海外・異文化

生き方の「モデル」をみつけることで変わる - シュリーマンの語学力 by Jun Nakajima

外国語を勉強してきて、
外国語を駆使し、ぼくは
日本以外のところで生活してきた。

「きっと将来役にたつ」との確信の
もとに、英語にフォーカスし、勉強してきた。

外国語学習ということで、
誰か「モデル」となる人がいたかと
いうと、なかなか思い出せない。
鮮烈な「モデル」は、人の人生を
大きく変えていく力をもつことがある。

覚えているのは、
『古代への情熱』(岩波文庫)の
シュリーマンである。
シュリーマンは、19世紀に生きた
人物である。

トロヤ戦争の物語から、トロヤの
古都が必ず存在したことを信じる。
そして、数々の困難を乗り越えて
トロヤ遺跡を発見した人物である。

ぼくは、学校の「課題図書」で
この『古代への情熱』を読むことに
なった。
副題にあるように「シュリーマン自伝」
である。

トロヤ遺跡に辿りつくまでの「情熱」に
も、ぼくは心を動かされた。
しかし、彼の語学に対する「情熱」も
また、ぼくの脳裏に鮮明に焼きついたのだ。

彼の言語習得の「一方法」は次の通りである。

● 非常に多く音読すること
● 翻訳しないこと
● 毎日1時間をあてること
● 興味ある対象について作文すること
● この作文を教師の指導によって訂正すること
● 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること

(『古代への情熱』岩波文庫より)

「あとがき」にあるように、
シュリーマンはその後15ヶ国語を
話したり書いたりするようになったという。

ぼくのイメージには、
この圧倒的な語学力をもつシュリーマンが
存在している。

その後のぼくの人生で、15ヶ国語が
できるようになったわけではない。

でも、シュリーマンの「生き方」は、
ぼくに、夢や勉学の情熱と人間の可能性を
教えてくれたように、思う。

学校の「課題図書」は、その当時は
できれば避けたいものであったけれど、
シュリーマンやヘルマン・ヘッセなど、
その後のぼくの人生に影響を与えてきた
ことを、25年ほど経ってから、ぼくは思う。

世界で人々の生活を観る「メガネ」: 柳田國男『明治大正史-世相編』のちから。 by Jun Nakajima

世界のいろいろなところで
いろいろな人たちの生活をみることは
楽しみのひとつである。

着るもの・着方、食べるもの・食べ方、
住むところ・住み方など、興味と関心
はつきない。

香港に10年住んできたなかで、
それら変遷を観ることは、ぼくの
楽しみであった。

例えば、日本の「おにぎり」。
香港の食に最初は浸透せず、
でもそれが徐々に受け入れられていく
移り変わりは興味深いものであった。
香港では主食に「冷たい食べ物」は
好まれないと思われていたから、
なおさら興味深いものであった。

柳田國男の著作『明治大正史 - 世相編』
は、このような「世相」を観る視点や
洞察の宝庫である。

見田宗介の仕事(「<魔のない世界>
ー「近代社会」の比較社会学ー」
『社会学入門』所収)に導かれて、
ぼくは、柳田國男のこの著作に
たどりついた。

第1章「眼に映ずる世相」の冒頭は
こうはじまる。

 

以前も世の中の変わり目という
ことに、だれでも気が付くような
時代は何度かあった。歴史は遠く
過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて
記憶するというだけでなく、
それと眼の前の新しい現象との、
繋がる線路を見きわめる任務が
あることを、考えていた人は
多かったようである。ところが
その仕事は、実際は容易なもので
なかった。この世相の渦巻きの
全き姿を知るということは、
同じ流れに浮かぶ者にとって、
そう簡単なる努力ではなかった
のである。

柳田國男『明治大正史-世相編』
(講談社学術文庫)

 

今の時代も「世の中の変わり目」
である。誰もが気づいている。
しかし、「同じ流れに浮かぶ者」
として、世相を知ることは容易
ではない。

柳田國男がこれを書いたのは、
1930年であったという。
この時間の隔たりに関係なく、
本書はほんとうに多くのことを
まなばせてくれる。

ぼくたちの日本での「衣食住」を
ふりかえるだけでなく、
柳田の視点や洞察は、時間と
空間を超えるものがある。

ぼくは多少なりとも、
そんな視点と洞察の「メガネ」
をかけて、ここ香港の「世相」
を眺めてみたいと思う。

日本以外の国・地域(海外)に
いることのいいところは、
「同じ流れに浮かぶ」ことから、
多少なりとも、流れの外にでる
ことができることである。

それを寂しいという人もある
かもしれないけれど、興味の
つきない<立ち位置>であると、
ぼくは思ってやまない。

英語を話すこと -「英語は3語で伝わる」ことについて。 by Jun Nakajima

英語を日常で話すようになってからは
15年ほどが経過した。

海外に住みながら、意識としては日本と
海外の「間」に置かれているぼくとしては
「英語を話すこと」を通じて、
その「間」のことを考えさせられる。

「ツール」としての英語、
また「楽しみ」としての英語ということ
以上に、日本人である「私」という人間を
形づくるものとしての英語のことである。

電子書籍を検索している折に、
中山裕木子『英語は3語で伝わります』
(ダイヤモンド社)という書籍を目にする。

「3語」というのは、ここでは、
主語-動詞-目的語(SVO)のことである。

英語は、この文型にあわせて、語を
組み合わせていくことで、文章ができる。
言葉を伝えることができる。

日本語との相違は、まずは、
「動詞-目的語」という順序である。
日本語は「目的語-動詞」というようになる。

「speak English」は「英語を話す」と
いうように順序が逆転する。
この焦点の合わせ方、
つまり「動詞」を先にすることも
「私」という人物のあり方に
影響する。対象との距離感が変わる。

しかし、より大きなことは、
「主語」である。
日本語では「主語」は、往々にして
会話で取り除かれる。
その「場」や「グループ」という
磁場に溶解する。よくも悪くも。

英語を15年以上にわたって話して
きた中で思うのは、
「主語」を明確にすること、
つまり、「私」を明確化して
伝えていくことの大切さや、自分
という人間への影響である。
「個人」がより前面に出る言葉
なのだ。

主語の次にくる「動詞」は、
「何をしたいのか」を明確にする。
日本語では、ときに、動詞さえもが
曖昧になる。
目的語を伝えることで、相手が察知
する関係で動いたりする。
「日本語は1語で伝わる」ことが
あるということである。

「英語は3語で伝わる」ということ
は、英語のシンプルさについてだけ
れども、それは、もう一段深い次元
での議論へ誘うメッセージでもある。

日本と海外の「間」という場所で、
ぼくは、言葉や文化、そして人に
ついて考えるのである。

「グローバル」ということは、
ひとつには、ぼくたちが「主語」を
きっちりと持つということでもある。

「ミニマリスト x クオリティ = ○○○○○○○」- 香港で学んだこと。 by Jun Nakajima

香港で学んだこと。

香港に住んで、
・香港という空間
・香港社会
・時代背景
という条件の組み合わせの中で、
ぼくは、あることを学んだ。

それは、次のことである。

  1. 「ミニマリスト」の地平
  2. 「クオリティ」の追求

「ミニマリスト」の地平は、
ぼくが香港に住んでいるときに
みえてきた風景である。

大枠としての問題系は、
ミニマリスト、エッセンシャル、
断捨離、クラッター、コンマリ
などと語られる問題系である。
いわゆる「片付け」から開かれて
いく地平である。

香港の住居環境や都市環境は
物質的な「空間が狭いこと」が
特徴である。
その中で、ぼくたちは、
よりよく生きていく術を考え、
実践していく。
「ミニマリスト」的生き方を
実践する喫緊性がある。

香港の書店でも、
「片付け」の本が並べられている。

そして、香港だけでなく、
いわゆる「先進国・地域」では
近年、このような思考と実践を
後押しする社会ムーブメントがある。

そのような中、ぼくも、
香港で暮らしながら、徐々に
「ミニマリスト」的な生き方に
移行している。

ただ物事を少なくしていくのでは
なく、「エッセンシャル」な物事
にフォーカスしていく。

それは、「クオリティ(質)」の
追求につながる。
ひとつひとつのことを大切にする
生き方だ。
物もそうだし、行動もそうである。

香港の過去10年は、経済社会の
急速な発展の中で、「物」に溢れた。
「もっと、もっと」の世界である。
ぼくたちも、香港社会の中で、
気がつけば、エッセンシャルでは
ない「物」に囲まれる生活を送って
いたわけだ。

でも、徐々にギアをシフトしてきた。
「ミニマリスト」的生き方と
「クオリティ」を足し算する。
そして、いつしか、足し算が掛け算に
変わるような経験をしてきた。

「ミニマリスト x クオリティ」
=「生き方が変わる」

「生き方が変わる」だけでなく、
そこには、さまざまなもの・ことが
あてはまる。

ぼくは、このことを
ここ香港で、学んできた。
実践してきた。

生きることの内実の隅々が
入れ替わっていく経験である。

日本の外で生きていく上で
ほんとうに大切なもの・こと。
そして、人生で生きていく上で
ほんとうに大切なもの・こと。

そんなことを最近は、
ここ香港で考えている。

海外に「ひとつだけ」しか持っていけないとしたら。(日本食-食材編) by Jun Nakajima

海外に長期で滞在する際に、
食べ物類(日本食食材)で「ひとつだけ」
しかもっていくことができないとしたら
何を選択するか?

今でこそ、世界はよりグローバルに
つながり、日本食の材料も世界各地で
手に入る。
日本食レストランもある。
特にアジアではなんとかなる。

香港は、日本食にはどこにでもありつける。
寿司、ラーメン、カレー、定食まで、
ありとあらゆるレストランがそろっている。
日本食食材はそれなりのスーパーマーケット
であればベーシックなものは手に入る。
日系のスーパーマーケットに行けば、
ベーシックを超えて、ほぼすべて手に入る。

東ティモールのディリにも
日本食レストランがあった。
(今でもあるようだ。)
ディリのスーパーマーケットでは、
納豆(冷凍)も手に入った。
(さすがに冷凍納豆は試さなかった。)

ただし、西アフリカのシエラレオネに
いたときは、さすがに日本のものは
手に入らない。
代わりに重宝したのは、
中華料理レストランと中華料理の食材で
あった。
首都フリータウンだけでなく、ぼくが
住んでいた電気も水もない通っていない
地方に、中華料理レストランがあった。
日本食レストランがなければ、
頼みの綱の中華料理である。

シエラレオネにいくときには、
あまり詰め込むことのできない
スーツケースを見ながら、考えたものだ。

日本食材が手に入らない海外に
「ひとつだけ」しか持っていけないと
したら。。。

ぼくは「味噌」を選択する。

お米はだいたいどこでも手に入る。
醤油も中国産のものが手に入る。
ただ、味噌は、どこにでもとはいかない。
シエラレオネで味噌は手に入らなかった。

身体が弱ったとき、
味噌汁に、ぼくは助けられてきた。
元気なときは、現地の食事を楽しめる。
ただ、病気などで弱っているとき、
身体は日本食を求める。

白米と味噌汁。

これまで、どれだけ、助けられたか。

だから、ぼくは、冒頭に質問に
迷わず、味噌と応える。

海外は、普段なんでもないものに
「ありがたみ」を感じる機会を
与えてくれる。


追伸:
普段日本では食べないけれど
「ふりかけ」もいいものだ。

「ゆかり」(しそ味)がポピュラー
である。

香港に住んで、まもなく10年 - 香港で/から学んだこと。 by Jun Nakajima

香港に住みはじめて、まもなく10年になる。

10年前は、ぼくは、東ティモールに住んで
いた。
ぼくの20代の後半は、東ティモールの
コーヒー生産者とともにあった。
30代になり、香港に移り住むことになった。
ぼくは、ぼくの30代を、香港で、香港と
ともに、成長していった。

香港で学んだことは、数限りなくある。
香港から学んだことも、数限りなくなる。
「学んだこと」を、今、文章としてまとめて
いるところである。

次のようなことが「学んだこと」のいくつか
である。

  1. 生きていく力
  2. お金というもの
  3. 多様性というもの

香港は、活気・熱気があり、混沌があり、
エネルギーに満ちている。
そこには「生きていく力」がある。
強さと言ってもよいし、サバイバル力でも
ある。

「生きていく力」を駆動していく源泉の
ひとつは、「スピード」である。
香港のスピードは、世界屈指である。
社会も、ビジネスも、人も、そこには
スピードが感じられる。

香港国際空港の「荷物」受け取りスピード
は、世界でも最強の部類である。
飛行機を降り、イミグレーションを通過し
すでにそこに荷物が到着している。

スピードが社会のDNAに刷り込まれている。
その背景のひとつには、お金がある。
ここでは時間はお金である。

お金というものの価値が最重要で重視される。
人によってはこの価値に抵抗感があるが、
それはシンプルでもある。

郵便局のサービス方針として、
「Value for Money」がうたわれている。
お金に見合う価値の提供。
シンプルである。

お金の価値軸が社会の芯となっている。
歴史的な不安定さに対応するには、
お金は「安心」の拠りどころである。

このような社会だから、ぼくは「お金」に
ついて、よく考えることができた。

そこの芯があるからか、
香港は多様性のある社会である。

多様なもの・多元的なものを受容する力は、
強い。
日本では「グローバル、グローバル」の
掛け声があるが、香港では、日常がすでに
「グローバル」である。

人の多様性もそうであるし、
話される言語も多様である。
多様性が社会にとけこんでいる。

この環境に身を置きながら、
肌感覚として生活してきたことは、
ぼくにとっては、とても大切なことであった。

香港に住んで、まもなく10年。

よかったことも、うんざりすることもあった
けれど、ぼくは香港とともに成長してきた。

「頭の中の辞書」を見直す - 外国語の効用 by Jun Nakajima

「頭の中の辞書」の見直し、
つまり「自分の世界を書き換える
方法」
を進めていく上で、
「外国語の効用」は極めて大きい。

日本語の言葉や言葉の意味を
一旦「止める」こと。
「言葉を止める」には、
外国語の言葉と文法を「言葉の鏡」
として使っていくことができる。

例えば、「自立」という日本語。
英語の形容詞では「independent」
である。

この「自立」と「independent」
という言葉の「間」にみられる
定義や語感の違いが、ぼくたちに
「考える」ということを迫る。

日本語だけでこの作業をすると、
「言葉に染みついた意味と感覚」
につきまとわれることになる。

言葉の一つ一つには、
社会や時代、自分の生活経験が
あまりにも深く刻まれている。

言葉の意味だけでなく、文法、
言葉が語られる背景や文化に
至るまで、刻まれている。

だから、外国語という「言葉の鏡」
を活用する。

まったく同じものをうつす「鏡」
ではないけれど、この鏡は
大きな力をもっている。


ぼくは「英語」という言葉の鏡を
利用してきた。
英語にどっぷり浸かることで、
ぼくの「頭の中の辞書」を見直して
きた。

そして、それはうまい具合に、
効果を発揮してきたのだ。

それは、時に、
「(身近な)家族のアドバイス」
よりも、
「(距離のある)第三者のアドバイス」
が受け入れやすいのと同じように。

「世界を止める」(真木悠介)- 生き方を構想するために。 by Jun Nakajima

真木悠介先生の名著『気流の鳴る音』の
「概要と内容」を手短に述べることは
なかなか難しい。

理由は3つある。

  1. 要約を拒否する文体であること(ユニークな美しい文体)
  2. 削ぎ落とされた文体であること(徹底した論理)
  3. 一文一文がインスピレーションに充ちていること

真木悠介先生の言葉を拾えば、
『気流の鳴る音』とは、このようなことを
追求していく書である。


異世界の素材から、われわれの
未来のための構想力の翼を獲得すること…

われわれの生き方を構想し、
解き放ってゆく機縁として、これら
インディオの世界と出会うこと…

思想のひとつのスタイルの確立…

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房)


『気流の鳴る音』には、
「世界を止める」という章がある。

人が新しい生き方を獲得していく方法
である。

下記の水準において、「世界を止めて
いく」ことである。

  1. 言語性の水準
  2. 身体性の水準
  3. 行動の水準
  4. 「生き方」の総体

これまでの言語や身体の「すること」を
「しないこと」である。

言語であれば、これまでの思考を
やめてみる。

身体であれば、「目」に頼りすぎず、
五感で世界を感覚する。
ドイツ発祥の「ダイアログ・イン・
ザ・ダーク」の本質はここにある。
暗闇で食事を楽しむレストランなど
も、同様である。

『気流の鳴る音』では、インディオの
世界から、これらを追求していく。

ぼくたちは、世界への旅を、
世界の様々な異文化との出会いを、
「世界を止める」契機としていく
ことができる。

ぼくは、アジアへの旅のなかで、
シエラレオネで、東ティモールで、
香港で、幾度も幾度も、「世界を
止めること」を日常で繰り返す。

「生き方の発掘」(真木悠介)という
真木悠介先生の志に呼応するように。

「根をもつことと翼をもつこと」(真木悠介) by Jun Nakajima

真木悠介先生の分類の仕様のない
名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』。
美しい本である。

その「結」にあたる章は、
「根をもつことと翼をもつこと」
と題されている。

人間の根源的な欲求は、
・根をもつことの欲求
・翼をもつことの欲求
であるという。

「翼」をひろげ、グローバルに、世界で
生きていきながら、
ぼくも「根」をもちたい欲求にかられる
こともある。

人は、家族やふるさとやコミュニティに
「根」をもとめる。
ぼくは「根なし草」になってしまうのでは
ないかという恐れも、以前はもっていた。

そんなときに出会った思想である。


<根をもつことと翼をもつこと>を
ひとつのものとする道はある。
それは全世界をふるさととすることだ。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房)


この美しい文章は、20代のぼくから、
悩みと葛藤と不安と恐怖を、シンプルに
解き放ってくれたのだ。

東京で、西アフリカのシエラレオネで、
それから東ティモールと香港と続く
「人生の旅」において、『気流の鳴る音』
は、ぼくの旅の同伴者である。

1977年に発刊された『気流の鳴る音』
(初稿は1976年)は、今でも、そして
今だからこそ、尽きることのない
インスピレーションを、ぼくに与えて
くれる。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(6)90マイルビーチを抜ける by Jun Nakajima

1996年10月10日。
ニュージーランドの北端、レインガ岬
出発し、歩いて南に下る。

初日は丘のような場所を歩く。
道中に遭遇したマオリの家族に頂いた
貝を食べ、テントを設営して2日目に備える。

2日目は、Scott Ptあたりからの出発。
朝から空一面に怪しい雲がひろがっている。
それでも、ただ行くしかない、と歩を進める。

雨が降り出す。
雨宿りし、また歩き出す。

出発から1時間ほどして、いよいよ、
90マイルビーチ」に入る。

90マイルビーチとはいえ、90マイルはない。

ただ、ここから見ると、遥か先まで
ビーチが続いている。
ビーチは平らで歩きやすい。
人は誰もいない。

右にタスマニア海、左は砂丘。
絶景である。

ただ、荷物の重み、疲労と足の痛みから
精神的にきつくなる。

昼過ぎに、90マイルビーチを北上している
2人のトランパーに出会う。
嬉しく、同時に励みになる。

道中、ツアーバスが通りすぎていく。
クラクションを鳴らしてくれたり、
手を振ってくれたり、励みになる。

3日目は、曇り。
雨は降る気配はなく、とにかく前に進む。

ひたすらビーチ。
目印となるようなところがなく、
気分は上がらない。
身体の調子も悪く、午後4時程にテント設営。

4日目の10月13日。
朝方から強風。砂が流れている。
幸いにも、追い風。

休憩を減らし、前に前に進む。
ただ、ビーチの「出口」がなかなか見えない。

雲行きが怪しくなったため、予定より
北の位置で、ぼくは内陸に入った。

雨が降り出す。
ただ、道がわからない。
精神的に弱っていくのがわかる。

すると、こんなところで、また人に出会う。
3人組のお年寄りである。
ハイキングをしているという。
散歩といった感じだ。

同じ「歩くこと」をする人に出会うのは
うれしいものだ。

大体の現在位置がわかり、ぼくは
気をとりなおして歩きだした。

度々地図を眺める。
目指すは、Waipapakauriという街。

ぼくの足はすでに限界を超えていた。
そして、ついに、国道一号線に
出たのであった。

レインガ岬から90マイルビーチ。
この4日間は、学びの連続であった。
他者からの励ましの連続であった。
そして、他者からのサポートの申し出の
連続であった。

歩くことも、そして日々生きていくこと
も、その連続である。

(続く)

 

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(5)マオリの家族 by Jun Nakajima

1996年、ニュージーランドの北端から、
南に向かって、ぼくは歩いていく。

10月10日、いよいよ、北端を出発する。
前日にキャンプサイトで出会った日本人、
大介さんに見送られる

一歩一歩がゴールに向かっていると思うと
気持ちが高揚した。
つい、一歩一歩の歩みが早くなってしまう。

しかし、最初から、ルート探しに戸惑って
しまった。
道らしき道があるところもあれば、
また道しるべが不明確なところもある。

慣れないぼくは、間違った方向に歩んで
しまう。
最初から、1時間半も彷徨ってしまった。

ようやく、正確なルートに戻ったところで
マオリの家族に出会った。
父親と子供、そして子供の祖父の3名。
この辺りで、貝を採り、家に戻る途中だと
いう。

ぼくは、この後、90マイルビーチを下る
のだと説明する。

すると「食べ物はたくさん持っていますか?」
と言葉が返ってきた。

「一応、持ってきています。」と
ぼくは答える。

すると、貝で一杯になった袋から、
大きな貝を3つ取り出し、ぼくに差し出した
のだ。
ついでに、食べ方も教えてくれる。

彼らと別れ、Twilight Beachまで進む。
初日は、そこでテントを張った。

夕食には、頂いた貝をスープに入れて
食べた。

ニュージーランドを「歩くこと」には
一杯の物語が生まれていく。

夜中に起きたとき、夜空にひろがる星たちは
限りなくきれいであった。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(4)応援 by Jun Nakajima

1996年、ニュージーランドの北端から、
南に向かって、ぼくは歩いていく。

人が真剣に何かに挑戦しているとき、
多くの人が応援してくれる

応援は励ましの言葉であったり
時には違った形でやってくる。

ニュージーランドの北端を出発する
予定日は、10月10日としていた。
あまり意味はないけれど、日本では
体育の日。
歩くのにはよい日だと、勝手に決めた。

前日の10月9日に、北端の手前の街に
あるキャンピング・サイトで、ぼくは
一人の日本人に出会う。

こんなところで、日本人に会うとは
思ってもいない。

その日、ぼくは、彼、大介さんと
話をし、励ましをもらう。

それから、助言ももらう。

「ゆっくり行くこと」
「途中無理をせず、必要であれば
勇気ある撤退を。」

これらの助言で、気持ちの面において
余裕ができた。

翌日、10月10日、北端に向かう途中
まで、一緒に歩いてくれた。

そして、お別れは、オカリナで、
「上を向いて歩こう」をふいてくれた。
大介さんと別れ、ぼくが遠くに見えなく
なるまで、大介さんはふきつづけてくれた。

北端から、90マイルビーチに降りたち、
歩いているとき、通りかかったツアーバス。
バスが止まって、降りてきた女性は、
ぼくを気遣ってくれた

彼女は、大介さんから、ぼくのことを
聞いていたのだった。

ぼくたちは、生かされている。

励ましと、
音楽と、
気遣いと、
助言に。

ぼくたちは、生かされ、そして
生きている。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(3)励まし by Jun Nakajima

ニュージーランドの北端から、南に向かって歩く。

「90マイルビーチ」を歩きながら、ぼくは、
幾度となく、思い出すことになる。

北端から南へ歩くぼくに、本当に多くの人たちが、
激励をおくってくれたこと。

90マイルビーチを歩いているとき、
ビーチを走るツアーバスが、ぼくのところで止まった。
ツアーコンダクターと思われる女性が降りてきて
ぼくに声をかける。

ぼくがここに来る前に出会った人が、
彼女にぼくのことを伝えてくれていたのだ。

「大丈夫?」

彼女はぼくを気遣ってくれた。

そして、この辺に湧き出る水は、砂っぽいけれど
飲めることを助言してくれた。

後に、ぼくは、この湧き水に助けられることになる。

人が真剣に何かに挑戦しようとしているとき、
挑戦しているとき、
多くの人が応援してくれることを、
ぼくはしみじみと感じた。

この経験だけでも、歩くことには、意味があった。

(続く)

「Happy Chinese New Year!」の言葉 ー マレーシアにて。 by Jun Nakajima

旧正月のマレーシア。

路上でココナッツを購入する。
マレー系の家族が、作業分担してココナッツを
さばいていく。

ココナッツを選ぶ人。
硬いココナッツの殻を割る人。
割ったココナッツからジュースをとり、
中のココナッツの身を取り出す人。
そして、ビニール袋に入れ、紐で閉じる。

3つを購入。
お金を渡すと、マレー系の店員さんから
言葉が返ってくる。

「Thank you. Happy Chinese New Year!」

マレーシアは、マレー系、華人系、インド系などの
人から成る国である。

本来はマレー系の人たちにとっては自身に関係のない
旧正月。

でも、言葉を通じて、リスペクトを伝える。
心温まる瞬間である。

ココナッツを購入したときは、「お店とお客様」
という関係が影響しているかもしれない。

ただし、ここだけではない。

ショッピング・モールのエレベーターで言葉を
交わしたマレー系のグループも、
去り際に、「Happy Chinese New Year!」と
声を投げかける。

文化の壁を、さらっと、乗り越える一言である。
互いの文化をリスペクトする。
言葉の大切さが凝縮される経験であった。

「言語を学ぶこと」の「先の先」にあるもの by Jun Nakajima

英語、中国語、テトゥン語といった言語を
学んできた。そして、まだ学んでいる。

「言語を学ぶこと」で世界は拓かれてくる。

言語を学ぶことの「先」には、たくさんの
ベネフィットが待ち受けている。
旅行ができる、会話することで生活できる、
仕事を得ることができる、外国語書籍が読める、
インターネットで外国語ページが読める、
などなど。

でも、言語を学ぶことの「先の先」には、
3つのことがあるように、ぼくは思う。

  1. 人とのコミュニケーションの渇望
  2. 「世界」を拡げていくことの渇望
  3. 自分や自分の背景としての文化を知る渇望

大学時代、夏休みはバックパッカーで
アジアを一人旅した。
中国、香港、タイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー。

どこにいても、現地の言語が話せたら素晴らしい
のにな、と感じた。

ベトナムを旅立つときは、将来ベトナム語も勉強
しよう、と思った(今現在できていないけれど)。
中国語をもっと勉強しよう、と思った(今現在、
まだ流暢にはなれていないけれど)。
人とのコミュニケーションの渇望を感じた。

「世界」は言葉でできている。
「世界」の解釈は、言葉でつくられている。
だから、新しい言葉を学ぶと、「世界」は
拡がっていく。

「’世界」が拡がりながら、自分が住んでいる
「世界」と、この言語が話される「世界」とを
比べていく。
そのようにして、「自分」というもの(現象)を
取り崩し、つくりなおしていく。
「比較社会」的に、自分の住んでいる「社会」
(「世界」)を客観的に見ていく。
牢獄にいる「自分」を、解きほどいていく。

言語を学ぶことの「先の先」に、
ぼくは、これらのことを渇望してきたのだと思う。

だから、今日も、「世界」を少しでも
拡げていこう。
その意味でも、生きることは、冒険である。

テトゥン語で生きる ー 東ティモールにて。 by Jun Nakajima

東ティモールでは、テトゥン語(Tetum, Tetun)で
生きてきた。

「テトゥン語で生きる」とは、文字通り、テトゥン語が
できないと、会話ができないということ。
英語が通じない。

首都ディリであれば、英語でも生きていくことができる。
ただし、首都ディリを離れると、テトゥン語あるいは
インドネシア語(あるいはその地方の言語)ができないと
生活が困難である。

仕事場は、首都ディリとコーヒー生産地のレテフォホ。
レテフォホに行く時は当初「通訳」をお願いしていた。
ただし、毎回というわけにはいかない。
いつしか、必要性にかられ、ぼくは、テトゥン語を
覚えていった。

これまでに学んできた英語と中国語とは異なり、
最初から「話す」「聞く」から始めた。
そして、後に、文法や単語の綴りを学ぶ。
日本での言語教育と逆の方法。
文字というより音で学ぶ。日々の会話で学ぶ。

その内、日常会話はもとより、スタッフとの会議、
コーヒー生産者との会議、さらには農業省での
プレゼンテーションもテトゥン語でできるようになった。

この言語習得経験は、学ぶことが多かった。

  1. どんな言語でも学ぶことができるという感覚
  2. 「必要性」という環境設定の有効性
  3. 「音」から学ぶことの有効性

世界で約80万人が話すというテトゥン語。

「テトゥン語ができるようになったとしても
80万人しか喋れないからなあ」

当初はそう思っていた。

しかし、テトゥン語で生きていくことから多くを
学んだ。
そして、東ティモールの人たちと生きていくことが
できた。

中国語を学ぶ ー 経験から。 by Jun Nakajima

ぼくは、10代の頃、英語を学ぶことが好きであった。
英語を学んでいる間、日本にいても「今ここではない」世界に
行くことができる感覚をもつことができたからかもしれない。

英語を「武器」として、大学入試をなんとか通過した。
大学では、1990年代初頭に「中国の時代が来る」と言われて
いたことから、中国語を専攻にすることにした。

大学では、他の文系大学のように「自由きまま」にという
授業ではなく、高校の授業のように、比較的少人数での
講義が展開された。

点呼があったから授業に遅れることもできず、
また欠席が多いと大学2年から3年に上がるのが困難に
なるため、きっちりと授業に参加した。

文法のクラス、中国人の教授による会話のクラス、
中国文学のクラス、歴史のクラスなどで、忙しかった。
ただ、中国語に熱心になれず、ついていくのでやっとで
あった。

大学2年目が終わり1年大学を休学して、ニュージーランド
で過ごす。
ぼくは、そこで、読書に目覚めることになった。
ぼくは、「何か」を掴んだのだ。

大学に復帰してからは、授業に熱心になった。
中国語をさらに深めるよりは国際関係論のゼミを選択したが、
中国語のクラスには熱心に参加した。
小学館の中国語の辞書は、手垢で真っ黒になるまで
使い倒していた。
授業では漫画コボちゃんを題材に中国語翻訳をしたりもした。

大学卒業後は、中国語からは「離れる」ことになる。
「途上国の開発学」を専攻し、国際協力の道に進むことになる。
それでも、中国・中国語は、ぼくと関わっていくことになる。

国際NGOで活動していたときは、西アフリカのシエラレオネ
で、中国料理にしばしば行ったものだ。
こんなところに、中国人のコミュニティーがあることに
驚いたものだ。

東ティモールでも、インドネシア系・マレー系華人の人たち
によく会った。
そして、東ティモール後は、香港に移ることになる。

中国語が、いつのまにか、ぼくに戻ってくることになった。

今でも、日々は英語(また日本語)を主要言語として
つかっている。

ただ、これも何かの縁。中国語(普通語・広東語)を
一から学ぼうと、ぼくは、思う。

英語を習得する ー 英語圏、アフリカ、アジアで。 by Jun Nakajima

世界で生ききるために、ぼくは、英語を学んできた。

最近の日本でも、フィリピンのセブ留学などが流行って
いるようである。

ぼく自身の英語の学びは、次の方法をとってきた。

  1. 好きな分野を見つける
  2. 英語を話さないと生活できない環境で生活する
  3. 日々の生活に英語をしのばせていく

「好きな分野」とは、自分が好きな分野で、英語を
学んでいくことである。
学校で学んでいるときも、ぼくはこんな方法をとった。

・音楽が好きで、「洋楽」の歌詞で学ぶ
・英語参考書を読んでいて「格言」が好きになり学ぶ
・「シドニー・シェルダン」の小説を英語で読む
などなど。

「英語を話さないと生活できない環境」は、大学以降
に、例えば、こんな環境に自分を置いた。

・アジアへのバックパック旅行
・ワーキングホリデーでニュージーランド(NZ)で生活
・NZの住まいは、他のニュージーランド人6名と共住
・NZでは、日本食レストランで勤務し、英語で仕事
・NZでは、短期間、ファーム(農場)ステイ
・NZでは、一人旅(キャンプ、トレッキングなど)
・西アフリカのシエラレオネで仕事。仕事は英語
・東ティモールでの仕事。一部は英語
・香港での仕事。仕事場は英語
・マレーシアで生活
などなど。

英語圏、アフリカ、アジアで、英語に浸かってきた。

「日々の生活に英語」では、今もこんな風に生活
している。

・iPhoneの言語設定は英語
・Mac Book Airの言語設定は英語
・アマゾンKindleで英語書籍を毎日読む
・Podcastで英語でトピックを学ぶ
・Audio Bookで英語でトピックを学ぶ
・ニュースは英語(BBC, CNNなど)で得る
・雑誌も英語のもの(Time誌など)を購読
・映画は英語で楽しむ
などなど。

英語「を」学ぶ、というより、英語「で」学ぶ、
ということである。

英語は、ぼくの世界を拓いてくれた。
英語圏で、アフリカで、そしてアジアで。

英語を学びはじめて、すでに30年が経過した。
まだ、日々、学びの連続である。

「手を振る女性」が伝えたかったこと ー 東ティモール騒乱から。 by Jun Nakajima

2006年のある日の午後、ぼくは、ディリにある
事務所から車で5分程離れたところにある住居へと
急いでいた。

スタッフが運転する車両の助手席に座り、
誰もいない通りを見ながら、状況を分析していた。
首都ディリの治安が悪くなってきている状況である。

通りには誰もいない。車両もまったく見られない。
静けさが漂い、ぼくたちの車両の音だけが響く。

ディリの繁華街の入り口にさしかかったところで、
ぼくたちは、通りで女性二人が手を振っていることに
気づいた。
どうやら、ぼくたちに向かって、手に振っている。

ぼくたちは、仕事に関係のない人たちは
車両に載せないことになっている。
だから、「何だろう」と思いながらも、先を
急ぐことにする。

そこの交差点を左に曲がれば、すぐに住まいに
到着するが、一方通行であるため、迂回しなければ
ならない。

車両は迂回して、先ほどの地点からすぐのところにある
住まいのコンパウンド前で止まる。

ぼくは車両の後部座席から荷物を取り出し、
スタッフに気をつけるように言葉を残して、
コンパウンド内に入る。

コンパウンド内に入った途端に、後ろで銃声が鳴り響く。
一発の銃声ではなく、連続的な銃声である。

住まいに入ると、テレビでは、BBCが
首都ディリの緊急事態を報道している。
目の前の通りでの銃撃戦のことを報道している。

スタッフは大丈夫だろうか、と心配になる。
車両だから、走り抜けてくれているだろう。

「手を振る女性たち」は大丈夫だろうか。
何が起こっているかの状況もわからず
助けの手を差し伸べることもできなかった。

その後、幸いにも、「一般人」が死亡したケースは
報道されなかった。
でも、時に、ぼくは、手を振る女性たちが
差し向けた「眼」を思い出す。

そして、その「眼」は、東ティモールを超えて、
紛争地域などで助けを求める人たちの眼に重なって
ぼくには見えるのだ。

世界の各地で、人々は、手を振っている。

緊急事態の「全体像」は後にならないとわからない ー 東ティモール騒乱から by Jun Nakajima

緊急事態が起きたときの行動は、
その緊急事態の「中」にいるときには
わからない。

後になって、緊急事態が収まり、
振り返るときになって、ようやく「全体像」が
見える。

「全体像」が見えないからこそ、
その場でどのように対処したらよいか、
どのように対応したらよいか、
の判断は非常に難しい。

「2006年の東ティモール騒乱のとき・・・」
という話をする際、
ぼくは、すでに「振り返る視点」で
その状況を語っている。
全体像を前提にしながら、語っている。

しかし、まさに「そのとき」は、
「東ティモール騒乱」などの「名前」が
つけられる前の状況に置かれていたわけだ。

だから、「そのとき」に対応する際に
大切なことは次のことである。

① 「パニック」にならないこと
② 身の安全を確保すること
③ 可能な限り状況を把握・分析し判断すること

これらのために、日頃から、情報を収集し、
可能な限りでシミュレーションをしておくことが
大切である。

今の時代、誰が、どこで、どんな事態に
遭遇するかは、わからない。

「世界で生ききる」ために、
ぼくたちは、「安全」を「当たり前」とせずに、
準備して、いつでも「起動」できる状態にして
おきたい。