香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫と出会う。

香港に住んでいて、「猫」を見ることがほとんどない。いつのことだったか、そんなことを思ったことがあった。

香港に住んでいて、「猫」を見ることがほとんどない。いつのことだったか、そんなことを思ったことがあった。

風景のなかに猫があらわれるのは、まれなことである。「香港」とくくってしまうのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくともぼくの経験からは、猫はあまり見ないのである。

逆に(「逆」と言い方もどうかと思うけれども)、「犬」はよく見る。ほぼ毎日(家の外に出るとすれば「毎日」)、ぼくは犬を見ている。ほんとうに、いろいろな犬たちを目にする。

おどろくことではなく、犬たちにとっては「散歩」があるからである。猫たちも「外出」はあっても、散歩ではない。


このような風景があらわれる「前提」、つまり環境をまだぼくは書いていない。

その前提とは、「高層マンション/アパートメント」の立ち並ぶ環境である。香港で暮らしてゆくとき、一軒家のオプションもあるけれども、香港の中心部に近くなればなるほどに「高層マンション/アパートメント」に住むことが「ふつう」である。

香港に長く住みながら、ぼくは、この「あたりまえのこと」に「明確に」気づいたのは比較的あとになってからであった。

覚えているのは、台湾を旅していたときのこと。台湾(香港から2時間弱のフライトで行ける距離にある)を旅していたとき、バスの窓の外に見える風景を見ながら、ぼくは「あれ、なんか違うなぁ」と感じたのであった。それは「高層ビルが少ないこと」であり「一軒家」が多いこと、つまり「香港と異なる風景」であった。

香港で日々暮らしてきて、「一軒家」の立ち並ぶ環境にいなかったことに、ぼくは気づいたのであった。


このような高層マンション/アパートメントの立ち並ぶ環境のなかで、猫たちは「家」のなかで暮らすか、あるいは一軒家的な場所でときおり、その姿をぼくに見せるのである。

だから、香港の中心から離れ、郊外の町にいったときに、路地裏で猫を見たときには、とてもなつかしく感じたりすることになる。また、香港の中心部においても、高層ビルが建っているような開発されている場所ではなく、裏道のようなところで、猫に出会うことがある。

そんな場所で猫に出会うと、「おっ」と、心が少し踊ることになる。

このブログの写真は、店先でゆったりとかまえる猫に出会って心が踊り、その気持ちにまかせて撮った猫である。

村上春樹の本に、旅のエッセイが収められた『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)という本があって、そのなかに、奥様である村上陽子が撮影した猫たちの写真も掲載されている。とてもすてきな写真たちだ。

香港の路地裏で、猫に向けてカメラを向けようとしたとき、ぼくの脳裏に、それらの写真たちが浮かんだ。ということを、とくに意味もないけれど、ここに書いておきたい。


ところで、少しまえに、読んでいた本のなかで、町の路地裏に猫(野良猫)たちが登場する。

その本のなかで、著者の平川克美は、自身で「猫の町」と呼ぶ、五反田と蒲田をつなぐ池上線沿線の䇮原中延駅の近くに引っ越してきてから、何か月か後に、道で出会う猫たちと会話をするようになったことを書いている。


 わたしはときどき、猫と対話します。
 「こんにちは。少し話をしようじゃないか」
 「きみたちにとって、この町は住みやすいですか。きみたちの仲間は、どうやって食べ物を確保していますか。病気になったときはどうするんですか」
 こんな質問を投げかけてみるのですが、もちろんわたしは猫語を話せるわけではありませんので、かれらに通じるわけもありません。

平川克美『路地裏の資本主義』(角川SSC新書、2014年)


こんな「猫町」から見ていると、「人間の生活の過剰さ」がよく見えてくると、平川克美は書いている。

そんな「猫町」の猫たちは、つぎのように、平川に問うている(平川克美の耳には、そのように聞こえてくる)。

「あなたたちは、どこへ行こうとしているのですか」と。


「猫町」ではないけれど、香港の猫たちは、果たして、なにを「問う」ているのだろうかと、ここ香港で、ぼくは考えてみたりする。

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「Mind the step」の連鎖する階段をのぼりながら。- 香港「Tai Kwun(大館)」にて。

香港のセントラルにある「Tai Kwun(大館)」(旧警察署・監獄などの跡地が改造されてつくられた、歴史遺産とアートの文化的空間・施設)。

香港のセントラルにある「Tai Kwun(大館)」(旧警察署・監獄などの跡地が改造されてつくられた、歴史遺産とアートの文化的空間・施設)。

2018年にオープンしたばかりの「Tai Kwun(大館)」は、TIME誌2018年9月3日号/10日号の特集「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)のなかで、「100 Destinations to Experience Right Now」(今体験すべき目的地100)のひとつとして選ばれた文化施設だ。


その「Tai Kwun(大館)」の敷地内に「JC Contemporary」と呼ばれる現代芸術館がある。

このブログの写真は、「JC Contemporary」内の「階段の風景」だ。

「JC Contemporary」の建物に入ると、レセプションが右にあり、展示物を見るためには左前方の階段をのぼってゆくことになる。階段にあがる手前のところにエレベーターもあるけれども、(確か)フロア・1階・2階からなる建物だから、階段へとふつうにひきよせられてゆく。


見てすぐに気づくように、この階段には、「Mind the step」という表示が、階段の一段一段につけられている。

Mind the step。段差に注意。

それぞれの段の奥ゆきが少し長いのだけれど、特段、段差が高いわけではない。


だから、ぼくの「思考」が少しばかり、混乱する。

こんなになんども注意されなくても、大丈夫なんだけれども、と。

いや、訪問者の人たちに向けて、丁寧に丁寧に伝えてくれているのだろうか。そうだ、でも、ここは美術館。コンテンポラリー・アーツだから、これも「エキシビジョン」のひとつだろうか。エキシビジョンとして、なにかを語っているのだろうか。

写真で見るのではなく、実際に、この階段を一段一段、足元に視線をおとしてゆっくりとのぼるとき、「Mind the step」の文字は、いやおうなく、ぼくの眼と思考のなかに入り込んでくる。


思考の少しばかりの混乱がほどかれて、あとで思ったことは、「mindfulness(マインドフルネス)」のこと。意識・注意を「今ここ」の経験に向けること。

メディテーション(瞑想)とともに、ここのところ注目をあつめてきた「mindfulness(マインドフルネス)」。

「Mind the step」の表示は、一瞬一瞬において、一歩一歩、一段一段へと意識・注意を向けさせる。まるでマントラのように頭のなかでひびきながら。

この現代という時代において、ぼくたちの頭のなかは、いろいろな「声」や「ノイズ」でいっぱいである。歩くという行為、階段をただのぼるという行為のあいだにも、いろいろな声やノイズがやってきては、ぼくたちの意識や注意は「今ここ」から離れてしまう。

アーティストの意図があったり、訪問者たちの受け取り方はいろいろだろうけれど、「Mind the step」の表示が連鎖してゆく「JC Contemporary」の階段を思い出しながら、そんなことをぼくは考えている。

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なぜか「日本の風景」が心象風景にあらわれる久石譲の映画音楽。- <風景の地層>を、さらに降りてゆく。

作曲家の久石譲。

作曲家の久石譲。

ジブリ映画などの映画音楽をつくる作曲家として、よく知られている。映画音楽の作曲家としての「顔」があまりにもよく知られているが、映画音楽にかぎらず作曲家として音楽をつくり、指揮者であり、ピアニストであったりと、いろいろな「顔」をもっている。

ここ香港でもよく知られているようで、2018年、香港でのコンサートは、チケットがすぐに売り切れていたことを覚えている。席があれば行こうと思ってWebサイトをひらいたら、売り切れだったから、そのことをぼくは覚えている。

そんな久石譲が、解剖学者の養老孟司と対談をし、それをもとに出版されている『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)。

この本を最近読み返している。ずいぶん長い現在進行形の読書である。読んでいて、かんがえさせられるところで立ちどまる。他のアーティストなどの名前や作品名がときおり触れられると、つい、いろいろと調べたくなったり、音楽家であれば作品を聴いてみたくなって、また読書から脱線してゆく。

そして、久石譲の作品を聴きたくなる。ジブリ映画のサウンドトラックを聴きたくなる。


そんなふうにたどりついて、ここ香港で、ジブリ映画のサウンドトラックを聴く。「天空の城ラピュタ」や「千と千尋の神隠し」などのサウンドトラックを再生し、流れてくる音楽に、ぼくは耳をむける。

すこしおどろいたのは、それらの音楽を聴いていたら、なぜだか、なつかしい「日本の風景」が、ぼくの心象風景にあらわれるのだ。

香港には日本のいろいろなものがいっぱいにあるし、とくに「ホームシック」的な感情をぼくは抱くことはないのだけれども、久石譲によるジブリ映画のサウンドトラックを聴いていたら、そのような感情がわきあがってきたのだ。

それは、他の日本の音楽を聴いてもわきあがってこない感情である。

音楽はそれ自体で「風景」をもつというよりは、それを聴く人がその(ような)音楽をどこでどのように聴いていたのかという個人史とのかかわりのなかで色合いをもつものである。だから、これらの音楽がぼくの実際の生活のなかで、どんなときに、どのように流れていて、どのように聴いたのか、ぼくはじぶんの記憶をめぐってみたけれど、なかなか「これだ」という記憶が思いつかない。

異国で「千と千尋の神隠し」のDVDを観ていたことがあって、そのときの感情とつながっているのかと思ったりするのだが、やはりよくわからない。


そんな記憶や感情にいろいろと思いをめぐらせていたら、なつかしい「日本の風景」は、たんなる日本の風景というよりは、いわば、その<風景の地層>をさらに降りていったところにある風景であるように感じられる。

「映画音楽」は製作者側からの注文がはいるから、「自由に」音楽をつくることができるわけではないが、それでも、久石譲の構築する音楽には、そんな<風景の地層>を降りてゆくような響きがあるのかもしれない。

そのように感じてくると、「日本の風景」というよりも、<普遍的な地層>というところと言ったほうが、ぼくにとって、より正確であるように思える。


けれども、久石譲は情感豊かに音楽をつくってゆくというよりは、それとは逆のように見える仕方でつくっているようでもある。


 作曲の仕事をしていると、「その閃きはどこから出てくるんですか?」とか「どんな時にいいメロディーが閃くんですか?」といった質問をよくされるんです。でも正直なところ、困ってしまうんですね。僕自身は別に閃きだけで音楽をつくっているつもりはないので……。音楽というのはドレミファソラシドの中にある12の音を組み合わせていくしかないわけです。要するに、作曲とは限られた音の中での構築作業であって、何かパッと閃いたものを次々出していけばいいというものではない。
 モチーフとなるメロディとかリズムとか、そういう一つの取っかかりは確かにあります。でもそれは、とりとめのない思いつきでしかない。それをどうしたらうまく形にできるか、どうやったら有機的に結合させていけるのか、そういうことを考えながらつくっているんです。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


養老孟司との対談では、このような「構築される」ものとしての音楽、音楽をつくるときの「意識」のこと、音楽制作と「システム」などの興味深い話がつづいている。

そんななかで、つぎのように久石譲が語っている部分を、最後にとりあげておきたい。


 僕は音楽というのは、つくった人間の強い意識というものから離れてくれることが、重要なことだと思っています。もちろん、「これは、俺の書いた曲!」というのを主張したい人は、それはそれで構わないですけど、僕自身はどうではありたくない。

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


つくった人間の強い意識というものから離れてくれること。

ここに、音楽にかぎらず、さまざまな「創作」ということにおける核心のひとつが語られているように、ぼくには聴こえるのである。

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身体性 Jun Nakajima 身体性 Jun Nakajima

<聴覚>と論理性。- ひきつづき、養老孟司先生の「興味深い話」でたちどまる。

生ききること、よりよく生きること、生きる「世界」の奥行きがひろがってゆくこと。そのために、<五感をとりもどす>こと。

生ききること、よりよく生きること、生きる「世界」の奥行きがひろがってゆくこと。そのために、<五感をとりもどす>こと。

そのことのについて、<触覚>をたよりに、片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法のひとつ、片づけで「残すモノを選ぶ基準」として、<触ったときに、ときめくか>という方法(基準)をとることにもふれながら、別のブログで書いた(ブログ「「触ること・触覚」についてのメモ。<五感をとりもどす>こと。- 「KonMari Method」から、養老孟司、真木悠介まで。」)。

そのブログでは、ちょうど読んでいた、養老孟司・久石譲の『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)での対談にもふれたが、ひきつづき、養老孟司先生の「興味深い話」に耳を傾けるために、たちどまりたい。

興味深い話とは、「聴覚と論理性」という話である。<聴覚>というものは、つまり<耳>は、論理的である、という話である。

論理の時代ではないと言われるけれども、ぼくは「論理」はさまざまな場面でひきつづき(あるいは、ある意味ではこれまで以上に)大切であると思っているので、この「興味深い話」でたちどまっておきたい。


養老孟司は、「聴覚と論理性」について、つぎのように語っている。


 …たとえば諄々と理屈を説いて聞かせる時は、証明が順繰りになりますね。それが論理ですから。論理というのは耳そのものです。目は耳とまったく違う性質を持っていまして、こちらは一目でわかる。だから、「百聞は一見に如かず」というんです。百聞の方は筋道立ててきちんと言う。対して目の方は「そんなの一目見たらわかるだろ?」と。
 …聴覚系が本来持っている性質が論理性です。目はそういう論理性を持っていません。だって、あるものがみんな目に入ってしまいますからね。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)

「百聞は一見に如かず」という諺がつかわれる文脈は、「見てわかること」が大切であることを語るようなところである。けれども、物事を理解するために、物事の「因果関係」(つながりかた)が重要であることへと、養老孟司は注意を向けている。

実際に、耳の聴こえない人は、因果関係の把握がむずかしいのだという。「疑問形」がわからないというのだ。

生まれつき耳が聴こえない子どもに「疑問文」を教えるためには、文章を「穴あけ問題」にして、<ブランクを埋める>ようにしてゆく。文章の「穴あき」は見えるから、それによって、「疑問」ということを教えてゆくようだ。

<疑問文というのは論理の基本>と、養老孟司は語る。

なお、対談相手である、作曲家の久石譲は、音楽は情動的なものだと思われているが、むしろ「音楽は論理性がたかいものなんだ」という考えをもっていると語ることについても、養老孟司は、音楽は論理的であると応答している。耳は、時間のなかを単線的に動いてゆくからである。

ほんとうに「興味深い話」である。(「音楽は論理的である」ということは、音楽のなかに組み込まれている「定量音符」という「標準化された時間」とも関連させてゆくことで、さらに興味深くなっていきそうだ。)


「興味深いけれど、だから?」と思うひともいるかもしれない。

ひとつ言えることは、聴くこと、<聴覚>ということを、生活のなかでもっと生かしていくことはできるだろうと思う(「世界をきく」。それだけで「世界」の奥行きが変わる。真木悠介はそう書いている。ぼくもそう思う)。

「オーディオブックや音声インタビューを聴く」ということをぼくが好きで、かつ有効利用してきたことには、聴くということの論理性があるのかもしれないと思ったりする。

そしてまた、<疑問文というのは論理の基本>と語られているように、「疑問文」を生かして論理をきたえる方法もいろいろにかんがえることができそうだ。

「方法」はいろいろにやってくる。まずは、「世界をきく」に、<穴をうがつ>のだ。

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「触ること・触覚」についてのメモ。<五感をとりもどす>こと。- 「KonMari Method」から、養老孟司、真木悠介まで。

片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法のひとつに、片づけで「残すモノを選ぶ基準」として、<触ったときに、ときめくか>という方法/基準がある。

片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法のひとつに、片づけで「残すモノを選ぶ基準」として、<触ったときに、ときめくか>という方法/基準がある。

そもそも、片づけでは「捨てる」ことにフォーカスしてしまいがちななか、本来、片づけでは「捨てるモノ」よりも「残すモノ」を選ぶことが大切であるという認識をベースに、その基準を、触ったときの「ときめき」におくこと。

モノを触ったときに、じぶんの身体にどのような反応があるか。心が「ときめく」か、どうか。「KonMari Method」の要の部分である。

この方法を知ったときには「なるほど、いい方法であり、いい基準だなぁ」と思った。今回観たNetflixのリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』のシリーズ(シーズン1)でも、アメリカの家庭の人たちがこの部分をどのように捉え、実践しているかは、ぼくが見るポイントのひとつであった。

ぼくの関心のおきどころは、人間のもつ<触覚>ということにある。

触覚はもちろんのこと、<五感をとりもどす>ということは、ぼくが「生きる」ということにおいての中心的な課題のひとつとしてありつづけてきたからである。


リアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』を観ていたころに、ちょうど読んでいた解剖学者の養老孟司と作曲家の久石譲の対談で、養老孟司はつぎのように語っている。


 現代人は全体的に感覚が鈍ってきていますが、五感の中で今一番軽視されているのは「触覚」ですね。都市というのは、触ることを拒絶している傾向があってね。コンクリートの壁、触る気になります?…
 生コンの剥き出しの壁なんて耐えられないでしょう。それから、屋外の手すりを金属製にするなんていうのも、とんでもない話。陽があたっている時に触ったら火傷しそうで、寒い時に触ったら手がくっついてしまう。手すりというのは人間が手で触るためのものなのに、安全性、耐久性だけでものをつくるとそういうことになる。… 
 触ることを拒否している構造物の中にいたら、ますますからだが置き去りにされる。現代文化はそうやってどんどん感覚から離れていく。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


養老孟司はこのように<触覚>をとりあげている(なお、触覚をとりもどすことの一環として「木の文化」の復権を、養老孟司は考えている)。

「KonMari Method」の<触ったときに、ときめくか>という方法(基準)は、この<触覚>という感覚にきりこみ、そこから<歓び(joy)>の感覚をとりもどすことを、その核心としている。


<五感をとりもどす>を、ぼく自身が「明確に」関心をもちはじめたのは、18歳のときからアジアを旅し、ニュージーランドに住み、そしてそれらの体験をことば化してゆく過程のなかで、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年→ちくま学芸文庫、2003年)に出逢ったことがきっかけである。

『気流の鳴る音』のなかで、「われわれの文明はまずなによりも目の文明」であると真木悠介は述べながら、人間における<目の独裁>から感覚を解き放つことで、「世界」は違った仕方でぼくたちに現れることについて、書いている。


…<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
 人間における<目の独裁>の確立は根拠のないことではない。目は独得の卓越性をもった器官だ。

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫


<目の独裁>の根拠にかかわることとして、真木悠介は「仏教における五根」の序列性を挙げている。仏教では五根を「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」というようにならべるが、この「配列」(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が、とても自然であるように思われる。

そのことを指摘したうえで、五感を通じた「対象との距離」という視点で、上の配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろうと、とても興味深いことを真木悠介は書いている。

「視覚」は、対象からもっとも距離をおくことができ、対象を認識するうえで主体が身を賭することを最小にすることができる。「触覚」は、主体が身を賭することなしに、対象を知ることができない。

屋外の金属製の手すりは、陽があたっているとき、視覚では「熱そう」であるのにたいし、触覚では「熱い」となる。「熱そう」と「熱い」のあいだには、主体が賭することの程度のひらきが横たわっている。

こうして主体が身を賭することを最小にしながら「危険」を回避しつづけ、いつしか、「目の独裁」が生活のすみずみまでいきわたることになる。「目の独裁」は、ぼくたちの「感覚(センス)」を鈍らせ、ぼくたちが感覚する「世界」を狭めてしまう。

養老孟司のことばを繰り返せば、「ますますからだが置き去りにされる」ことになる。


だから、<触ったときに、ときめくか>という、とてもシンプルな方法は、生きかたを変えてゆく起動装置を、その核心にそなえている。

でも、核心にそなえているだけであって、それを起動してゆくのは、それぞれの個人である。

「目の独裁」はとても強力なので、<触ったときに、ときめくか>という方法を採用して片づけをはじめても、気がつけば、目で判断しているなんてこともおきてくる。

そんな状況にも笑いながら、「世界にふれる」を、もっと日々のなかにとりこんでゆく。そしてまた、「世界をきく」「世界をかぐ」「世界を味わう」ことをひろげてゆくことで、「世界」の奥行きは変わってゆく。ぼくはそう思う。

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音楽・美術・芸術, 野口晴哉 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 野口晴哉 Jun Nakajima

ひとびとを魅了してやまない肖像画「モナ・リザ(Mona Lisa)」。- 野口晴哉による「モナ・リザの微笑」論へ。

CNNのニュース(2019年1月9日)に、「Researchers debunk myth about Mona Lisa’s eyes」(研究者たちがモナ・リザの目についての神話を覆す)と題された記事を見つける。

CNNのニュース(2019年1月9日)に、「Researchers debunk myth about Mona Lisa’s eyes」(研究者たちがモナ・リザの目についての神話を覆す)と題された記事を見つける。

ここでの「モナ・リザ」はもちろん、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた肖像画である。

その記事では、ドイツにある大学の科学者たちの研究によると、モナ・リザは、実は、この絵画のモナ・リザを観るあなたの「右15度くらいのところ」(おそらく、あなたの右耳、あるいは肩の上)を見ているのだ、という。つまり、描かれた彼女はあなたを凝視しているように見えるけれども、そうではない、というのだ。


それにしても、「モナ・リザ」はほんとうに多くの人たちを魅了してきた。オリジナルだけでなく、いろいろなバージョンを含めて視聴者数をカウントしたら、きっと、とんでもない数字が出てくるだろう。

それから、ほんとうに多くの研究者たちの研究対象となってきた。研究者たちも多彩である。医師がモナ・リザを見て、モナ・リザは病にかかっている、と見て取ることもある。

「研究者」にかぎらず、モナ・リザを見る人それぞれの「専門」や「関心」をフィルターにして、モナ・リザがさまざまな様相であらわれるのだろう。

いろいろな見方と現れ方がありながら、モナ・リザの微笑と凝視は「何か」を考えさせたり、伝えたりするものがある。


ぼくの尊敬する整体の野口晴哉(1911-1976)が、モナ・リザについて書いている。「モナ・リザの肖像」と題され、『大絋小絋』というエッセイ集に収められている。


 人間のどの女にも、こういう微笑はある。しかし見えない人もいる。
 見える人は、どの人にも見る。この微笑が見えるか見えないかで、この世の中の美しさが大きく動く。
 満たされて抑え、更に求むる動きーこれが見える人は、世のすべての動きに美しさを見ることであろう。
 モナ・リザのこの微笑は開三種現象である。

野口晴哉『大絋小絋』(全生社、1996年)


最後の文章のところで「開三種現象」と書かかれているのは、野口晴哉の「体癖」研究をもとに、モナ・リザの体癖を読みとって書かれているものと思われる。「体癖」とは、個人の身体運動がそれぞれに固有な「偏り」の運動に支えられているとし、一種から十二種までを分類している論である。それぞれの偏りが体ぜんたいの動きと連動してゆくさまを、野口晴哉はいろいろに研究し語っており、モナ・リザの微笑に「三種」(四種と共に左右型。体の運動が左右に偏る)の動きを見たのである。

それにしても、体を知り尽くした野口晴哉の巨大な知性を介して、モナ・リザの微笑が、とても簡潔に語られ、しかしいっそうの深みを帯びてくる。この微笑が「見える」人は「世のすべての動きに美しさ」を見ることだろう、とは、言っていることはわかっても、深みのある示唆である。

このように感覚する<感受性>を、じぶんがもちあわせているかどうか、心許なくなる。


「満たされて抑え、更に求むる動き」。この動きのなかに<美しさ>があらわれるのだと、野口晴哉は書いている。

このことを充分に「わかる」とは思わないけれど、ぼくは、野口晴哉の、この「モナ・リザ」論に、とてもひかれるのである。

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成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima 成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima

<手放す>ことへ。David R. Hawkins著書『Letting Go』と共に。- 「逃避」という方法から、はなれてゆく。

近藤麻理恵の「KonMari Method」による「片づけ」が世界的に注目されているが、やましたひでこが提唱する「断捨離」は、片づけのなかでも<手放す>ということにより重心をおいている(人生ステージにもよるけれど、ぼくはこの二つの方法の統合型がより効果があると思う)。

近藤麻理恵の「KonMari Method」による「片づけ」が世界的に注目されているが、やましたひでこが提唱する「断捨離」は、片づけのなかでも<手放す>ということにより重心をおいている(人生ステージにもよるけれど、ぼくはこの二つの方法の統合型がより効果があると思う)。

さらに、<手放す>ということについて、ぼくが多くを学ぶのは、精神科医のDavid R. Hawkins(~2012)からである。

David R. Hawkinsの著書に、『Letting Go: The Pathway of Surrender』(Hay House, 2012)がある。そのタイトル「Letting Go」のとおり、<手放す>ことにかんする本である。

<手放す>ことについて書かれてきた本で、ぼくがこれまで読んだなかで、もっとも包括的かつ科学的である。ぼくの座右の書のうちの一冊である。


「感情と心的機制」(Feelings and Mental Mechanisms)において、人が「感情に対処する方法」として、抑制(suppression)、表出(expression)、それから逃避(escape)があるとしている。

「抑制」は、感情をおさえつける仕方であり、意識的な押さえつけを「抑制(suppression)」、また無意識的な押さえつけを「抑圧(represssion)」として、David R. Hawkinsは厳密に分けている。

「表出」も、それ自体はわかりやすい。誰かに話したりすることで、感情が発散されたり、言語化されたりする。肝要なことは、誰かに話すことは、内的なプレッシャーが発散されるだけで、そもそもの感情の残留物は抑制されて残ることである。

それから、誰もが知るところの「逃避」である。誰もが経験として知るところだけに、David R. Hawkinsの言葉はつきささってくる。


 逃避とは、気晴らしによって、感情を回避することである。この回避ということが、エンターテインメントや酒類業のバックボーンであり、またワーカホリック(仕事中毒)の経路でもある。現実逃避、そして内的な気づきの回避は、社会的に許される機制・メカニズムである。わたしたちは、わたしたち自身の内的な自己を避けることができるし、また、数かぎりない気晴らしによって、感情が湧き上がらないようにすることができる。気晴らしの多くは、それらへの依存度が上がるため、やがて中毒となる。
 人びとは、無意識でいつづけることに必死だ。部屋に入るやいなやテレビのスイッチを入れ、絶えず自身に注がれるデータによってプログラムされながら夢遊状態で歩きまわる人びとを、どれほどよく観ることができることか。人びとは自身に向きあうことにおびえている。孤独である瞬間でさえ、ひどく怖れるのだ。こうして、終わりのない付き合い、おしゃべり、テキストメッセージの送受信、読書、音楽演奏、仕事、旅行、観光、ショッピング、過食、ギャンブル、映画鑑賞、薬の摂取、薬物使用、それからカクテルパーティーなど、絶えず熱狂させる活動にひたることになる。

David R. Hawkins『Letting Go: The Pathway of Surrender』(Hay House, 2012)  ※日本語訳はブログ著者


終わりのない付き合い、おしゃべり、テキストメッセージの送受信、読書、音楽演奏、仕事、旅行、観光、ショッピング、過食、ギャンブル、映画鑑賞などと、逃避の例はつづく。もちろん、これらがすべて、「逃避」を目的としているわけではない。歓びに充ちた読書や仕事もある。

けれども、ここで挙げられるような活動は「逃避となりうる」のだ。じぶん自身をふりかえると、やはり「逃避」だと思うことが多々ある。

さらには、逃避という、内的な気づきの回避は「社会的に許される機制・メカニズム」である。「読書」はダメだと言う人は、まずいないだろう。

上の文章につづく部分を、もう少し見ておこう。


 前述の逃避の機制・メカニズムの多くは、欠陥があり、ストレスが多く、また効果がない。それぞれが、それ自体の中で、またそれ自体において、ますます多くのエネルギー量を必要とする。抑制され抑圧された気持ち(feelings)のますます増大するプレッシャーを押さえこむために、多大なエネルギー量が必要とされるのである。意識・気づきを漸進的に失い、また成長が停止する。創造性、エネルギー、それから他者に対する関心を喪失してしまう。精神的な成長が止まり、また最終的に、身体的また感情の病、病気、老化、それから早死にへと進展してゆく。これらの抑圧された気持ち(feelings)の投影は、やがて、社会的な問題、混乱、また今日の社会の自己中心的で冷淡な特性を増大させる。なにより、その効果は、他者をほんとうに愛したり信頼したりすることをできなくさせ、感情的な孤独と自己嫌悪をもたらすのである。

David R. Hawkins『Letting Go: The Pathway of Surrender』(Hay House, 2012)  ※日本語訳はブログ著者


David R. Hawkinsは明確な記述で、逃避が悪いことだ、とまでは書いていない。そのメカニズムを語り、いわば「逃避活動の行く末」を書いているだけだ。そのようであるからか、David R. Hawkinsの説明は、じぶんをふりかえるときに、とてもするどい言葉となって、じぶんの内面に向かってくる。


このような「感情(feelings)」への3つの対処方法に代わる策は、とてもシンプルだ。抑圧された感情を<手放す>ことである。

方法は、これひとつである。

自己啓発的な方法やアドバイスは世の中にいっぱいにあるけれど、David R. Hawkinsが提示するのは、<Letting Go 手放す>こと、これひとつである。

ただし、シンプルだからといって、簡単というわけではない。抑圧された感情は手強く、幾層にもわたって積層している。ひとつはがれたと思ったら、また違う層があらわれることもある。

でも、じぶんを「変える」ことをいろいろに試みてきて、成果が出ないようなときには、この方法にかけてみるのはありだと、ぼくは思う。

ぼくも、少しずつ、手放している途上だ。その旅の同伴者として、David R. Hawkinsの著作『Letting Go: The Pathway of Surrender』は、ぼくにとって、ある。

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身体性 Jun Nakajima 身体性 Jun Nakajima

「動物に脳がつくられた理由」について。- 養老孟司先生に「耳」を傾ける。

「脳がつくられた理由」。なんだろう。そう聞くと、さらにその先を聴きたくなる。

「脳がつくられた理由」。なんだろう。そう聞くと、さらにその先を聴きたくなる。

養老孟司は、つぎのように、持論を語っている。


…動物に脳がつくられた理由というのは、遺伝子レベルでは間に合わないことをするためなんじゃないかと思います。…つまり、環境に適応するために。昆虫を見ているとよくわかりますよ、あいつら、ものすごく頭が固い……。

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


時間があればいつも虫取りをしていて、虫を知り尽くしている養老孟司は、虫の行動が「段階的」であることを説明している。虫たちは、前の「行動が完了した」という情報が入力されると、次の行動が誘発されるというようになっていて、行動の途中で想定外のことがあっても行動を変えることはない(変えることができない)。むろん、一切反省もしない。


 生物というのは、最初はそうやって、段階的な行動をするようにできているんですね。おそらく遺伝子的なもので決められていた、いわゆる「本能」というやつはそういう行動しかできなかった。
 それを人間は脳を大きくしたことで、人間だけでなく哺乳類なんかそうですけど、「学習」ということをする。学習というのは、その時の状況に合わせて行動を変化させる。
 それをどんどん進化させていったのが人間です。脳がものすごくフレキシブルな行動ができるようになったことで、逆に何でもありみたいになってきた。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


「何でもあり」の世界が脳によってつくられることで、社会は「脳のルール」で規定され、いわゆる<脳化社会>になる。都市のように、自然(身体)を排除しながら、頭だけで構築される。そのような「都市」が隆盛しているのが、この近代・現代社会という、ぼくたちが住んでいるところである(実際に「都市」に住んでいなくても、そのような社会構造のなかにいることに変わりはない)。

最初に戻ると、そのような「脳がつくられた理由」が、環境適応のために、遺伝子に任せておくことができないから、ということである。遺伝子に任せておけないから、別につくられたもの、それが「脳」である。こう、養老孟司は考えている。

「面白いですね」と、この話を聴いている作曲家の久石譲が言葉を発出しているが、やはり面白い。


この対談を読んでいたとき、ぼくは、ちょうど、似たようなことを考えていた時期であった。

人間におこる恐怖や心配などの感情シグナルは、じぶんを守るためでもあるけれど、それはほんとうに「危険」にかこまれていた、はるか昔のものであって、今を生きている人たちの多くにとっては「過剰シグナル」である、と。でも、過剰シグナルをそのままに受け取って、恐怖や心配であることにつきうごかされて、人は行動してしまったりする。

身心の適応スピードと環境変化のスピードとのあいだの乖離がますます大きくなってきていることを、ぼくは考えていたところであった。

この文脈で語るのがよいかはわからないけれど、この「乖離」をうめるものとして「脳」がある。養老孟司の語りを読みながら、ぼくは、いったん、そのように置いてみることにしたのだ。いろいろと細かいところはもっと考えないといけないと思いつつ。

それにしても、ますます大きくなる身心の適応スピードと環境変化のスピードとのあいだの乖離を、どのように生きていくのか、ということが、この先にある問いである。

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いつものぼる太陽が「あたりまえでなくなる」旅と文章。- 探検家の角幡唯介の「極夜行」。

探検家の角幡唯介(かくはたゆうすけ)のノンフィクション作品、『極夜行』(文藝春秋、2018年)。

探検家の角幡唯介(かくはたゆうすけ)のノンフィクション作品、『極夜行』(文藝春秋、2018年)。

太陽が地平線の下にしずみ、太陽が3ヵ月から半年ものあいだ姿をみせない漆黒の夜、「極夜」(きょくや)。その「極夜」を未知の空間ととらえ、先住民が住む集落として世界最北に位置する、グリーンランドのシオラパルクを出発点に、極夜という闇を経験し、「本物の太陽や本物の月」を見る旅。

「私たちは普段、太陽を見ているようで、じつは見ていない」のであり、太陽が人間にとって本質的な存在でなくなったと角幡が書く、この近現代という時代にあって、真の闇をもとめ、そして本物の太陽をもとめる。

こうして、「極夜明けの最初の太陽を見ること」が、あえての、旅の目的として設定される。


極夜。太陽があらわれない、長い、長い、漆黒の夜。そんな「夜」は、想像するだけでも、こわくなる。『極夜行』の旅の準備とはじまりを読みながら、そんな極夜を想像しているだけで、もしそんな状況におかれたら、精神がおかしくなってしまうのではないかと思ってしまう。

以前、それほど遠くない以前に、ぼくは、「もし太陽がなくなったら…」という想像にとりつかれたことがあった。そんな映画や小説があっただろうかと思いながら、とくに思い出せない。地球は永遠ではないし、太陽にも寿命がある。インターネットで検索して、太陽には寿命があるが、はるかはるか先であることを知って少し安心する。

極夜の想像もそうだけれど、「もし太陽がなくなったら…」という想像をするだけで、毎日、あたりまえのようにのぼる太陽が、とてもありがたいものとして感じられる。

そんなことを思っていたこともあり、ぼくはこの『極夜行』を手にとったのだった。


ところで、角幡唯介は早稲田大学探検部のOBである。今はどうかは知らないけれど、ぼくが1990年代半ばにアジアを旅していたとき、早稲田大学探検部の人たちに出会って情報交換などをしたことがあるが、彼らの「探検」にかける意欲と行動には、おどろかされるばかりであった。

そのときの「おどろき」とイメージがぼくの記憶のなかにきっちりとしまわれていたから、角幡唯介が早稲田大学探検部OBと知ったとき、彼が敢行する「探検」の広さと深さへの想像と期待もかきたてられたのである。

そんな想像と期待にもかかわらず、『極夜行』の冒頭の、つぎのような文章に、ぼくは共感をおぼえる。


 学生時代から私はしばしば探検や冒険に出かけてきたが、そのため人からは、何で冒険なんてするんですか、とよく訊かれた。はっきり言って冒険とは生きることと同じなので、その質問はあなたは何で生きているんですかと訊かれるのに等しく、ほとんど回答不能なのだが、そんなことを言って野暮な人間だと思われるのも嫌なので、冒険の意義は自然のなかで死の可能性に触れて、死をとりこむことで生の実感を得ることにあります、などともっともらしいことを言ったり書いたりしてきた。…

角幡唯介『極夜行』(文藝春秋、2018年)


このあとにつづく、彼の妻の出産を契機とした「妊娠出産」考と冒険活動の対比も興味深いのだけれど、それはともかく、「冒険とは生きることと同じ」という感覚と思考のなかで、角幡唯介の探検・冒険は彼にとって存在している。

探検・冒険が「ふつうではない」(標準ではない)世界に住む人たちにとって、そこに「なぜ」という質問が生じてくる。これから徐々にひらいてゆく、<億の生きかた>が相犯さない世界においては、探検・冒険であれ、その他の活動であれ、「なぜ」という質問ではなく、別の質問が交わされることになると、ぼくは思う。


ぼくの質問は、「なぜ」ではなく、「長い、長い漆黒の夜の経験」に直接的に向けられた質問であり、極夜の旅において「本物の太陽や本物の月」をどのように見たのかという問いである。

角幡唯介は探検という活動を「人間社会のシステムの外側に出る活動」とみなしているが、現在の近現代社会を「外側」から照射する経験に、ぼくの問いは向けられる。

この本をひらいて、まだぼくはその旅の途上にいる。角幡唯介の極夜行における直接的な経験に照準をあわせながら、ぼくはこの本を読んでいる。

本を読む旅の途上だけれども、あるいは旅の途上だからこそ、書きたくなることがある。だから、こうして、ぼくは書くのである。

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他者への「批判」のゆくえ(あるいは、減圧)。- <億の生きかた>に向かって。

メディアやSNSなどで、他者の言動にたいする「批判」がなされる。社会的/公共的な問題や課題においては建設的な批判とそれが展開される場が大切であるけれども、「批判」が個人的/プライベートの領域におよんでゆくことは別のことである。

メディアやSNSなどで、他者の言動にたいする「批判」がなされる。社会的/公共的な問題や課題においては建設的な批判とそれが展開される場が大切であるけれども、「批判」が個人的/プライベートの領域におよんでゆくことは別のことである。

「批判」の背後には、「正しい」と信じたり思ったりすることがあって、そこを本拠地として、批判の矢がはなたれる。しあわせや生きかたについても、このようである・あのようであるという「標準」が前提されていて、その標準からはずれてゆくものにたいして、批判の矢がはなたれるのである(批判の矢は身近な人たちにも向けてもはなたれる)。

このような<標準指向>が時代にあわなくなってきている一方で、根強く残っている。この二つの価値観(標準指向と非標準指向)がいろいろな場面で交錯し、コミュニケーションがかみあわないようにも見える。

個人的/プライベートの領域におよび「批判」(標準を基準にした批判)は、時代を経るごとに減ってゆくとぼくは思うけれど、依然として根強く残っている。


これからの「明るい世界」の公準のひとつとして、社会学者の見田宗介は「diverse(多様性)」を挙げているが、その言葉に、具体的なイメージをつぎのように与えている。


 宮沢賢治の詩稿の断片に、このような一説がある。
  ああたれか来てわたくしに言へ/「億の巨匠が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る」と
 われわれはここで巨匠の項のコンセプトに、幸福をおきかえてみることができる。
  億の幸福が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。と
 明るい世界の核心は、億の幸福の相犯さない共存ということにある。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年


「億の幸福の相犯さない共存」ということが語られているが、今はまだ、「億の幸福」が他者を批判し、干渉し、自身の幸福のかたちの「優位」を声高に叫んだりしている。


「億の幸福の相犯さない共存」ということはただの空想的なイメージではなく、見田宗介は「交響圏とルール圏」という論稿(『社会学入門』所収)のなかで、そのようなイメージで語られる「自由な社会」の骨格構成を試みている。「億の幸福の相犯さない共存」この一言のなかには、この論稿(またこの論稿を構成している理論と論考)のぜんたいが、こめられている。

その論稿にここではふかくは入っていかないが、「億の幸福の相犯さない共存」にかんれんして、哲学者ニーチェの生涯を読み解くバタイユにふれながら、見田宗介が書いているところを引いておきたい。


 ニーチェの試みは、魂のことを手放すものと、魂のことを支配しようとするものという、二つの巨大な時代の崖面によって切り出された稜線を、踏み渡る歩行のようなものだった。<「魂の」自由>を擁護することと、<魂の「自由」>を擁護すること。魂ということばを消していうなら、われわれの生の内での<至高なもの>をとりもどすことと、他者に強いられる<至高なもの>の一切の形式を拒否すること。

見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年 ※一部表記方法を変更


ところで、「億の幸福が並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る」のなかにおかれる「幸福」は、より広い意味のなかで捉えられるものであって、その広い意味のなかに包括される言葉(あるいはそれを包括する言葉)として、ぼくは「生きかた」におきかえておきたい。

 億の生きかたが並んで生まれ、/しかも互いに相犯さない、/明るい世界はかならず来る。と

「億の生きかたの相犯さない共存」の世界は、表面的な「明るさ」ではなく、生きるということの核心にこめられた<明るさ>によって照らされる。

このような世界はけっして夢物語などではなく、「人間と社会の未来」は、その<明るさ>の方向にながれこんでいっているのだと、ぼくは思う。

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成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima 成長・成熟, 海外・異文化 Jun Nakajima

観点・視点/思考の奥ゆきの生成。- 思えば、ぼくは、いろいろな「世界」にいた。

思えば、これまで、いろいろな「世界」のなかにいたことを思う。

思えば、これまで、いろいろな「世界」のなかにいたことを思う。

とてもあたりまえのことだけれど、たとえば、どこに住み、どのような生活をし、どのような仕事をし、どのような人たちと日々をおくるかで、世界観とか人生観が異なってくる。まったくといっていいほどに違うこともある。


住む場所でいえば、ぼくは、生まれ故郷の静岡県浜松市、東京・埼玉、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、ここ香港で暮らしてきた。また、住むまでではないけれどマレーシアにも総計で長く滞在してきたし、旅という形で、中国本土、ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー、インドネシア、台湾などにも滞在した。

場所だけで世界観と人生観がつくられるわけではないが、たとえば、東京とシエラレオネでは、まったく「世界」が異なる。そこまで極端にせず、もっと生活水準が近いところを並べてみても、やはり、場所による差異は、世界観や人生観に大きく作用するものだ。そこで生活をともにする人たち、文化、社会システムなどのいろいろが、作用してくる。


仕事でいえば、たとえば、東京ではレストランバーでパートタイムの仕事をし、三重県で短期間のあいだ自動車工場でも働いた。ニュージーランドにいたときは3ヶ月ほど日本食レストランで働き、また、大学を出てからは、NPO職員として(東京、シエラレオネと東ティモールで)勤務、さらには香港で、人事労務コンサルタントとして企業で働いた。

パートタイムからフルタイム、サービス業から工場労働、非営利から営利など、いろいろな「世界」のなかで働いてきた。

仕事の本質的なところにおいては共通するもの・ことを感じながら、しかしそれぞれの役割のなかで、それぞれに感覚し、かんがえることがある。


上に書いた「場所」や「仕事」は、ぼくが<直接的に身を投じる>ところであった。ある場所に、ある役割で身を投じているとき、それぞれに、かかわる人たちや組織やシステムがある。じぶんが直接的にその人たちの仕事をするわけではないし、その組織に所属するのではないけれど、一緒に仕事をしたりするなかで、ぼくたちは<間接的にかかわる>。

ぼくは、NPO職員として国際協力・国際支援にたずさわっているときは、いろいろな立場の方々とお会いし、あるいは一緒に仕事をさせていただいた。NPO/NGOで一緒に働く方々、寄付してくださる方々、ボランティアの方々、国際機関で勤務している方々、日本や他国の政府・政府系組織の方々、専門家の方々、ジャーナリストや写真家の方々、企業のCSR担当の方々、政治家の方々、学校の方々など、挙げていったらきりがない。

支援の受け手側(「受動的」ということではない)に視界をひろげれば、難民の方々、村々の人たち(大人も子供も)、村のリーダーの方々などの姿と表情が思い浮かぶ。

そのあとに、ここ香港では人事労務コンサルタントとして、主に、香港の日系企業で働く駐在員の方々やマネジメントにたずさわっている方々と、日々かかわってきた。「企業の業種」はいろいろで、業種の窓枠がかわると、そこにひろがる「世界」も変容する。

「他者」は、向かい合う他者であるだけでなく、じぶんの「眼」ともなる他者ともなりうる。かかわる人たちや組織やシステムの観点・視点から、ぼくたちは「世界」を見ることができる。

そうであるから、かかわる人たちや組織やシステムも、いろいろな濃度はありながらも、ぼくたちの世界観や人生観に影響してくることになる。

これらの場所や仕事の経験のおかげで、あるいは、出逢った方々のおかげで、ぼくの世界観や人生観はゆたかになってきたのだと思う。

「ゆたか」になることは、それによってすぐさま「利益」をもたらすようなものではない。そうではなく、たとえば、ぼくの観点・視点がそれなりの奥ゆきをもつことである。でも、奥ゆきをもつことは、楽になることでもない。そうではなく、ぼくの思考が、たくさんの<他者たち>を内にもつことである。そのような思考のなかで、矛盾にひたされることもある。

でも、それらをすべてふくめて、「生きる」ということの深さや充実を感じさせてくれるものである。

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片づけへの衝動。- 近藤麻理恵/KonMariのリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』。

2019年1月1日からNetflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』。

2019年1月1日からNetflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』。

「Marie Kondo」はもちろん、『人生がときめく片づけの魔法』の著書で知られる近藤麻理恵(こんまり、KonMari)。Marie Kondoがアメリカ(カリフォルニア)の家庭を訪れ、「KonMari Method」を伝授しながら、彼ら/彼女たちの片づけをサポートする番組である。

「シーズン1」は全8話で構成され、1話ごとに、ひとつの家庭の片づけ模様が展開される。

「リアリティ番組」を観て視聴者が楽しむということだけにかぎらず、各家庭の片づけの様子が「事例」となり、視聴者向けに「レッスン」が語られることで、いわば「片づけのレッスンと事例」によるオンラインコースを受けているような内容だ。

つまり、各エピソードを楽しむことに加え、エピソードを観た人たちが、実際に「KonMari Method」を活用しながら「片づけ」をし、新しい生きかたをひらいてゆくことの起動装置が内臓されている。起動装置を発動させるかどうかは、視聴者ひとりひとりによることは言うまでもないが。

もちろん「KonMari Method」をさらにひろげ、ビジネスがひろがることも目的のひとつであるだろうけれど(実際に、英語訳著書が再度ベストセラーリストに入ったようだ)、そんなことはまったく感じさせない仕方で、全8話の「物語」がすすんでゆく。

各メディアもとりあげていて、ここ香港の英語媒体であるSCMP(South China Morning Post)も、レヴューを挙げていた。

1月1日という一年のはじめという時機、あるいは旧正月がおとずれる前という時機、さらには「近代から脱近代」という歴史的な局面において、「KonMari Method」の方法は、世界中の多くの人たちを捉えているように見える。


番組『Tidying Up with Marie Kondo』が、ほんとうによくできている。ぼくはそう思う。

内容も形式も、よくかんがえられている。

「片づけのレッスンと事例」によるオンラインコース的な内容であることを述べたけれど、視聴者が飽きないよう各エピソードにおいて片づけのどこを見せるかなど、編集がよくなされている。

そもそものぜんたいにおいて、家庭の多様性を考慮して家庭が選ばれ、家族構成やライフステージの異なりを確保することで、多様な視聴者がいずれかのエピソード(物語)を身近に感じることができるように配慮されている。

配慮された「舞台」のなかで、実際に登場する人たちは片づけを通して「ドラマ」を展開し、片づけの「達成」に加え、じぶんたち自身の「変化」をつくりだし、感じとってゆく。人生という「物語」の新しいチャプターがひらいてゆくのだ。

こまかいところでの発見やぼく自身の気づきなどはほんとうにたくさんあるのだけれども、ぼくの好きなシーンは、「greeting the house」、家に挨拶をするシーンだ。

片づけにはいるまえに、近藤麻理恵/KonMariが、家の適切な場所をみつけ、そこに正座し、目を閉じて、家に挨拶をする。「家に挨拶」ということのなかには、未来のありかたをイメージしたり、メディテーション的な要素が含められている。

物語がはじまる、この「はじまり」の気配がとてもいい。家族それぞれによって、このプロセスへの参加の仕方はさまざまで、そのことも興味深いのだ。

そしてなによりも、エピソードを見ると、片づけをしたくなる。実際にじぶんの片づけをしながら、並行的にエピソードを見ると、さらに効果的である(少なくとも、ぼくにとっては効果的であった/効果的である)。


それにしても、「KonMari Method」の魅力ということをかんがえる。

「一気に、短期に、完璧に」という、この時代にあう、スピード感あふれる方法であり、だれもが実践できるシンプルさで、かつ「spark joy(ときめき)」という、これまた時代にあった核心をついている。などなど。

そうやって、いろいろと書いてみることもできるのだけれど、言い尽くしていないように感じてしまう。

ふと、つぎのことを、ぼくは思う。

小説家の村上春樹は、じぶんの書く小説について、じぶんよりも優れた長編小説を書く人はいるけれど、じぶんが書くような長編小説を書ける作家はほかに一人としていないはずだと、あるところで(『若い読者のための短編小説案内』の冒頭に)書いている。

おなじことが、近藤麻理恵/KonMariの「片づけ(また片づけコンサルテーション)」にも言えるのではないか、と。

世界には「KonMari Method」以外にもほんとうにたくさんの「片づけ」の方法(また片づけを教える方法)があるし(ぼくは「断捨離」が好きである)、「KonMari Method」よりも洗練されているものもたくさんあるだろうけれど、近藤麻理恵/KonMariがするような「片づけ(また片づけコンサルテーション)」をすることのできる人はほかに一人としていないはずだ、と。ぼくはそう思う。

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成長・成熟, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 成長・成熟, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

「脳の働きをさまたげない音楽」のこと。- 音楽を聞き「ながら」の仕事。

ビル・ゲイツは20代のころ、一時期、音楽を聴くこととテレビを見ることをやめた。ソフトウェアについて考えることから、音楽やテレビが気を散らすと思っていたからだという。そんな時期が5年つづいたという。集中力を保つためには今ではメディテーションを行い、音楽もU2やWillie Nelsonやビートルズをよく聴くのだという。

ビル・ゲイツは20代のころ、一時期、音楽を聴くこととテレビを見ることをやめた。ソフトウェアについて考えることから、音楽やテレビが気を散らすと思っていたからだという。そんな時期が5年つづいたという。集中力を保つためには今ではメディテーションを行い、音楽もU2やWillie Nelsonやビートルズをよく聴くのだという。

ビル・ゲイツはこの話を、2018年の本のうちの一冊として選んだメディテーションの本(『The Headspace Guide to Meditation & Mindfulness』)について書いている文章の冒頭でもちだしているが、ぼくはここでは、「音楽」ということにフォーカスをあてたい。


ビル・ゲイツ自身が書いているように、音楽を聴くことをまったくやめてしまうことは極端である。「ながら族」をやめるのではなく、生活の一切において、じぶんから音楽を聴くことをやめてしまう。ソフトウェアに集中するために。

このようなことが「ビル・ゲイツ」をつくったのかもしれないが、当時のビル・ゲイツにとっては、音楽が「気を散らす」ものであった。

テレビにかぎらず、「音楽」は、人の「気を散らす」ものである。テレビはまだしも音楽は違う(気を散らさない)、と言う人もいるかもしれないけれど、「音楽」は人の気を(程度の差こそあれ)散らすものである。じぶんが「自己」に正面から向き合うことなどから、じぶんの気持ちを散らして/逸らしてしまう(「気を散らす」はわるいことのように語られるけれども、ここでは必ずしもわるいこととしては書いていない)。

けれども、ここでいう「音楽」は、さまざまな音楽をひとくくりにしすぎでもある。「音楽」はさまざまである。ロックもあればクラシックもある。日本語で歌われるものもあれば、英語で歌われるものもある。

そして、「音楽と人の関係性」も、さまざまである。それは、多様な音楽が人にあたえる影響はいろいろだし、その音楽を聞いている人がどのような状況でなにをしているのかもいろいろである、ということである。


「ながら族」である解剖学者の養老孟司は、つぎのように書いている。


 考えてみると、いまでは仕事中はほとんど音楽を聴きっぱなし、典型的な「ながら族」である。とくに虫の標本を作ったり、観察しているときには、耳が完全に空いている。だから、音楽でそこを埋める。原稿を書いているときも、同じである。いまはファン・ダリエンソが演奏するタンゴを聴いている。それが原稿とどういう関係があるというなら、まったくわからない。ただし歯切れの悪いことは書けないだろうと思う。ダリエンソをご存知なら、おわかりだろう。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)


それから、対談相手である久石譲に応え、曲の選び方は、好きとかではなく、<仕事の邪魔にならないもの>だと、養老孟司は語っている。タンゴなど、スペイン語であれば言葉の「意味」へとひっぱられず、<声を感じる>だけというようにである。

また、集中しているときには聞こえない。思考の途中でふっと気持ちがよそへいくとき、聞こえてくる音楽が<気持ちのいいもの>を選ぶ。

ちなみに、宮崎駿も絵コンテを切っているときなどに音楽をかけているのだと付けくわえながら、久石譲は作曲家として、つぎのように語っている。


久石 脳の働きを邪魔しない音楽というのは、僕も非常によくわかります。作曲家として、ある種、目指しているところでもありますから。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)


映画の音楽を担ってきた久石譲がめざす<脳の働きを邪魔しない音楽>。

ぼくはこのブログなどを書くときはだいたいにおいて「音楽」をかけないけれど、養老孟司と久石譲の対談を読みながら、<脳の働きを邪魔しない音楽>、また意識ではないレベルでなんらかの影響を与えるような音楽のことに(ふたたび)興味をもちはじめる。

「ふたたび」と書くのは、「歯切れの悪いことは書けないだろう」と、ファン・ダリエンソの音楽が養老孟司の心持ちをいくぶんかつくるように、ぼくにとっては、カザルスの音楽が、そのような影響をぼくに与えていたことがあったからである(カザルスの音楽の力を、ぼくは整体の創始者と言われる野口晴哉の本で知り、その力はぼくにも作用した)。

この機会に、ファン・ダリエンソを聴いてみよう(聴きながら、書くことをしてみよう)と思っている。

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最近「実用的・実際に役立つ(practical)」ということを考える。- 肯定的に、のりこえてゆくために。

最近、「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」ということを考える。どれほどその精神が「近代(現代を含む)」を「ゆたかさ」へと推進し、あるいは人を戒めることばとして機能し、そして生活のすみずみにまでその領域をひろげてきたか、ということ。

最近、「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」ということを考える。どれほどその精神が「近代(現代を含む)」を「ゆたかさ」へと推進し、あるいは人を戒めることばとして機能し、そして生活のすみずみにまでその領域をひろげてきたか、ということ。

けれども、その精神に「支配される」のではなく、味方にしながらも、ある意味、のりこえてゆくときであること。


「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」、つまり何かの役に立つ、将来に役立つ、という「考え方」や「生きかた」は、個人や集団の生活、社会を「目的」に向かって、合理的に編成してゆく。「役立たない」ものやことは、切り捨てられてゆく。

とても強力な考え方であり、生きかたである。たとえば(ある側面において見ると)、社会においては「経済成長」、企業においては「企業の成長・拡大」、家族や個人においては「収入の増大」ということを目的として、「役に立つ/役に立たない」という基準で、ものごとが編成されてゆく。

マックス・ウェーバーにふれながら、この「近代社会の原理」について、社会学者の見田宗介は書いている。


 マックス・ウェーバーが正しく言うように、生のすみずみの領域までもの「合理化」、生産主義的、手段主義的な合理化(目的合理性)ということが近代社会の原理であるのは、近代社会が個人と個人、集団と集団、人間と自然との相克性(戦い)をその原理とする社会であるからである。
 たとえば受験生は受験戦争に勝つために現在の生きる時間を、未来の目的のための「手段」と考えて、生活のすみずみまでも合理化し、自分で自分の自由を抑圧することがある。戦争が終結すれば、この「合理化圧力」は解除され、自由に<現在>の生を楽しむこともできる。これは近代から脱近代に至る歴史の局面の、分かりやすい理論モデルである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)


この「近代社会の原理」が、どれほど人間と社会を経済的にゆたかにしてきたのかは多く語る必要はないだろう。現在すでに、先進産業諸社会では、「すべての人びと」に、「幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分」したとしても、そこには「富の余裕」がある。

「受験戦争」が終わると、受験生の「合理化圧力」が解除されるように、「経済戦争」が終わり(少なくとも様相を変質させ)、個人や集団や社会の「合理化圧力」は減じてくる。「脱近代」への歴史的局面、そのトランジションのなかに、現在ぼくたちは生きている。

「practical(プラクティカル・実用的・実際に役立つ…)」を「考える」ということは、近代社会の原理(目的合理性)が、「近代から脱近代に至る歴史の局面」にあって、見田宗介の指摘するように、「合理化圧力」が解除され、あるいは減圧してきている状況におかれているからでもある。


ジム・キャリーは、大学の卒業性に向けて、かつて、次のような言葉を贈った。


…Now fear is going to be a player in your life. You get to decide how much you could spend your whole life imagining ghosts, worrying about the pathway to the future but all there will ever be is what’s happening here in the decisions we make in this moment which are based in either love or fear.  So many of us choose our path out of fear disguised as practicality. …
「さて、怖れはあなたの人生のプレイヤーになるでしょう。あなたは決めなければいけない。自分の人生のどのくらいを、ゴーストを想像し、未来につづく道を心配しながら過ごすのかということを。けれども、これから起きることのすべては、この瞬間におけるわたしたちの決断の中に起きていることなのである。つまり、愛に基礎をおく決断なのか、あるいは怖れに基礎をおく決断なのか。わたしたちの多くは、実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れから、自分たちの道を選んでいるのです。」

Jim Carrey “Full Speech: Jim Carrey’s Commencement Address at the 2014 MUM Graduation”  ※日本語訳はブログ著者


わたしたちの多くは、実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れから、自分たちの道を選んでいると、ジム・キャリーは語る。「怖れ」が「実用・実際(practicality)という姿に粉飾している」という視点は興味深い。

そのことは、マックス・ウェーバーにつなげるならば、「近代社会が個人と個人、集団と集団、人間と自然との相克性(戦い)をその原理とする社会」であり、相克性(戦い)のなかで、「怖れ」が発動されてゆくのだということである。

「実用・実際(practicality)という姿に粉飾した怖れ」をいだき、「将来役に立つ」からと、やりたいことを抑えて、お金になりそうな進学先や仕事を選ぶ。「文学なんかやっても、将来稼げないでしょ」といった「practicalityの声」をひたすら内面化してゆくなかで、<楽しさ>の感覚をうしなってゆく。


けれども、現在の近代から脱近代への歴史の局面、移行期(トランジション)において、「practicalityが主導する生きかた」と「楽しさが主導する生きかた」が、人それぞれによって、異なる濃度をもちながら拮抗している。

ぼくは、「楽しさが主導する生きかた」を選びたい。

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「夢」をもつこと。- <現在>を豊饒にするかぎりにおいて。「consummatory」の観点から。

将来に実現・達成したい「夢」をもつこと。そのような「夢」をもつことがよいのかわるいのか、必要なのか必要ではないのか。あるいは、夢をもつとしたら夢は大きいほうがいい、夢は小さくてもいい/小さいほうがいい。等々。「夢」をめぐって、人はいろいろに語ってきたし、語られている。

将来に実現・達成したい「夢」をもつこと。そのような「夢」をもつことがよいのかわるいのか、必要なのか必要ではないのか。あるいは、夢をもつとしたら夢は大きいほうがいい、夢は小さくてもいい/小さいほうがいい。等々。「夢」をめぐって、人はいろいろに語ってきたし、語られている。

「夢」はシンプルなようでありながら、夢をめぐる議論はシンプルではないようだ。


また、じぶんの夢に向かって邁進する人もいれば、夢がなくて欠如感をいだく人もいる。夢を実現させた人がいれば、夢にやぶれる人もいる。夢をめぐる議論だけでなく、夢をめぐる現実も、多様だ。

「夢」をめぐる多様な見方や側面があることから、夢について「他者と語る」ことも、複雑になることもある。

たとえば、いわゆる発展途上国とよばれる場所を訪れた人たちが、現地で目を輝かせる子供たちに「将来の夢は何なの?」と尋ねることはどうなのか。先進産業地域の子供たちと異なり、将来の「機会」が限定されているなかで、そのような質問は酷ではないか、という見方がある。でも、そのような限定された機会を見事につかみ、道をひらいてゆく人たちもいる(「限定された機会」として現実を見ること自体が偏っている見方であるかもしれない)。


ぼくが思うに、「夢」はもってもいいし、もたなくてもいい。夢は大きくてもいいし、小さくてもいい。夢は実現できることもあれば、夢は実現できないこともあるけれど、いずれであってもいい。

でも、夢が語られたりする場面で敏感に察知したいのは、「夢」に託される「将来」ということ、また「将来」の功罪ということである。

「夢」という「将来」は、<現在>を豊饒にすることにおいて、活用され、楽しまれるものである。「将来のために…」という論理のなかで、この<現在>の生を抑圧し、犠牲にするものとして、使われてはならないと思う。

「結果オーライ」「終わりよければすべてよし」という論理は会話のなかで有効であるときもあるだろうけれど、その論理が語っていないのは「プロセス」である。「終わりよければすべてよし」は、プロセスを(「生きる」ということで言えば<現在の生>を)、問わないのだ。


社会学者の見田宗介は、著書『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)の補章「世界を変える二つの方法」のなかで、「二十世紀型革命の破綻」をふりかえったうえで、「新しい世界を創造する時の実践的な公準」として「positive、diverse、consummatory」を挙げている。

この3つ目の「consummatory」は、適切な日本語におきかえられないとして、見田宗介はことばの説明を加えている。


…consummatoryはinstrumental(手段的)の反対語である。手段の反対だから目的かというと、それはちがう。…<わたしの心は虹を見ると踊る>という時この虹は何かある未来の目的のために役に立つわけではない。つまり手段としての価値があるわけではない。かといって「目的」でもない。それはただ現在において、直接に「心が踊る」ものである。…コンサマトリーという公準は、「手段主義」という感覚に対置される。新しい世界をつくるための活動は、それ自体心が踊るものでなければならない。楽しいものでなければならない。その活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないものでなければならない。解放のための実践はそれ自体が解放でなければならない。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)


ここでは「夢」を語っているわけではないけれども、「将来のために…」という手段主義に対置するものとして「コンサマトリー」がおかれている。「その活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないもの」となる、<現在を生きる>ことが語られている。

3つの公準のどれもにぼくは全面的に賛同と共感をいだきながら、この「consummatory」の公準は、ぼくを捉えてやまない。それは、コンサマトリーと対置される「手段主義」ということが、20世紀に、社会という大きなコンテクストだけでなく、社会のすみずみ、個人の生にまでつらぬいてきたからである(もちろん、ぼく自身の生にもふりかかってきたものであった)。


こうして見てきて、「夢」ということに戻ると、もう一度、問うことができる。

夢に向かう活動自体が心踊るものでないような夢は、ほんとうにじぶんにとっての「夢」なのだろうか、と。

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成長・成熟, 身体性 Jun Nakajima 成長・成熟, 身体性 Jun Nakajima

「風景」が変わるとき。- <幸福感受性>をとぎすましてゆくこと。

養老孟司先生は、久石譲との対談のなかで、つぎのように語っている。

養老孟司先生は、久石譲との対談のなかで、つぎのように語っている。


養老 …小川のせせらぎというのは、実は周囲の林が音を増幅しているんです。ただ水が流れているから聞こえるんじゃなくて、森林のさまざまな樹木なんかと共鳴することで強く聞こえてくる。…

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川onerテーマ21、2009年)


「小川のせせらぎ」は、それが単一にひびくのではなく、<森林のさまざまな樹木と共鳴している>という音の風景は、まるで、目に見えるようでもあるし、共鳴し交響する音が聞こえてくるかのようでもある。

いつか、小川のせせらぎを耳にするときがきたら、ぼくは、そこに森林のさまざまな樹木たちとともに音を奏でている<音の風景>を感じることだろう。

これだけのことばでも、風景はいつもと違ってみえてくる。ことばという<情報>のもつ機能のひとつは、見えないものを見えるようにしてくれることである。


小川や樹木たちが森林という舞台で奏でる音を感じることは、それだけで人を充たしてくれるものがある。

これからの時代をささえ、基礎づけ、ひらいてゆくものとしての<幸福感受性>(見田宗介)をとぎすまし、もっとひろく感じ、もっとふかいところへ降り立っていきたい。じぶんが生きてゆくことの核心のところにとりもどしてゆきたい。


上に引用した箇所では、養老孟司は<幸福感受性>のことを語っているのではなく、<耳で聞く>ことと<目で見る>ことがズレることを、久石譲に語っている。「川が流れているから、音がする」のではなく、逆に、「音がするから、川があるんだな、とわかる」というように。

さらに、「目と耳の情報を統合する機能」ということを養老孟司は語っている。このことは、他の著作でもふれられていたりするが、言葉の基本には「時空」(時間と空間)があるということである。目が耳を理解するために「時間」という概念が必要であり、耳が目を理解するために「空間」という概念が必要という、興味深い観点だ。

そのことはさておき、このようなことが述べられているなかに、「小川のせせらぎというのは…」という話が、さっと入ってくる。

その、さっと、あるいはさらっとさしこまれた話のほうに、ぼくは惹かれたのであるが、このような話が日常に生きられているところに、養老孟司先生の感覚と思考の「確かさ」を、ぼくは感じることになる。


今回とりあげたトピックは、人にとってはなんでもないものだけれど、そのようななんでもないことを、とぎすまされてゆく<幸福感受性>が、まったく違った「風景」をぼくたちにさしだしてくれるのだと思う。

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音楽・美術・芸術, 身体性 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 身体性 Jun Nakajima

この時代に「ジグソーパズル」をやる楽しみ。- 楽しさと学びのプロセスとしてのジグソーパズル。

家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。

家の片づけをしていたときに、ジグソーパズルが見つかった。だいぶ前に購入してやらないままに、きれいに小さな箱に納まっていた。

「パズル系」のゲームは、今ではスマートフォンを手にとれば、いつ、どこにいても、プレーすることができる。

だから、「ジグソーパズル」を販売する店舗などは、これからかなり縮小していくだろう(あるいはすでに、かなり縮小しているだろう。店舗を持てずオンライン店舗になるかもしれない)と漠然と考えていたのだけれど、実際には、ここ香港では、実店舗がのこっている。のこっている、というだけでなく、ある店舗はそれなりの広さを確保し、平日のお昼などでも人が入っている。

ここ香港はオフィス/店舗賃貸料がおどろくほど高いから、実店舗でやっていけるだけでもすごい。すごいと思いながら、このような趣味・遊びが今も好まれていることに、ほっとするところもある。

もちろん、これまでにもさまざまな形態が考案されてきている「ジグソーパズル」が、これからどのような運命をたどってゆくのかはわからないけれど(テクノロジーは想像をこえる仕方で道をひらいている)、このような遊びのすべてがデジタルにおきかわるわけではないと、ぼくは思う。CDが出ても、ストリーミング音楽が出ても、「レコード」がなくならないのと同じように。


そんなこんなで、いろいろと考えるところはあるのだけれど、ジグソーパズルは、遊ばれることでその使命をまっとうするものであるし、なによりも、ジグソーパズルをやってみたくなったので、小さな箱に納められたパズルを机の上にひろげ、とりかかることにした。

なによりも、画面のクリックではなく、じぶんの「指」を使って組み合わせてゆくことが心地よい。たぶん、10年ぶりくらいのことだから、組み合わせてみながら、じぶんの「組み合わせ方」を思い出していく。

あまり意識することなく、じぶんの身体に「組み合わせ方」がしみこんでいるようにも感じる。他の人と一緒にパズルをすると、「組み合わせ方」(ぜんたいの戦略とこまかい戦術)が、違っていることもわかる。そんな気づきがある。

300ピースの小さいパズルだから、2時間と見込んでいたのだけれど、途中で失速してしまい、結局、4時間ほど完成するまでにかかった(楽しさは完成ということ以上にプロセスにあるのだけれど、それでも時間の速さを気にしてしまうのである)。でも、途中むずかしくなってきてから、あきらめることなく、完成させることができた。

プロセスも楽しく、気づきがさまざまで、なおかつ、完成したときの嬉しさがある。


完成したジグソーパズルは、チベット仏教の「砂曼荼羅」のように、できあがってすぐに「解体」しようと思っていた。できあがりのものに固執・執着するのではなく、<手放す>のだ。

ここ数年、ぼくは<手放す>ことを、日々のなかで、実践してきた。だから、そうすることに、とくに抵抗もない。けれども、ジグソーパズルの「花」がきれいであったので、数日だけ、部屋を照らしだしてもらうことにした。

昔であれば「せっかくつくったんだから」などという気持ちからくる執着がのこって、なかなか壊すことができなかったと思う。今回は、そのような執着としてではなく、あくまでも、美を楽しむこととして、数日おいておいたのだ。

楽しさと学びのプロセスとして「ジグソーパズル」(あるいは同様の遊び)を体験することができる。そんなことを思う。

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じぶんの人生物語の「ジャンル」は? - じぶんがじぶんに語る「ナラティブ」の色調 。

じぶんの人生物語の「ジャンル」ということを、ふと、思う。

じぶんの人生物語の「ジャンル」ということを、ふと、思う。

ちょうど、ゴールデン・グローブ賞(Golden Globes)のニュースを目にしていた日であったからかもしれない。

なにはともあれ、ふと、思ったのだ。


「ジャンル」(日本的発音になれたぼくにとって「genre」の発音はむずかしい)の定義は幅広いので、ここでは、ひとまず、創作作品の「カテゴリー」という程度にとどめておきたい。

とはいっても、「カテゴリー」も、最近は基準のとりかたがいろいろではある。ぼくが、ふと思って、イメージしていたのは、「アドベンチャー」とか、「コメディー」とか、「スリラー」とか、「ホラー」とか、「ドラマ」とか、といった、映画のジャンル(カテゴリー)である。

<じぶんの人生という物語>のジャンルを考えたときに、どのジャンルがもっともしっくりくるか。

もう少しことばにしてみると、じぶんが日々、じぶんに語る「ナラティブ」は、どのジャンルの調子・仕方で、(じぶん自身に)語っているか、語ってきたか。


最近のアメリカの映画やテレビシリーズなどのジャンルを見ていると、スリラーやホラーなどの系列が相対的に多いようにぼくには感じられ、時代の色調のようなものを反映しているにも思われる。

スティーブン・キングの描く世界は、アメリカの田舎に住む人たちが抱く恐怖の投影であるようなことを、村上春樹がだいぶ前にどこかで書いていたが、その延長線上において、スリラーやホラーなどが射程範囲を拡大してきているようにも見える。

そんな色調に、ぼくの<じぶんの人生という物語>のジャンルがずれている。


ぼくは、じぶんの「ナラティブ」は、「ドラマ」であると思っている。

「ドラマ」といっても、いろいろにサブカテゴリー化されるだろうけれど、ぼくは感動的なドラマが好きである。また、好き嫌いは別として、昔は、そこに悲劇的な要素が少し入っていた。

そんなじぶんの「ナラティブ」を反映してか、ぼくの人生の出来事は、「ドラマ」的に継起してきたように、ぼくは思う。

どのようにして、じぶんの「ナラティブ」の色調、ジャンルがつくられるかは、子供の頃からの周囲の影響もあるだろうし、じぶんに内在的な要因もあるだろう。生きていくなかで、ジャンルも変わってくることもあるだろう。

でも大切なのは、じぶんの「外の世界」にあらかじめジャンルが所与のものとしてあるのではなくて、外の世界にジャンルを与えるのはじぶん自身であるということ。じぶんのナラティブとその色調(ジャンル)にしたがって、じぶんに起きる出来事はじぶんに現れること。

そう考えたとき、ぼくは、もっと「コメディ」と「ミュージカル」のジャンルを、じぶんの人生物語のジャンルとして、じぶんの日々のナラティブに入れたい。「コメディ&ドラマ」の、ミュージカル仕立てになったらよいと思ったりする。

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社会構想 Jun Nakajima 社会構想 Jun Nakajima

『TIME』誌に寄せられた近藤麻理恵の「2019年予測」。-「Greater shift toward mindfulness in the culture」(Marie Kondo)。

雑誌『TIME』(January 14, 2019)の記事(「The Brief: Year Ahead」)のなかで、影響力のある人たちが、2019年におこるだろうと予測する「大きな変動・変化」について語っている。

雑誌『TIME』(January 14, 2019)の記事(「The Brief: Year Ahead」)のなかで、影響力のある人たちが、2019年におこるだろうと予測する「大きな変動・変化」について語っている。

そのなかのひとりに、近藤麻理恵がいる。

『人生がときめく片づけの魔法』の著書で知られる近藤麻理恵。Netflixのリアリティ番組『Tidying Up With Marie Kondo』が配信されはじめ、またアメリカを中心に活動がさらにひろがりを見せているが、その近藤麻理恵が、上記の記事で、「We’ll take a mindful approach to our phones」(By Marie Kondo)という短い文章を寄せている。


In 2019, I believe that there will be a greater shift toward mindfulness in the culture. …People are starting to realize that happiness isn’t something that you achieve from the outside - through technology or the newest fad - but, rather, from within. I predict people will tune in to their inner voices and identify what sparks joy in all aspects of their lives, from their homes to their work and relationships. …

「We’ll take a mindful approach to our phones」(By Marie Kondo)『TIME』(January 14, 2019)


「2019年、この文化のなかで、マインドフルネスに向けて大きなシフトがおこると、私は信じています。…ハッピネスが、テクノロジーや新しい流行モノなど自分の外側から達成されるものではなく、むしろ、自分の内側から達成するものであることを、人びとは理解しはじめるのです。人びとは自分の内面の声に耳をかたむけ、家から仕事や人間関係にいたる、生活のあらゆる側面において、ときめきを与えてくれるものを判断するようになると、私は予測しています。…」

このようなメッセージを、近藤麻理恵は『TIME』誌に寄せている。


その他寄せられている文章のタイトルを拾うと、「The divided U.S. government will unite」「More companies will combine - or vanish」「Non-Russia scandals will grab our attention」「Genetic science will face greater control」「Behind-the-scenes diversity will bloom」と続いている。

こんななかにあって、近藤麻理恵のメッセージは、文章のタイトルこそ「We’ll take a mindful approach to our phones」というように「携帯電話」の使用の仕方にふれる形で他の記事とバランスを取ろうとしているが、「マインドフルネス」や「ハッピネス(幸せ)」に焦点をあてながら、異彩を放っているように見える。

もちろん、近藤麻理恵は「片づけ」のスペシャリストでありコンサルタントであるから、彼女の周りの人びとが取り組んでいる「片づけ」の経験(片づけだけでなく、片づけを通じた内面の変化)をベースに語っている。

それにしても、その「異彩」な文章とそこに託されたメッセージに、ぼくは惹かれる。語られていることが「新しい」わけでもないし、すごく「特異」ということもないのだけれども、実際に目にしている周りの人びとの「変容」を念頭に、しかし、それと同時に、「未来がこうなってほしい」というコミットメントがこめられているからであり、さらに、このような文章とメッセージを、上に見たような他のタイトルが並ぶ「場」で開示しているからである。


近藤麻理恵が「予測する」(正確には、いろいろな人たちと一緒につくりだしている)世界については、ぼくも同じイメージをもっている。

留意しておくこととしては、日々ふつうに暮らし、メディア上のいろいろなニュースに圧倒されていたりすると、世界が「暗く」見えてしまったりして、「Greater shift toward mindfulness in the culture」がほんとうにおこるのかどうか、疑いの目を向けてしまうことである。

でも、この世界のいたるところで、外部のモノやコトに支配されるような価値感から<解き放たれる>人たちが出てきている(番組『Tidying Up With Marie Kondo』で、見事に家の片づけを成し遂げてゆく人たちからも、その一端を見ることができる)。

ただ家族と話をしたり、ただ友人と談笑したり、ただ陽光の中を歩くことに、なににも変えられない歓びを見出して、<幸福感受性>(見田宗介)を取り戻している人たちがいる。

2019年だけ、ということではないが、これから、このような<解放の連鎖反応>(見田宗介)が、時間をかけながら、この世界にひろがってゆく。

ぼくには、そのイメージがくっきりと見えている。

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ものごとを<望遠鏡で見る>こと。- 常備しておきたい「顕微鏡と望遠鏡」の視点。

原住アメリカ人の小部族であったヤヒ族の「最後の人」となったイシ(1860/1862~1916)、イシと親しくしてきた文化人類学者アルフレッド・クローバー、アルフレッド・クローバーの死後にアルフレッドの考え方を受け継いで「イシ」にかんする著作を書いたシオドーラ・クローバー夫人、それから娘にあたり、著書『ゲド戦記』で知られているアーシュラ・K・ル=グルヴィン。

原住アメリカ人の小部族であったヤヒ族の「最後の人」となったイシ(1860/1862~1916)、イシと親しくしてきた文化人類学者アルフレッド・クローバー、アルフレッド・クローバーの死後にアルフレッドの考え方を受け継いで「イシ」にかんする著作を書いたシオドーラ・クローバー夫人、それから娘にあたり、著書『ゲド戦記』で知られているアーシュラ・K・ル=グルヴィン。

思想家の鶴見俊輔(1922-2015)は、『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)に所収の「イシが伝えてくれたこと」のなかで、上に挙げた人物たちを登場させながら、さまざまな話と視点をおりこんで、ぼくたちに語りかけている。


ことばとして、ぼくのなかに残ったことのひとつに、<望遠鏡で見る>ということがある。

つぎのような文脈で、語られる。


 アルフレッド・クローバーは思想を習慣としてとらえる。クローバーの著作には、個人が出てこない。クローバーの遺著の序文を書いたレッドフィールドは、大きな人類学の会議の中で、「ソーシャル・アントロポロジー(社会人類学)の方法が、クローバーの考え方に全然入ってこないのはどういうわけか」と言う。そうすると、クローバーは「社会人類学というのは、今このときに結びつけられすぎている。自分は、顕微鏡ではなくて、望遠鏡で見たい」とこたえた。

鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)


原住アメリカ人の場合には、アジア大陸からベーリング海峡を通ってアメリカに到達してゆくというように、そのあいだも消えることのない「習慣」があり、クローバーは、そのように伝えられるものを<望遠鏡で見る>ことを方法としていた。

一方、シオドーラ夫人は、「個人の生」に焦点をあて(<顕微鏡で見る>ことで)、たとえば、イシの伝記を書いた。


 クローバーにとっては、習慣=ハビットが重要だという、ハビットの思想なのだが、シオドーラ夫人の場合には、ハビット・チェンジが重要なのだ。習慣をどういうふうにして変えるか。思想というのは無意識の層につめこまれている習慣ではなく、習慣をどういうふうに変えていくかだというのが、パースの定義だ。

鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)


これはとてもおもしろい視点だけれど、さらにおもしろいのは、娘であるアーシュラは、父親であるアルフレッド・クローバーと同じように、文明を<望遠鏡で見る>視点で、SFの作品を書いていったことだ(こんな系譜のなかで『ゲド戦記』を読むといっそう深みが増すだろう)。

鶴見俊輔はこのようなつらなりの諸相にきりこんでゆき、興味深い視点を提示している。「ハビットの思想」と「ハビット・チェンジの思想」というのは、興味深い視点のひとつだ。


ぼくはこのような考え方や見方において欲張りだから、<顕微鏡で見る>ことも、<望遠鏡で見る>ことも、同じように大切にしていきたいと思う。けれども、今この時代にあってよりいっそう大切なのは、<望遠鏡で見る>という視点であると考えている。

もちろん、顕微鏡にしろ、望遠鏡にしろ、それによって、「何をどのように」見るのかにもよってくるけれども、視点がどうしても、短期的かつ微視的になりやすい時代に生きているように思えるのだ。意識していないと、<望遠鏡で見る>ことがどうしてもおそろかになってしまう。

2019年のはじまりに、「1年」ということを考える。メディアの記事でも、この1年が語られる。それはそれでよいのだけれど、そのときに、<望遠鏡で見る>こともしたい。

人間の歴史において、ぼくたちがどのような時代に生きているのか。未来を望遠鏡で見たときに、どのような光景を見ることができるだろうか、あるいは見たいだろうか。そんな問いを奏でることのできる<望遠鏡>をいつも備えておきたい。


なお、2019年は、「顕微鏡で見る」と「望遠鏡と見る」という言い方が直接に指し示すような、実際の「人間(の内側)」と「宇宙」それぞれの方向に、テクノロジーや探索が進展していくものと思われる。NASAの探査機が太陽系の最果てにとどき、中国の探査機が月の裏側に着陸するというニュースが、2019年のはじまりにとどいたように。

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