成長・成熟

ひとに「伝える」ことができるとしたら -「伝える技術」の一つ下の地層で。 by Jun Nakajima

「伝える技術」的な書籍がポピュラーである。

ぼくも、日々の生活のなかで、いろいろと
参考にしている。
佐々木圭一『伝え方が9割』など、実際の
実践につなげていくべきところが多い。

そもそも本を読む人は意外に少なかったり
する。
また、本を読んだとしても、ぼくを含めて
多くの人が、読んで終わりになりがちで
ある。
内容を実践にうつして、試行錯誤のなかで、
じぶんなりの仕方を身につけていくことが
何よりも大切である。

このような書籍がポピュラーである背景
には、コミュニケーションのむずかしさ
がある。
コミュニケーション能力が、さまざまな
場と局面で求められている。

ひとに伝わらない苦々しい経験と
もどかしさが、伝える方法・仕方の学び
を求める人たちをひきつけていく。

「伝える」ということを考えるとき、
ぼくの脳裏には、社会学者・真木悠介
の文章が浮かぶ。

「エローラの像」という文書で、
真木悠介著『旅のノートから』(岩波
書店)に収められている。

真木悠介は、インドにあるエローラ石窟
群にある「teaching Buddha」という
像から、「伝える」が成り立つことの
「秘密」をとりだしてきている。

この「teaching Buddha」は、3つの
像があり、それらは「教える」という
ことに至る3つの姿勢を形づくっている
という。

 

 最初にあるのが ”giving Buddha” -
「与えるブッダ」、あるいは自分を
「明け渡す」という姿勢。自分を

オープンにするという姿勢である。
次にあるのが ”touching Buddha” -
「触れる」ということ。相手に触れる。
ということである。「心に触れる」
「魂に触れる」という日本語がある
ように、そしてtouchという英語も
また、感動させる、心に触れるという
意味があるように、元々は相手の身体
に触れる、じっさいに触れるという
具体性からくるのだろうが、とにかく
相手の存在の核の部分に「触れる」と
いうこと。このことが次にある。
teaching pose - 「教える」という
ことが可能になるのは、この2つの後
ではじめて成り立つことである。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

教える、つまり「伝える」ということは、
与えること、それから触れることがあって
はじめて成り立っていく。

伝えることができない苦々しい経験の
只中で、ぼくは、この「秘密」を思い出す。

「技術」「術」などのハウツーの手前、
一段下の地層において、ぼくは、自問する。
相手に与えることができているか。
オープンになれているか。
相手の心に触れることができているか。

「方法」は「姿勢」がともわないと、
ぼくたちを、伝わらないことの、あの苦々
しい経験のなかに、おきざりにしていく。

だから、今日も、ひとつ下の地層を、
ぼくは掘っていく。

「香港」にたどりつくまで - 願いと予感が導くところ。 by Jun Nakajima

2007年に、ぼくは「香港」にうつった。
10年前のことである。

どのようにして「香港」にたどりついたのだろう
と考える。
成田空港から飛行機にのってやってきたし、
香港を住む場所として「選択」をしたことも
確かだ。
しかし、表層ではなく、すこし深い「心の地層」
において、ぼくはどのようにして「香港」に
たどりつくことになったのだろうか。

 

(1)香港への「予感」

香港にはじめてきたのは、さらに時間をさか
のぼる1994年。
大学の夏休みに、飛行機にはじめてのって、
ぼくは香港におりたった。
香港から広州、広州からベトナム、そしてその
ルートから香港へもどってくる一人旅であった。

香港のTsim Sha Tsuiのヴィクトリア湾に面す
プロムナードから香港島のビル群を見渡した。
そのときに、ぼくは、香港に仕事でくるような
そんな「予感」を感じたのだ。

香港はまだ中国への返還前であった。

それから、ぼくは香港とはまったく関係のない
「途上国」での仕事にかかわっていく。
香港からは程遠い世界だ。
2006年、ぼくは、東ティモールで、銃撃戦の
なかにいた。

翌年2007年、仕事がおちついたところで、
ぼくは香港に拠点をうつすことになった。

 

(2)海外への「願い」

「香港への予感」をさかのぼり、大学時代の
一人旅からもさらにさかのぼっていく。

ぼくは、中学生か高校生のときだったか、
卒業文集に「将来の自分」をイメージして
書いていた。

手元には、そのときの文集はないけれど、
ぼくは、「世界をとびまわっている」と
書いていたことを覚えている。

将来にたくした「願い」だ。

文集に書いたことを思い出したのは、
NGO職員として、アフリカやアジアを
行き来していたときだったかと思う。

ぼくの願いに「詳細」はなかったけれど、
願いは現実になっていくものだ。

「願い」と「予感」。

ぼくのなかで、これらが化学反応をおこし
ぼくを香港へとおくりだしていった。

あるいは、ぼくが、自分の人生という
「物語」のなかで、勝手にストーリーを
つくっている。

だから、ぼくは、願いと予感を丁寧に、
これからの未来をえがく。
キーボードをタイプし、字を書くこの
手を大切にしている。

香港の街を一人歩きながら、
ぼくは、ふと、そんなことを考える。

「目新しいものはなにもない」と言わない・考えないための、3つの自問。 by Jun Nakajima

ぼくもかつてはそうであった。

話を聞いたり、本を読んだりしてから、
それらの内容に新しいものがないと
「目新しいものはなにもない」と口にしていた。
「(誰それと)同じことを言っている」などと
そこで考えることをやめてしまうこともあった。

でも、いつしか、この言い方や考え方は
じぶんにとってよくないな、と考えるように
なった。
意味がないだけでなく、弊害を生む考え方で
ある。

この言い方や考え方は、
じぶんは「知っている」という立場にいる。
でも、問われるのは、
「ほんとうに知っているのか」ということで
ある。
また、知っているとして、それに沿ったように
何か「行動しているか」ということである。

「目新しいものはなにもない」という人の
多くは、そこで思考も行動もストップして
しまっていることが多い。

ぼくは、このように考えがちなときに
ぼくのマインドにうちかえす問いを即座に
はなつようにしている。

 

(1)ほんとうに「同じこと」か?

「同じこと」であっても、もう少しうがって
みてみる。
ほんとうに同じことであるのか。
同じことのどこに焦点をあてているのか。
同じことに辿りついた経験や体験は。
などなど、一見同じことにみえても、差異が
あったりする。

 

(2)「同じこと」の展開の仕方はどうか?

同じことであっても、本を出版していたりする。
同じことを、ブログで述べていたりする。
それでも、注目を集めたりしていることもある。
同じことであっても、展開の仕方を学ぶことが
できる。

 

(3)じぶんが行動しているか?

目新しいことではないと切り捨ててみたところで
じぶんは行動にうつせているのか問うてみる。

「こんな内容であれば、じぶんでも本を書ける」
と豪語したところで、じぶんは書いているだろうか。
同じことを言っていても、書いていても、その
発信者は少なくとも「行動」をおこしている。
人の差は、行動をおこす・おこさないの差であった
りする。

そして、行動をおこせていないときには、ほんとう
に内容を理解していなかったりする。
内容が「頭での理解」にとどまっている可能性がある。
理解は、頭だけでなく、心、そしてお腹にまで
おとしていくことが大切である。

 

世界は、情報技術の発展とともに、ますます
多くの人たちがじぶんの意見や方法を、
世の中に発信してきている。
目新しいこともあれば、これまで聞いていた
ことと同じ(ような)こともある。

そんなときに、じぶん自身に問い返したい。

そして、じぶんは理解できていても、
また、じぶんは行動していても、それらを
一歩先に踏み込んで、他者にひろげていく
ことも大切である。

だから、「目新しいものはなにもない」と
いう思考停止・行動停止の「呪文」は、
言わないことである。