぶんは行動にうつせているのか問うてみる。

「こんな内容であれば、じぶんでも本を書ける」
と豪語したところで、じぶんは書いているだろうか。
同じことを言っていても、書いていても、その
発信者は少なくとも「行動」をおこしている。
人の差は、行動をおこす・おこさないの差であった
りする。

そして、行動をおこせていないときには、ほんとう
に内容を理解していなかったりする。
内容が「頭での理解」にとどまっている可能性がある。
理解は、頭だけでなく、心、そしてお腹にまで
おとしていくことが大切である。

 

世界は、情報技術の発展とともに、ますます
多くの人たちがじぶんの意見や方法を、
世の中に発信してきている。
目新しいこともあれば、これまで聞いていた
ことと同じ(ような)こともある。

そんなときに、じぶん自身に問い返したい。

そして、じぶんは理解できていても、
また、じぶんは行動していても、それらを
一歩先に踏み込んで、他者にひろげていく
ことも大切である。

だから、「目新しいものはなにもない」と
いう思考停止・行動停止の「呪文」は、
言わないことである。

「コミュニケーション能力」を紐解く - 平田オリザ著『わかりあえないことから』の繊細さ。 by Jun Nakajima

劇作家・平田オリザの「コミュニケーション」
に対するまなざしは、繊細でしなやかである。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)は、副題を「コミュニケー
ション能力とは何か」としている。

世の中で、あまりにも「コミュニケーション
能力」が叫ばれてきたことに対する、問題提起
である。

 

(1)「コミュニケーション能力」とは何か

平田オリザは、コミュニケーションに対して
繊細・しなやかで、しかし真剣な切り口で
疑問を投げかける。

例えば、企業の人事採用では「コミュニケー
ション能力」が求められてきている現状がある。
これに対して、即座に問い返す。


「では、御社の求めているコミュニケーション
能力とは何ですか?」

 

また、企業の管理職者が、若者たちのコミュニ
ケーション能力に嘆くことに対して、きりかえす。


「はたして本当にそうなのだろうか?」


劇作家である平田オリザからの問いかけは、
シンプルだけれど、重い。

ぼくが経験してきた国際協力の現場でも、
海外の企業においても、コミュニケーション
能力の大切さはとてもつもなく大きい。

しかし、コミュニケーション能力を叫ぶ
当の本人たちの「間」において、そこでいう
コミュニケーションの内実のズレがあったり
する。

だから、一段おとして、企業なり企業、
個人なり個人のレベルで、コミュニケーション
能力の内実を明晰に理解しておくことが求めら
れる。


(2)「ダブルバインド」にしばられる

平田オリザは、企業が求めるコミュニケー
ション能力に「ダブルバインド」(二重
拘束)が見られることを指摘する。

「ダブルバインド」とは、二つの矛盾する
コマンドが強制されていることであるという。

例えば、自主性のコマンドが発出されて
いるなかで、ある人が上司に相談する。
相談を拒否されるが、問題が起きると、
報告しなかったことに対して叱られる。

このようなダブルバインドのなかで、
社員たちは身動きがとれなくなっていく。
平田オリザは、日本社会に転じて語る。

 

いま、日本社会は、社会全体が、
「異文化理解能力」と、日本型の「同調
圧力」のダブルバインドにあっている。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

(3)「わかりあえない」地点から。

平田オリザのまなざしは真剣だが、繊細な
地点からの視点だ。

題名にあるように「わかりあえないこと
から」という地点から、コミュニケーション
を語る。

わかりあえないなかで「わかりあう」こと。

しかし、平田オリザは、上記のダブルバインド
を必ずしも悪いこととはみていない。

 

 私たちは、この中途半端さ、この宙づり
にされた気持ち、ダブルバインドから来る
「自分が自分でない感覚」と向きあわなけ
ればならない。
 わかりあえないというところから歩き
だそう。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

そう、
わかりあえないというところから
ぼくは、歩きだし、歩きつづける。

そうすることで、言葉は、「わかりあう」
メディアとなり、そして、まれに、
それは言葉をこえる言葉となるのだ。

「歳だから...」の言い訳を乗り越えるための、3つの方法 by Jun Nakajima

「歳だから…」という言い訳を、
ぼくたちは、例えば30代の若い時期から
口にするようになる。

この「歳だから…」は、他者に向けられた
言い訳であると同時に、それは自分自信に
向けられた言い訳である。

この言い訳を乗り越える方法は、いく通り
もある。

 

(1)日本以外の社会で「実感」する

年齢にぬりこめられた意味や物語は、相対
的なものである。
つまり、社会によって異なる。

日本では、30代後半になると、転職は
難しいといわれる。
香港では、40代でも転職する。できる。
人材流動性が高いからである。

年齢と結婚時期の関係も、社会によって
差がある。

だから、日本以外の国や社会で、年齢に
ぬりこめられた意味や物語を一旦はがして
相対化することである。

 

(2)マラソン大会に出てみる

マラソン大会に参加してみることである。

ぼくがフルマラソンを完走したのは、
「香港マラソン」であった。
タイムはぎりぎりだったけれど、2度目の
挑戦で完走できた。

マラソン大会に参加するなかで、実感として
びっくりしたのは、ぼくよりもはるかに
高齢の方々が走っていることである。

そして、その方々が、ぼくよりもはるかに
速いスピードでかけぬけていくことである。

ハーフやフルマラソンの折り返し地点よりも
手前のところで、ぼくがまだ折り返し地点
を通過する前に、反対方向から、すでに
折り返したランナーたちが、コースをかけ
ぬけていく。

そのなかには、かなりの高齢の方もいる。
ぼくよりも体格的に小さい方々もいる。
盲目の方たちも、伴奏者を伴い、しかし
ぼくよりも速いスピードで走っていく。

「歳だから…」という気持ちが一気に
消え失せていく瞬間だ。

 

(3)成功事例や体験記を読む

有名なのは、ケンタッキーフライドチキン
の「カーネル・サンダース」である。
カーネル65歳からの挑戦であった。

その他、世界でも日本でも、年齢に関係の
ない挑戦・成功劇にあふれている。


時代は「100年時代」を迎えている。
「歳だから…」の言い訳は、100年時代
の生き方にそぐわない。

ぼくたちのマインドは、80年時代の
物語に閉じ込められている。

また「歳だから…」が、自分に対する
言い訳であるのは、「自分」というマインド
がつくりだした「檻」が即座にくりだす
言葉だからである。

自分のつくりだす「檻」からぬけでること。
そのために、他の社会やランナーやカーネル
といった「他者の存在」は大きい。

世界に流されずに生きるには。 - モノが増え情報過多、スピードが加速するこの世界で。 by Jun Nakajima

世界では、モノが増え続け、情報量は過多を
越える量となり、スピードが加速している。

ぼくたちはどのように、このような世界に、
このような時代に、このような社会に
向かうことができるのか。

次の3つを挙げておきたい。


1.「本質」を見極める力

モノ・コトの「本質」を見極める力が
必要である。
世界はモノであふれている。
世界は情報であふれている。
「ほんとうのもの・こと」を探す力である。

本質を見極める力をつけるためには
本質的ではないもの、嘘のもの、虚構のもの
を見ること・経験することも必要である。

見極める眼は「考える力」のことである。
論理的に考える以上に、無意識の次元での
「考える」ことも含め、考える力である。

「考える力」をつけるためには、
考えるための「視点・パースペクティブ」が
必要である。

それは、視点・パースペクティブをつける
ような読書や経験から醸成されていく。

そのような本や人に出会うことである。

「本質を見極める力」は
本質的な生き方をつくっていく。

それは、シンプルだけれど、ほんとうに
大切な生き方をえらびとっていく力となる。


2.「Disconnect 非-接続」する力

「新しい接続」をつくっていくために、
「非-接続」する力である。

「本質」を見極めていくためにも、この力は
大切である。

ぼくたちは、日々の仕事や家事や流れてくる
情報などなどに「接続」されている。

それらの出来事に「反応」する心身をもって
いる。

ぼくたちのマインドは、常に「接続」の状態
にある。

だから、「非~接続」する力が必要だ。

自分の外の事象から「非-接続」すること。
そして、自分の内側(マインド)において
感情などから「非~接続」すること。

方法は様々な仕方にひらかれている。

世界のハイパフォーマーが活用する
メディテーションから、走ること、など。
ストレスに対処する方法(感情を客観視、
紙に書く等)も様々だ。

「非~接続」は、大きくは2層ある。

一つ目の層は「日々の非-接続」。
二つ目の層は「生き方全体の非-接続」。

社会や「常識」や教育などから押し付けら
れた「生き方の全体」において、非-接続
できたとき、生はあらたな世界をきりひらく。

 

3.「自分」をつくっていく力

上の2つもこの内に包含されてしまうが
「自分」をつくっていく力である。

「自分軸」のある人になること。
ただし、常に「自分」を変えていく意志と
姿勢につらぬかれていること。
人からとことん学んでいくこと。
「創られながら創る」という、自分という
人間の解体と生成を生きていくことのできる
人になることである。

それは「自分」をつくっていくなかで、
「他者」にひらかれてあることでもある。 

モノが増え、情報が過多となり、スピードが
加速している世界の中で、ぼくはぼくである
ために、
●「本質」を見極める力
●「Disconnect」する力
●「自分」をつくっていく力
を研ぎ澄ましている。

日々、走り、走りながらメディテーションし、
言葉をかきつづる。
メンターたちの生き方にならい、アドバイスを
もらう。
すばらしい本との出会いを大切にする。
人生のパートナーと共に、成長する。

この世界で流されないように。

とことん人から学ぶこと - James Altucherの流儀に心身が動かされる。 by Jun Nakajima

ベストセラー作家・投資家・起業家の
James Altucherは、とにかく人から学ぶ。
とことん学んでいく。

Jamesは、新著『Reinvent Yourself』
中で、「プラス、イコール、マイナス」の
流儀を紹介している。
(2017年1月の出版。邦訳はなし)

学びはこの「プラス、イコール、マイナス」
から生みだしていく。

「プラス」は、自分よりも「上」の人。
つまり、メンターからの学び。

「イコール」は、自分の「ライバル」で
ある人。ライバルであることからくる学び。

「マイナス」は、自分から「下」の人。
教えることからの学び。

彼の、徹底した学びと、そしてそこから
気づき、さらには実践に、ぼくは心を
動かされ、ぼくの行動へとつながっていく。


(1)徹底した学びの「姿勢」

彼の学びの「姿勢」は、圧倒的にオープン
である。文章から、話し方から、姿勢が
あふれだしている。

彼のPodcast「The James Altucher Show」
では、いつも、そのことを感じさせられる。

毎回、超一流のゲストを迎えての「学び」
のインタビューである。

2017年3月のTony Robbinsのインタビュー
は、JamesもTonyRobbinsも、語りが圧巻
であった。


歴史家Yuval Harari氏(『Homo Deus』
の著者)へのインタビュー
も、傑作である。
ぼくは、Jamesがインタビューの終わりで
投げかけた、とてもシンプルな質問に、
心が震えた。

 

(2)徹底した学びの「振り返り」

それから、彼は徹底して学びを振り返る。

「The James Altucher Show」の
インタビュー終了後に、彼は学びを
文章でまとめる。

その学びは、ブログで公開されていく。
そして、それが、書籍になっていく。

徹底した振り返りには、頭が上がらない。
 

(3)徹底した学びの実践

そして、学びと振り返りは、もちろん
「実践」につなげられていく。

これまで数々の「失敗」を繰り返して
きたJamesが、自分をアップグレード
していく。

 

(1)から(3)のサイクルが高速で
回されていく。

彼の英語は、シンプルな単語で構成され
話し言葉的な文章はリズミカルだ。
文体は真面目すぎず、しかし真剣である。

これらが、総合的に結晶していく形で、
彼の新著のタイトルにある言葉
「reinvention」が生まれたように、
ぼくは思う。

ぼくは、彼の学びへの「謙虚さ」と
「オープンさ」に心身が動かされる。

Jamesのインタビューに耳を傾けながら
自分をアップグレードしていく気持ちの
<炎>を、ぼくは大切にともしている。

「香港」を視て考える - トラベルガイドでもなく、学術書でもない1冊(英語) by Jun Nakajima

「香港」を視て考える。
語りにくい香港を、日々の体験から、
その「世相」から、すくいあげていく。

香港の人や街路や食などから
手がかりをすくっていく。

そして手がかりを文章におとしていく。
ぼくは、文章を書きためているところだ。

文章が書きたまったところで、
他者がどのように香港を「書いて」いるか
気になりグーグル検索する。

検索していて気づいたのは、「香港」に
関連する書籍は、

  1. トラベルガイド
  2. 学術書

の二つが主流である。

この主流に加わる形で、
香港を舞台にした小説などがある。

1と2の「中間」が見つからない。
英語でもグーグル検索するが、やはり
この二つのカテゴリーに収まってしまう。

その間隙から見つけたのが、この書籍で
ある。

『Reading Hong Kong, Reading Ourselves』
Edited by Janel Curry, Paul Hanstedt
(CityU Press, 2014)

香港の大学に来ていたアメリカの研究者
たちが、それぞれの専門分野の視点で、
でもカジュアルな文体と構成で書いた
文章群から成っている。

トラベルガイドでもないし、
がちがちの学術書・研究書でもない。
しかし、学術的な「客観性の姿勢」がある。

トピックは多岐にわたっている。
食、社会、街路、言語、歴史、教育など。
これらを日々の「体験」からすくいあげる。

視点は、西洋人が視る「香港」。
日本人が視る「香港」だけではみえない
視点もはいってくる。

文化と文化の「間」からみえてくる視点が
面白い。

そこの「間」から、
ぼくたちは、どのように、よりよい生き方
を構想できるだろうか。

そんなぼくの思考にお構いなく、
香港の街は、今日も、忙しなく、活気を
装っている。

「Be present」(今ここに在ること)の方法 - 「感謝」を「今」に結びつける by Jun Nakajima

マインドフルネス(mindfulness)などが
ポピュラーになってきている。
関係するところでは、「今ここに在ること」
(Be present)ということが言われる。

この「今ここに在ること」はやってみると
とても難しい。

「今」という時間と「ここ」という空間に
フォーカスしていく。
「在る」とは、文字どおり「する」では
ないということもある。
「今ここに在ること」をしようと思うと
うまくいかない。

ぼくの「思考」は、今ここに在ろうとする
ときに、忙しなく動きまわるのだ。

思考は、効率を考えて、「次にやること」
に向けて投げかけられる。
段取り思考である。
思考が未来に向けて投げかけられる。
常に、次のこと、次のこと、次のこと。

また、ときには、思考は過去のことに
向けられる。

あのときの「失敗」について、こうすれば
よかったとか、ああすればよかったとか。
「マインド」は落ちつきを失い、心配や
不安をよびおこしてしまう。

でも、あるとき、ぼくは気づく。

「感謝」を、「今ここ」に結びつける。
使った食器を洗いながら、いつもは、
思考は過去や未来に向けられている。
そこで、「食器に感謝する」という方法を
とる。
洗いながら、食器に感謝することで、
食器に思考も気持ちも向けられる。

ひとつひとつの動作において、
感謝の心をそそぎこむ。
そうすると、「今ここ」に在ることができる。

そのようにして、動作に丁寧さがでてくる。
気が散って「間違ったことをすること」が
減ってきた。

でも、まだ、少しでも気をぬくと、
思考はつい過去や未来、また「ここでは
ないところ」へ飛び立ってしまう。

「今ここに在ること」を「する」のでは
なく、自然と「なる」までには、まだまだ
道のりは遠い。

こんな書籍もある。グローバルに生きていくために。- John Marcarian著『Expatland』 by Jun Nakajima

グローバルに動くようになり
なかなかのチャレンジングな課題は
「税金」である。

少なくとも、ぼくは、税務や会計の専門家
ではない。

日本を拠点にして、ある期間の間、海外で
仕事をしていくのは、まだ比較的わかりやすい。
あくまでも「軸足」は日本であるからである。

ただし、グローバルな時代においては、
日本生まれであったとしても、様々な仕方で
海外にうつっていくことになる。

大別すると、下記のようなカテゴリーがある。

  1. 「日本を拠点」に海外で生活をする
  2. 「海外を拠点」に海外で生活をする

海外を拠点とする場合は、生活形態は、
さらにバラエティに富む。

「海外Aを拠点」に、「海外A」で生活を
することもあれば、
「海外Aを拠点」に、「海外B」で生活を
していくこともある。

さらに、IT技術の発展による「もう一つの
世界」、つまりインターネットの世界に
おけるビジネスは、状況をさらに複雑にして
いく。

「グローバルなリアルの世界」と
「インターネットのバーチャルな世界」が
重層的に重なりあい、制度が状況においつ
いていない。

そんな「チャレンジ」を前に、
グーグル検索を重ねていたら、標題の書籍を
見つけたのだ。

John Marcarian氏による『Expatland』。
(英語の書籍で、邦訳はない)

著者は、税金のアドバイザーである。
グローバルな国外居住者(expat)の税金
に関する専門家で、自身で会社を設立している。

本書は「設定」が面白い。
「Expatland」という架空の世界を設定し
国外居住者にまつわることを説明している。
各国の国外居住者を「ひとつ」にまとめて
いる。

扱っているトピックは次の通りである。
税務まわりを中心に、幅を少し広げている。

・「Expatland」の家族生活
・「Expatland」の教育
・「Expatland」の銀行
・「Expatland」のファイナンス
・「Expatland」のファイナンシャル・プランニング
・「Expatland」のエステート・プランニング
・「Expatland」の保険
・「Expatland」の法務
・「Expatland」のセキュリティ
・「Expatland」の構造
・「Expatland」の税務
・「Expatland」の定年

書籍紹介の動画もよくできている。

これらの「導きの系」を頼りに、
ぼくは「Expatland」の税務にわけいって
いく。

英語でのグーグル検索が、ぼくに
幾千もある導きの系のひとつを手渡して
くれた。

「インターネットのバーチャルな世界」は、
ひとつではない。
そこでは、言語により、異なる世界が
広がっている。
ひとつの世界の裏に・横に、別の世界が
ひろがっている。

「英語」は、字義通り、もうひとつの
「世界」にわけいる入り口である。

生き方の「モデル」をみつけることで変わる - シュリーマンの語学力 by Jun Nakajima

外国語を勉強してきて、
外国語を駆使し、ぼくは
日本以外のところで生活してきた。

「きっと将来役にたつ」との確信の
もとに、英語にフォーカスし、勉強してきた。

外国語学習ということで、
誰か「モデル」となる人がいたかと
いうと、なかなか思い出せない。
鮮烈な「モデル」は、人の人生を
大きく変えていく力をもつことがある。

覚えているのは、
『古代への情熱』(岩波文庫)の
シュリーマンである。
シュリーマンは、19世紀に生きた
人物である。

トロヤ戦争の物語から、トロヤの
古都が必ず存在したことを信じる。
そして、数々の困難を乗り越えて
トロヤ遺跡を発見した人物である。

ぼくは、学校の「課題図書」で
この『古代への情熱』を読むことに
なった。
副題にあるように「シュリーマン自伝」
である。

トロヤ遺跡に辿りつくまでの「情熱」に
も、ぼくは心を動かされた。
しかし、彼の語学に対する「情熱」も
また、ぼくの脳裏に鮮明に焼きついたのだ。

彼の言語習得の「一方法」は次の通りである。

● 非常に多く音読すること
● 翻訳しないこと
● 毎日1時間をあてること
● 興味ある対象について作文すること
● この作文を教師の指導によって訂正すること
● 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること

(『古代への情熱』岩波文庫より)

「あとがき」にあるように、
シュリーマンはその後15ヶ国語を
話したり書いたりするようになったという。

ぼくのイメージには、
この圧倒的な語学力をもつシュリーマンが
存在している。

その後のぼくの人生で、15ヶ国語が
できるようになったわけではない。

でも、シュリーマンの「生き方」は、
ぼくに、夢や勉学の情熱と人間の可能性を
教えてくれたように、思う。

学校の「課題図書」は、その当時は
できれば避けたいものであったけれど、
シュリーマンやヘルマン・ヘッセなど、
その後のぼくの人生に影響を与えてきた
ことを、25年ほど経ってから、ぼくは思う。

世界で人々の生活を観る「メガネ」: 柳田國男『明治大正史-世相編』のちから。 by Jun Nakajima

世界のいろいろなところで
いろいろな人たちの生活をみることは
楽しみのひとつである。

着るもの・着方、食べるもの・食べ方、
住むところ・住み方など、興味と関心
はつきない。

香港に10年住んできたなかで、
それら変遷を観ることは、ぼくの
楽しみであった。

例えば、日本の「おにぎり」。
香港の食に最初は浸透せず、
でもそれが徐々に受け入れられていく
移り変わりは興味深いものであった。
香港では主食に「冷たい食べ物」は
好まれないと思われていたから、
なおさら興味深いものであった。

柳田國男の著作『明治大正史 - 世相編』
は、このような「世相」を観る視点や
洞察の宝庫である。

見田宗介の仕事(「<魔のない世界>
ー「近代社会」の比較社会学ー」
『社会学入門』所収)に導かれて、
ぼくは、柳田國男のこの著作に
たどりついた。

第1章「眼に映ずる世相」の冒頭は
こうはじまる。

 

以前も世の中の変わり目という
ことに、だれでも気が付くような
時代は何度かあった。歴史は遠く
過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて
記憶するというだけでなく、
それと眼の前の新しい現象との、
繋がる線路を見きわめる任務が
あることを、考えていた人は
多かったようである。ところが
その仕事は、実際は容易なもので
なかった。この世相の渦巻きの
全き姿を知るということは、
同じ流れに浮かぶ者にとって、
そう簡単なる努力ではなかった
のである。

柳田國男『明治大正史-世相編』
(講談社学術文庫)

 

今の時代も「世の中の変わり目」
である。誰もが気づいている。
しかし、「同じ流れに浮かぶ者」
として、世相を知ることは容易
ではない。

柳田國男がこれを書いたのは、
1930年であったという。
この時間の隔たりに関係なく、
本書はほんとうに多くのことを
まなばせてくれる。

ぼくたちの日本での「衣食住」を
ふりかえるだけでなく、
柳田の視点や洞察は、時間と
空間を超えるものがある。

ぼくは多少なりとも、
そんな視点と洞察の「メガネ」
をかけて、ここ香港の「世相」
を眺めてみたいと思う。

日本以外の国・地域(海外)に
いることのいいところは、
「同じ流れに浮かぶ」ことから、
多少なりとも、流れの外にでる
ことができることである。

それを寂しいという人もある
かもしれないけれど、興味の
つきない<立ち位置>であると、
ぼくは思ってやまない。

Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方 by Jun Nakajima

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。