「天才」であることの本質。- 見田宗介(真木悠介)の語る<天才>と狂気。
ぼくが心から尊敬している社会学者の見田宗介(真木悠介)氏の著作は、<どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか>(真木悠介)という問いに導かれながら、「学問」がほんとうの<知>であるところへとつきぬけてゆく仕方で、ことばをぼくたちに届けている。
ぼくが心から尊敬している社会学者の見田宗介(真木悠介)氏の著作は、<どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか>(真木悠介)という問いに導かれながら、「学問」がほんとうの<知>であるところへとつきぬけてゆく仕方で、ことばをぼくたちに届けている。
それぞれの著作における根柢的な問いと明晰な論理、そして生きられた美しい文体は、読む者の思考と心、そして「生きること」の全体を揺さぶる。
また、それぞれの著作のなかには、ぼくたちの「視点・見方」を変えてしまうようなことばが、いっぱいにつまっている。
人が日常においてかんがえている「天才」という言葉ひとつ取ってみても、認識を一段も二段も深めるような視点・見方を、ぼくたちに見せてくれる。
「時間」の問題を、比較社会学の観点から明晰に論じた『時間の比較社会学』(岩波書店、1983年)のなかで、「天才」について、つぎのように書いている。
天才はしばしばひとつの狂気であるということばによって、ひとはこの問題を片付けようとする。天才はただ、時代の狂気をより深く身にこうむり、より妥協なく対面するのだ。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1983年
ここで指摘される「この問題」とは、「天才」と呼ばれる思想家や芸術家などの手記等のなかに、いわゆる「精神病者」に見られるような状況が見られることである。
「時間」や「じぶん」(自我)といったものが崩れさるような感覚などが記され、また作品となっていたりする。
そのことに対し、「天才はひとつの狂気だ」ということばで、人はわかったような気になる。
そのことばを語る側も、また聞く側も、ともに、ある種の納得感を共有するのである。
見田宗介(真木悠介)は、そのようなことばを掘り下げてゆく。
あるいは、そのようなことばの内実をつかむことで、「問題のありか」を明晰に布置してゆく。
<時間の解体>と<自我の解体>というノエマ的=ノエシス的な崩壊感覚の鋭く生きられる「精神疾患」群についての諸研究が明らかにしていることは、それらがその根柢において関係の病いであるということだ。そしてその関係の質は、<近代社会>がまさしくその原理とする関係の質の極限に他ならなかった。
真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1983年
「天才」は、<近代社会>が原理とする関係の質の極限という状況に、正面から妥協することなく対面し、「時代の狂気」をみずからの身にこうむる。
このように、見田宗介は、「問題のありか」そのものを、じぶんと他者、そして社会という全体のなかで、捉え返してゆくのだ。
そのようなことばが、見田宗介(真木悠介)の著作群には、いっぱいにつまっている。
だから、ぼくは、そのようなことばそれぞれの前で、立ち止まっては、つぶさに読みとく。
そのようなことばは、ぼくの視点・見方の「道具箱」に収められては、道具が使われる出番を待つことになる。
どこかで「天才」が語られたり、また天才の作品や文章の断片などを見たりして、それらを読みとくとき、ぼくは、見田宗介のことばを「道具箱」からそっと取り出し、それら対象を見る「メガネ」として活用する。
「世界」は異なる側面を開示して、どこまでもつづく興味を、ぼくの内に点火する。
「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」(河合隼雄)。- 「詩人まどみちお」論。
詩人のまどみちお(1909-2014)。まどみちおの名前は知らなくても、「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね」と聞けば、「あぁ」と、だれもが反応する。
詩人のまどみちお(1909-2014)。
まどみちおの名前は知らなくても、「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね」と聞けば、「あぁ」と、だれもが反応する。
まどみちおの大ファンである心理学者・心理療法家の河合隼雄が、「魔法のまど」というエッセイのなかで、まどみちおと彼の詩について、おもしろいことを書いている。
…まどさんの名前を知らないままに、まどさんの歌を口ずさんでいる人はたくさんいるだろう。まどさんは、それでいいのです、と言われるに違いない。まどさんにとっては、まどさんのうたっている、ぞうやありやコスモスなどの姿を、皆が見てくれるといいのであって、まどさんは文字どおり、それを見る「窓」になって、見る人の意識から消えてしまっていいと思っておられるだろう。それは、ほんとうに「魔法のまど」なのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
まどさんが「窓」になって、見る人の意識から消える。
「魔法のまど」とは、ユーモア感あふれる河合隼雄を感じさせるけれど、見る人の意識から消える「窓」となる詩とその世界は、とても大切なことを伝えてくれてもいる。
そして、この地点から、河合隼雄の文章はいっきに、ぼくたちを深いところにつれていくことになる。
…井筒俊彦先生が次のようなことを書いておられた。われわれは通常は自と他とか、人間とぞうとか、ともかく区別することを大切にしている。しかし、意識をずうっと深めてゆくと、それらの境界がだんだんと弱くなり融合してゆく。そして、一番底までゆけば「存在」としか呼びようのないような状態になる。そのような「存在」が、通常の世界には、花とか石とか、はっきりしたものとして顕現している。従って、われわれは「花が存在している」と言うが、ほんとうは「存在が花している」と言うべきである、というのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
「存在が花している」という反転は、ぼくたちの意識から見たら逆さだけれど、量子力学/物理学なども教えるように、この世界の粒子と波から見たら、普通である。
河合隼雄は「存在が花している」という表現を大好きだと言っているけれど、そう言ったあとで、河合隼雄は、まどみちおの詩の本質にわけいっていく。
…まどさんの詩を読んでいるとその感じが、ぴたっとわかるときがある。まどさんの詩に出てくる、花や石や、そうやのみなどに会うと、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」とあいさつしたくなってくるような気がするのである。根っ子でつながっている感じが実感されるのである。
河合隼雄『おはなし おはなし』朝日文庫、2008年
思想家でもある井筒俊彦のいう「存在が花している」という哲学的な言葉を、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」という、滑稽ささえ感じさせる言い回しに展開してゆくところは、「根っ子でつながっている感じ」をほんとうに生きている河合隼雄を感じさせる。
そして、<子ども>たちは、「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」という「根っ子でつながっている感じ」の世界の住人である。
「存在が花している」ということを知らないままに、ただ自然と、例えば花たちに向かって「あれ、あんた花やってはりますの。私、河合やってますねん」と、話しかけるのである。
それにしても、「私は私である(私が私をやっている)」ではなく、「みんなが<私>をやってくれている」という反転の視点と同じように、河合隼雄のこの反転の視点は、ぼくたちの「わたくしといふ現象」(宮沢賢治)の本質を軸とした反転の視点である。
求められる日本人のコミュニケーション能力の質の転換。- 平田オリザが提案する「協調性」に代わる作法。
海外に住み働きながら、以前「あたりまえ」のように思っていたことに、括弧をつけて、距離をとってかんがえなおしてきたもののひとつに、「協調性」というものがある。
海外に住み働きながら、以前「あたりまえ」のように思っていたことに、括弧をつけて、距離をとってかんがえなおしてきたもののひとつに、「協調性」というものがある。
いや、正確に言えば、日本にいるときも、協調性には疑問を付していたと思う。
ただ、それは言葉という以上に、小さいころから、ぼくのなかにプログラムされているものであった。
日本の外に出て、「協調性」ではやっていけない(「協調性」がわるいわけではない。生き方は人それぞれだ)。
ざっくり言ってしまえば、そもそもが、日本のような均質な価値観をベースにした社会や環境ではなく、さまざまな価値観のもとで、人びとが生きている。
日本も多様化してきたなぁと思うところもあるし、日本も視点を変えてみてみれば多様性のあるところだけれど、それでも、外部から見てみると、そこにはより均質な価値観がうめこまれているように、見えたりする。
それでも、これからはますます、価値観やライフスタイルが多様になっていく日本を見つめながら、劇作家・演出家の平田オリザは、「日本人に要求されているコミュニケーションの能力の質」の転換を視てとっている。
…いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば「心を一つに」「一致団結」といった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。
しかし、もう日本人はバラバラなのだ。
さらに、日本のこん狭い国土に住むのは、決して日本文化を前提とした人びとだけではない。
だから、この新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。
私はこれを、「協調性から社交性へ」と呼んできた。
平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年
「社交性」という概念は丁寧に選びとられている。
平田オリザが言うように、日本社会においては「社交性」という概念がよびおこすのは、「上辺だけのつきあい」「表面上の交際」といったマイナスのイメージであり、また「心とコミュニケーション」がセットになって教えられてきたようなところがある。
そして平田オリザの視線は、「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」ということが、そうではない人たちを排除する論理となっていることへも注がれている。
著書名にあるように、「わかりあえないこと」を前提として、コミュニケーションの可能性をひろいだしている。
平田オリザはコミュニケーションから心をきりはなしたわけではない。
ただし、平田オリザが高校生たちに実際に語りかけるように、「心からわかりあえないんだよ、すぐには」という地点に置かれているということである。
この<社交性という作法>は、日本人が海外に出ていくときにも、方法のひとつとすることができるものだと、ぼくは思う。
海外において、集団や組織で「協調性」を(知らず知らずのうちに)もとめるのは、その主体にとっても、また客体(他者)にとっても、よいものではない。
「知らず知らずにもとめる協調性」であるかもしれないから、協調性をいったん括弧に入れて、じぶんの言動を見つめてみる。
<社交性という作法>は、協調性からいったん距離を置くうえでも、ひとつの拠り所となるように思う。
吉本隆明の「声」に、耳をすます。- ほぼ日「吉本隆明の183講演」の、はるかな宇宙。
糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)のアーカイブに、「吉本隆明の183講演」という、心躍らせる講演アーカイブがある。
糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)のアーカイブに、「吉本隆明の183講演」という、心躍らせる講演アーカイブがある。
「1960年代から2008年の「芸術言語論」に至るまでの思想家の吉本隆明さんの講演をできるかぎり集めてデジタルアーカイブ化したもの」(ほぼ日「吉本隆明さんの講演について」)である。
思想家・詩人・文芸批評家の吉本隆明(1924年~2012年)は今の大学生の世代にはあまり知られておらず、また読まれていないと推測するけれど、思想家として多くの人たちに影響を与えてきた「巨人」である。
ちなみに、作家のよしもとばななは、吉本隆明の次女である。
ぼくは20年以上前に、大学に在籍していた折、社会学者の見田宗介、作家の辺見庸などを読んでいて、「吉本隆明」の名を知るようになった。
吉本隆明の著作も『共同幻想論』や『心的現象論序説』や『宮沢賢治』などを手にとってはみるのだけれど、吉本隆明の世界の深淵に、ただ立ち尽くすだけであった。
だから、これらの著作を今また手にとっては、その深淵をのぞきこんでいる。
「吉本隆明の183講演」のアーカイブの存在は、ぼくの心を躍らせた。
あの吉本隆明の講演が、183本もある。
分数の総計では、21746分にもなるという。
いくつかの講演のトピックをあげると、「フロイトおよびユングの人間把握の問題点」「宮沢賢治の世界」「現代詩の思想」「ドストエフスキーのアジア」「日本資本主義のすがた」「都市を語る」「ぼくの見た東京」「文学論」「恋愛について」「家族の問題とはどういうことか」「私と生涯学習」「社会現象としての宗教」「「生きること」について」「現代をどう生きるか」などなど、心踊るものばかりだ。
ひとつの講演のために論文を書くほどに労力をついやしていたこともあったという(そのことはぼくに、経済学者アマルティア・センの講演を思い起こさせる)。
iPhoneの「Podcasts」でも聞けるようになっているから、ぼくたちはいつでも、この巨人の「声」に耳をすますことができる。
ざっと講演リストに目をやり、最近のぼくの関心事である「物語」というキーワードがぼくをとめ、A162「物語について」(1994年)という講演を、ぼくは再生する。
吉本隆明の、あの(当初は想像しなかった)太い声が語りはじめる。
その「声」は、自信にみちあふれたような太い声ではなく、ゆらぎのなかを、一歩一歩たしかめるようにあゆむ声である。
その「声」は、人を(少なくともぼくを)ひきつけるものである。
その声は、次のように語り出す。
今日は「物語について」ということで、何をお話ししようかと思って、僕自身の物語についての考え方というか考察があるので、それをお話しすればいいかなと思ったんですが、たまたま出たばかりの『新潮』という雑誌に村上春樹と心理学者の河合さんの対談が載っていて、その対談が「現代の物語とは何か」という内容になっています。ちょうどこの人の『ねじまき鳥クロニクル』がベストセラーになっていて、自作の解説みたいなこともしていますから、これは入り口にはちょうどいいんじゃないかと思うので、そこから入っていきたいと思います。
テキスト「物語について」『吉本隆明の183講演』
ぼくはその語りを聴きながら、ある「偶然」にびっくりしてしまう。
「村上春樹と河合隼雄」に関するブログを書いたすぐ後に、吉本隆明の「物語について」という講演を再生して、まったく予測もしていなかったところに、「村上春樹と河合隼雄」が冒頭で登場する。
ぼくはその「偶然」におどろかされながら、吉本隆明の「村上春樹論」は読んだことも、聴いたこともなかったなぁと思いながら、興味深く、吉本隆明の「思想の声」に聴き入った。
また、吉本隆明自身の「僕自身の物語についての考え方というか考察」はやはり深い世界にぼくをなげこむのである。
183の講演、21746分の声とその声の「行間」から、ぼくはどんなことをまなぶのだろうかと、吉本隆明の思想の深淵をやはり感じながら、ぼくは静かに、耳をすませている。
「…先生」と呼んでしまう人。- 村上春樹にとっての「河合先生」(河合隼雄氏)のことから。
ここ香港で話される「…先生(sin sang)」は、成人男性に対する呼び名だから、ぼくはときに「先生(sin sang)」と呼びかけられたりするのだけれど、ここでは日本の「先生」のことを書いている。
ここ香港で話される「…先生(sin sang)」は、成人男性に対する呼び名だから、ぼくはときに「先生(sin sang)」と呼びかけられたりするのだけれど、ここでは日本の「先生」のことを書いている。
学校を卒業してしまうと、普段の生活のなかでは、特定の仕事にかかわる場合をのぞいて、「先生」と呼ぶ人はあまりいないように思う。
そのことがよいことなのか、わるいことなのか、それは人それぞれであろう。
ぼくにとっては、まず、社会学者の見田宗介「先生」の存在が大きい。
別に普段お会いするわけでもなく、カルチャーセンターの講義を一度だけ聴講したことがあるだけなのだけれど、やはり、「見田宗介先生」である。
文章を書いているときは、「先生」を外すことが多いけれど、心のなかでは「見田宗介先生」である。
しかし、見田宗介先生のペンネームである「真木悠介」となると、事情は微妙に異なってくるかもしれない。
真木悠介氏としての見田宗介先生にお会いするのであればどうだろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
小説家の村上春樹にとっては、自身も「先生」づけで呼ばれることはないし、また「先生」づけで呼ぶ人はいないけれど、今は亡き、心理学者・心理療法家の河合隼雄氏だけは、なぜか「河合先生」と呼んでしまうのだという(村上春樹「「河合先生」と「河合隼雄」」『雑文集』新潮社)。
とくに、河合隼雄氏の学生でもないし、彼のクライアントでもないし、尊敬はしているけれど「人生の師」でもない河合隼雄氏を呼ぶときに、対面していなくても、「河合先生がね…」というように、「河合先生」と呼んでしまう。
そこには「何か理由がある」はずだと思ってみると、周りの人たちの多くが「河合先生」と呼んでいて、だいたい8(「河合先生」)対2(「河合さん」)の割合のように感じられるというのだ。
こうして、村上春樹は「理由」をじぶんなりにいろいろとかんがえていく。
…いろいろと僕なりに考えてみたのだけど(小説家というのは暇だから、いろんなことをわりにしつこく考える)、考えているうちにだんだん、要するに河合隼雄氏は、半ば意図的に「河合先生」という衣を身にまとおうとしているのではあるまいか、という気がしてきた。…要するに「かわい先生」と呼ばれることを、ごく自然ににこにこと受け入れることによって、自分を「河合先生」と「河合隼雄」とにうまい具合に分離し、使い分けているわけではないだろうか。もしそうだとしたら、さすが心理療法の専門家だけのことはあるなと思う。…
村上春樹「「河合先生」と「河合隼雄」」『雑文集』新潮社
村上春樹がこの文章に続いて書いているとおり、そんなことは簡単にできることではない芸当である。
でも、村上春樹が河合隼雄と個人的に話をしていると、「河合隼雄」と「河合先生」のモードが入れ替わることがあったという。
たまにお目にかかって個人的に話をしていると、目の前で河合隼雄氏と河合先生のモードがすっと入れ替わったりすることがある。というか、こちらの目から見ていると、そういう風に感じられることがある。まるで風の方向で、森の中の木漏れ日がその印象を変えたりするのと同じように、顔つきがわずかに変化する。目の光り具合や、声のトーンがほんの少しだけ変化する。とはいっても、それで具体的に何かが変わるということではない。…
村上春樹「「河合先生」と「河合隼雄」」『雑文集』新潮社
このように察知する村上春樹の感覚と考えは、とても興味深い。
見田宗介先生についても、「見田宗介」名においては、大学の教員としての衣を身にまとっているところがある。
真木悠介名で書かれる著作たちは、世に容れられることを一切期待しないものである。
河合隼雄氏にとっては「心理(療法)」を軸にするモード変化であるように、見田宗介氏にとっては「社会」(世間)を軸にするモード変化のようにも見える。
いずれにしても、河合隼雄氏はぼくにとっても「河合隼雄先生」であり、見田宗介氏は「見田宗介先生」である。
ぼくが尊敬してやまない「先生」たちだ。
「ことばは心を連れてくる」(黒川伊保子)。- 男女脳のミゾの突破口としての「セリフ」力。
脳科学コメンテーターの黒川伊保子先生には、教わってばかりだ。
脳科学コメンテーターの黒川伊保子先生には、教わってばかりだ。
女性脳のこと(また男性脳のこと)については、じぶんの「頭のなか」を一生懸命にさがしたり、かんがえたり、いろいろしてみても、そもそもの「構造と機能」の違う脳であるから、やはりよくわからない。
だから、まずはひたすら教わって、学ぶことである。
女性の機嫌を直すには、これはもう、真摯に謝るしかない。ほとんどの男性がそのことを知っている。なのだが、ほとんどの男性が、謝り方を間違っているのである。
…
女性に謝るときは、彼女の気持ちに言及して謝る。これが基本形。
黒川伊保子『女の機嫌の直し方』集英社インターナショナルe新書、2017年
例えばの状況として、女性との待ち合わせに遅刻し、携帯電話でも連絡がうまくとれず、20分待たせてしまったような場合。
ほとんどの男性は、「ごめんごめん、部長に呼び止められちゃって」というように、遅れたことの理由を語る。
このように謝ってはいるのだけれど、謝り方が間違っているという。
大切なことは、この女性の「“二十分”の気持ちを慰撫すること」なのだと、黒川伊保子は書いている。
…「寒かったでしょう?(暑かったでしょう?)(心細かったよね?)、ごめんね」が正解。「あなたのような人を、こんなところに二十分も待たせて、どうしよう」なんて言ってくれれば、遅れてきた理由も聞きやしない。
女性脳は、遅れてきたという結果よりも、心細い思いをした経過のほうに、ずっと重きが置かれている。男性脳は、結果重視なので、彼女がたとえ遅れてきても、走ってきてくれて、満面の笑みを浮かべてくれれば、それでよしとするのだが、プロセス重視の女性脳は、そんなわけにはいかない。
黒川伊保子『女の機嫌の直し方』集英社インターナショナルe新書、2017年
ぼくが思うのは、このように読んでいるときは理解はできるのだけれど、いざ同様の場面になって、じぶんの頭で謝り方をかんがえても、いつのまにか「男性脳」の構造と機能につられてしまう。
そのようにして頭に浮かび、「よかれ」と思って言った言葉が、相手を怒らせたり、傷つけてしまったりする。
そのことを乗り越える方法は、徹底して女性脳(あるいは男性脳)の構造と働きをじぶんのなかにインストールすることである。
しかし、これがとてもむずかしかったりする。
だから、ひとつの方法は、いくつもの場面に合うような「セリフ」を覚えておくこと、そして実際にセリフを語っていくことである。
「セリフ力」をつけていくのである。
黒川伊保子も、「セリフだけでいいから言うこと」をすすめている。
当然のことながら、セリフに「気持ちがこめることができない」という疑問もあげられる。
そんな疑問を抱く男性に対して、黒川伊保子は次のように、アドバイスしている。
それに、ことばは心を連れてくる。
ある男性が、私に「僕は、共感もしてないし、申し訳ないとも思っていない。だけど、先生はセリフだけでいいから言えと言う。心のないセリフを言われて、女性は嬉しいのでしょうか」と言ったことがある。
「心にないセリフでいいの」と私は言った。「でもね、その優しいことばに、奥さまがほろりとして笑顔になったら、あなたはきっと言ってよかったと思うはず。あとから、優しい気持ちが追いかけてくる。それで十分」
男女のミゾは深くて、相手に「自分の脳の中にあるような真実」を求めようと思ったらあまりにも空虚な関係になる。けれど、この男女のミゾは、意外に幅が狭くて、ことばの橋が懸けられる。…
黒川伊保子『女の機嫌の直し方』集英社インターナショナルe新書、2017年
「ことばは心を連れてくる」、とても素敵なことばだ。
プライベートでも、仕事でも、「セリフ力」をつけていくことで、セリフはぼくたちの強い味方になってくれる。
男性脳と女性脳の「悪循環」はいったんそれがまわりだすと、それぞれの構造と機能が違うだけに、ループをどこかで止めることがむずかしくなってしまう。
そのようなループを止めるとき、セリフは、ぼくたちを助けてくれる。
たとえ最初のうちは「心」がこもっていなくても、ループがとぎれて、そこに暖かな光がうまれるとき、しぜんと、「優しい気持ちが追いかけてくる」のだ。
そう、ことばが、心を連れてきてくれる。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ」(『閑吟集』)。- ひろさちやと大岡信の注釈を重ねながら。
日本の室町時代後期に編纂された歌謡集(編者は未詳)『閑吟集』のなかに、次のような歌が収められている。
日本の室町時代後期に編纂された歌謡集(編者は未詳)『閑吟集』のなかに、次のような歌が収められている。
何せうぞ
くすんで
一期は夢よ
たゞ狂へ
この歌の存在を、ぼくは、ひろさちや著『「狂い」のすすめ』(集英社e新書、2010年)で知った。
この本でひろさちやが現代語訳的に書くと、「何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら遊び狂へ」となる。
「くすむ」とは「まじめくさる」ということであるようだ。
ひろさちやが注釈をつけているように、室町時代の庶民たちが遊び狂っていたわけではなく、「現実には牛馬のごとく働かざるを得ない」状況であったのであり、その現実のなかで、《一期は夢よ ただ狂へ》と、願望をいだきながら歌ったということであったのであろう。
ひろさちやは、願望よりもそこにさらなる意味合いを付与し、「むしろ現実と闘うための思想的根拠であり、武器であった」と書いている(※前掲書)。
ひろさちやにとって、「思想・哲学」とは、<俺は世間を信用しないぞ>という意識のようなものである。
『閑吟集』のこの歌は、ひろさちやが現代を生きていくうえで、このような思想・哲学であり、武器となっている。
いいですね。わたしはこの歌が大好きです。そして、わたしはこれを
ーー「ただ狂え」の哲学ーー
と名づけています。この哲学でもって世間と闘ってみよう。そうすると、きっと視界が開けてくるだろうと思っています。
ひろさちや『「狂い」のすすめ』集英社e新書、2010年
ぼくも、この歌が好きである。
この歌は、ぼくの生き方の光源となっている、真木悠介のつくる言葉、「life is but a dream. dream is, but, a life.」と交差してくる。
「構造」としてみれば、同じ構造を共有している。
前半の部分で、「人生とはただの夢でしかない」と真木悠介は書いているけれど、これは「一期は夢よ」ということである。
その深い認識をもとに、真木悠介は「しかし、この夢こそが人生だ」という反転のなかに生きることの豊饒さをつかみとり、『閑吟集』のこの歌の作り手とそれを歌った庶民たちは「ひたすら遊び狂へ」という方向に思想・哲学をつかんでいる。
「ひたすら遊び狂へ」という方向につきぬけてゆくエネルギーの豊饒さに魅かれながら、意味合いとしてしっくりこないところがあったのだけれど、大岡信(大岡信ことば館)の注釈は、少し違う角度から、この歌の本質をついているように見える。
…中世以降の歌謡には無常観という太い底流があることはたびたび書いた通りだが、この小歌はそれを端的に吐き出していて忘れがたい。なんだかんだ、まじめくさって。人生なんぞ夢まぼろしよ。狂え狂えと。「狂う」は、とりつかれたように我を忘れて何かに(仕事であれ享楽であれ)没頭すること。無常観が反転して、虚無的な享楽主義となる。そのふしぎなエネルギーの発散。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」閑吟集、大岡信ことば館
大岡信は「狂う」をほりさげて、「我を忘れて何かに没頭すること」としている。
この解釈は、その後に書かれる「虚無的な享楽主義」ということを超えるようにして、生きるということの、いっそう深い歓びを表現している。
歓びを感じるときというのは、ぼくたちが(短絡的な手段によらない仕方で)「我を忘れて」いるときである。
最近では、「フロー体験」などとも呼ばれ、ビジネスの現場においてもよく議論にのぼってくる。
大岡信は「虚無的な享楽主義」という書き方をしているけれど、むしろ、その後に書かれている「そのふしぎなエネルギーの発散」というほうが、この歌の本質をついているように、ぼくには見える。
大岡信のこのような注釈を、ひろさちやの注釈に重ねていく仕方で、この歌のもつ光がよりいっそう強くなるのだ。
それにしても、室町時代の人たちの見晴るかしていた「世界」の深さと、そこに切り開こうとした生き方に、ぼくは心を打たれる。
真木悠介の言葉の反転は、虚無に陥るのではなく、ぼくたちが生きているこの生の愛おしさを照らし出す光を、その言葉のうちにもっている。
「しかし、この夢こそが人生なんだ」というところに、虚無ではなく、いっそうの夢が、豊饒に重ね合わせられる。
ぼくたちは、この一期の夢を、この世に生きる間に、ただ生きつくすのみである。
<語りづらいもの>を語ること。- 糸井重里のエッセイと、Fred Rogersの教育番組の<文体>。
コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)というウェブサイトがあり、そこでは「今日のダーリン」という、「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」というコーナーがあって、糸井重里は毎日、この「エッセイのようなもの」を書いている。
コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)というウェブサイトがあり、そこでは「今日のダーリン」という、「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」というコーナーがあって、糸井重里は毎日、この「エッセイのようなもの」を書いている。
本日(4月9日)の「今日のダーリン」は、糸井重里の愛犬、ブイヨンが亡くなってから「半月ほど経った」ときの、ブイヨンの「不在」に照らし出される世界についてである。
「よく考えると、ずうっと犬のことを考えて、書いている。」と、筆がおかれている。
3月21日に愛犬のブイヨンが亡くなり、「ほぼ日」でも取り上げられたりしてきたブイヨンのこともあって、ここ最近の「今日のダーリン」でも、ブイヨンの「不在」と思い出が取り上げられたりしていた。
愛犬ブイヨンの亡くなった話はとても個人的な(あるいは家族的な)ものであるなかで、糸井重里は、ブイヨンの不在と思い出、そこに現れる感情を真摯に書き綴って、ぼくたちに伝えてくれている。
きわめて個人的な(あるいは家族的な)感情が凝縮されて綴られているからこそ、(ぼくのように)ブイヨンを知らなかった人たちにとっても、確かに、伝わってくるものがある。
その姿は、ぼくに、「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)のことを思い出させる。
Fred Rogersは、あるとき、番組のトピックとして、とても難しい「死」を扱う。
テレビスタジオにある水槽で亡くなった「金魚」を弔う姿を、Fred Rogersは番組のなかで見せる。
水槽から亡くなった金魚をひろいあげ、スタジオの風景の一部である「庭」の土を掘り起こして、そこに金魚をうめてあげる。
その間、Fred Rogersはしゃべることをせず、テレビ番組でありながら、そこに言葉のない「静けさ」がひろがる。
土をかぶせてから、Fred Rogersはテレビカメラの向こう側にいる子供たちに向かって、語り始める。
そこで、彼が話し始めたのは、昔かわいがっていた犬のミッチが亡くなったときのことである。
とても、とても悲しかったときの思い出だ。
悲しみに泣き、おばあちゃんが来てはそばにいてくれ、そして「埋めなければならない」という父親の言葉に最終的にしたがう形で、ミッチをうめてあげたこと。
それから、ミッチとの思い出にほほえみを顔にうかべながら、ミッチの写真をみせて、楽しく親密な思い出を共有する。
Fred Rogersはこのようにして、「死」にどのように向き合うのかを、じしんの体験をその親密さのうちに語りながら、子供たちに語りかけてゆく。
これを見た子供たちは、「何か」を深いところで感じただろうと、ぼくは想像する。
糸井重里が愛犬ブイヨンの死に向き合いながら過ごす日々を語る筆致に、ぼくは、Fred Rogersのこの語りと<共通するもの>を感じる。
このような<語りづらいこと>が語られることで、それを読んだり聞いたり見たりする者に、何か大切なものが伝わる。
そしてそう感じながら、このような<文体>が今の時代において、あまり見られなくなってきたように、気づかされる。
「言葉」をとことんつきつめるチーム・組織。- 「言葉」がむずかしい時代だからこそ。
津田久資は、トヨタや日産よりも遅れて四輪自動車の業界に参入したホンダの創造性が「論理思考の賜物」であったのだと、「論理思考」を語る本のなかで書いている。
津田久資は、トヨタや日産よりも遅れて四輪自動車の業界に参入したホンダの創造性が「論理思考の賜物」であったのだと、「論理思考」を語る本(『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』ダイヤモンド社)のなかで書いている。
そして、その「論理思考」における本質を、「言葉への徹底的なこだわり」であったと見ている。
かつてホンダの経営企画室長だった小林三郎さんによれば、同社の研究開発を担う本田技術研究所は、社内では「本田言葉研究所」と呼ばれていたそうだ。
「技術やクルマの研究の前に、言葉を巡って延々と議論が続くからだ。……(中略)新車の商品コンセプトを表現する言葉を決めるためだけに、3日3晩のワイガヤを3回やった開発チームもあった。とにかく、言葉に対するこだわりが半端ではない。そのため、技術ではなく言葉を研究しているという所という意味を込めて、本田言葉研究所と呼んでいたのである」(「日経ものづくり」2011年5月号より)
津田久資『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)
「技術研究」ということからは一見すると遠くに位置する「言葉」というものを、とことんつきつめて、研究開発を駆動させてゆく「本田言葉研究所」。
津田久資は、この「言葉への徹底的なこだわり」に、創造性の源泉を見ているけれど、ぼくは(その実態はわからないけれど)感覚として、そのことがよくわかる
組織において、商品コンセプトであれ、組織のビジョンであれ、組織メンバーが一緒に「言葉」を徹底的に議論する。
「言葉」を所与とせず、議論し、互いのズレを確認し、互いの思いを一緒に言葉に込めながら、言葉をつくっていく。
最終的にできあがる/生まれる言葉はもとより、このプロセスのうちに、言葉が現実のビジネスや組織マネジメントにおいて力をもつことの内実がある。
それにしても、「言葉研究所」と呼ばれる所があったということに、ぼくは心地よい驚きを感じる。
そして「言葉研究所」という呼び名が正式な名称ではなく、言葉に対する半端ないこだわりの<結果>として、そう呼ばれていたところに、チームや組織の力があるようにも見える。
「商品コンセプト」というなかに閉じ込められない力を宿していったことは想像に難くない。
「言葉」がむずかしい時代に、ぼくたちはいる。
「時間-空間」の論理で見れば、例えば、世代ごとに異なる「言葉」、また異文化で異なる「言葉」という軸でのむずかしさが見てとれる。
また、「虚構の時代」(見田宗介)というように現代を射る視点からは、「言葉」は、人の購買意欲を駆り立て、感情を一定の方向に向かせるような(ポピュリズム的な)役割へと、狭窄化されている。
このような時代にあって、まずは、じぶんの言葉を取り戻し、あるいは構築してゆくこと。
そして、他者とも、そのかかわりあいのなかで、ぼくたちの強い味方となる、共通の言葉を、構築してゆくこと。
言葉を大切にしたいと、ぼくは思う。
40歳からのトンネルを抜けて。- 「40歳へのメッセージ」(糸井重里)と「試練は、ごほうび」(宮沢りえ)。
年齢・年代による生き方というもの、とくにぼくが置かれている40代の/からの生き方をかんがえてみたりする。
年齢・年代による生き方というもの、とくにぼくが置かれている40代の/からの生き方をかんがえてみたりする。
いろいろな書籍や雑誌が、年代別のテーマをあつかったりしているし、村上春樹も四十歳をひとつの「分水嶺」として作品を完成させていった。
ときに、年代別で見ることは、人びとの共同幻想ではないかと思ったりもする。
あるいは、心理学者エリクソンの有名な「発達段階論」のようなものが思い起こされる。
心理学者といえば、ユングの言う「人生の午後」ということも気になってくる。
しかし、時代は「100歳時代」に突入し、40歳の「立ち位置」も生きることのなかでは変わってきている。
また、ナマコ研究者の本川達雄『人間にとって寿命とはなにか』(角川新書)の帯に書かれた、「42歳を過ぎたら体は保証期限切れ」というコピーに、42歳のぼくはつい反応してしまう。
ともあれ、年齢・年代論は、人間であること(生物・動物としての人間、社会存在としての人間、文化に生きる人間など)の諸相が、いろいろな場面で、いろいろな仕方で、語られているのだと思う。
糸井重里は、「AERA x ほぼ日刊イトイ新聞」の企画(40歳の特集)において、「ぼくの話が40歳の誰かに届けばって」思いながら、言葉を紡いでいる。
AERAに掲載された糸井重里の「40歳へのメッセージ」は、糸井重里のあの文体で、長くはないけれど、そこに込められたもののとてつもなく大きなものを感じさせる言葉たちを、「40歳の誰か」に届けている。
きりとってしまうと、何かがうすまってしまうので全文を読むのがよいけれど、ここでは一部をきりとる。
ぼくにとって40歳は25年前。
暗いトンネルに入ったみたいで
つらかったのを覚えている。
絶対戻りたくない、というくらいにね。
…
40歳を迎えるとき、多くの人は
仕事でも自分の力量を発揮できて、
周囲にもなくてはならないと思われる存在になっていて、
いままでと同じコンパスで描く円の中にいる限りは、
万能感にあふれている。
でも、40歳を超えた途端、
「今までの円の中だけにいる」ことができなくなる。
…
「今までの円の中だけにいる」ことができなくなる。
その「理由」について、ここでは糸井重里はなにも触れていない。
「理由」は人それぞれであるし、何かやむにやまれないものが現象する仕方も、人それぞれであろう。
理由はともあれ、糸井重里は、別のコンパスで描いた円の中に入っていかなければならず、そこでは役に立たない存在だと突きつけられるのだと、自身の「暗いトンネル」の経験の記憶に降りながら、その暗い深い場所から言葉を取り出している。
彼自身もコピーライターとしての万能感がくずれていき、仕事だけでなく、夫婦関係や子育て、親の介護や自分の病気などでも大変な時期にさしかかっていく。
糸井重里は、このようななかでもがきながら、「ゼロになること」を意識するように心がけたという。
仕事においても、あるいは趣味においても。
そうして歩んできて10年後、つまり50歳のときにつながっていく。
それが、「ほぼ日刊イトイ新聞」として結実していくことになる。
現在の日本の40歳は「団塊ジュニア世代」。
団塊の世代である糸井重里は、「「食いっぱぐれることがない時代」を生きていることをもっと利用したほうがいい」(前掲リンク)と、団塊ジュニア世代にアドバイスする。
暗いトンネルをぬけてきた糸井重里は、トンネルをぬけながら「その先に何があるのか」を教えてほしかったという。
そうして、言葉たちを届ける。
言葉たちは、40歳の糸井重里に向けられた言葉であることで、そこに大きな重力を宿している。
その重力に引かれるようにして、ぼくは糸井重里の言葉に耳をすます。
シンプルな言葉たち、しかしそこに語られない言葉たちの総体の声に、耳をかたむける。
ところで、この特集で、糸井重里は、宮沢りえと対談をしている(「試練という栄養ー宮沢りえさんにとっての40歳」)。
男の厄年である40歳にふれる糸井重里に対して、宮沢りえは、最近よく言っていることとして、「試練は、ごほうび」であると語っている(上記の「第2回:試練は、ごほうび」)。
苦難は経験したくないもしれないけれど、苦しみや悲しみを経験して知っている人のほうが、豊かな人であると思うと、宮沢りえは糸井重里に向かって言葉を伝える。
「試練は、ごほうび」。
糸井重里は、この言葉に反応して、ポンと手をたたいたのと同じく、ぼくは、心のなかでポンと手をたたいた。
「試練は、ごほうび」。
とても素敵な表現だし(書き言葉として「試練は」の後に「、」が入るリズムもいい)、そう言える生き方は魅力的だと、ぼくは思う。
「考える」ことの本質について。- 論理思考、言葉(ロゴス)、分けること。
「考える」とは、その本質において「(物事を)分けること」というふうに、ぼくはかんがえる。
「考える」とは、その本質において「(物事を)分けること」というふうに、ぼくはかんがえる。
「分けること」とは、物事を論理的に分けていくことである。
だから、この見方においては、「論理的に考える」という言い方は便宜的なものであって、本質的には、「考える」ことのなかにすでに「論理」が含まれている。
津田久資は著作『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)で、「考える」ということを、ビジネスにおいて「競合に勝つ」という視点・焦点において、「学ぶ」ことから切り離しながら、次のように定義している。
● 学ぶ=既存のフレームワークに当てはめて答えを導く
● 考える=自分でつくったフレームワークから答えを導く
「思考力で競合に勝つ」という視点をつきつめてゆくなかで、「勝つ」ということを、「思考の成果、つまり発想(アイデア)において相手よりも優位に立つこと」とし、そこから発想において「負ける」ということのパターンとして、論理的に3つ挙げている(前掲書)。
<発想における敗北の3つのパターン>
① 自分も発想していたが、競合のほうが実行が早かった
② 自分も発想し得たが、競合のほうが発想が早かった
③ 自分にはまず発想し得ないくらい、競合の発想が優れていた
これらを言い換えて、津田は次のように簡素化する。
① 実行面の敗北
② 惜敗(「しまった」)
③ 完敗(「まいった」)
そのうえで、90%以上の敗北は②の「しまった」にあるとし(人は同レベルの「戦場」に集まる傾向を背景としている)、その処方箋として「論理思考」を立てる。
「論理思考力」をつきつめてゆくなかで、津田久資は「考える」こと、またそれを構成する「言葉」の本質にきりこんで、次のように本質を取り出している。
● 「考える」とは「書く」である
● 「言葉」とは「境界線」である
津田が指摘しているとおり、「論理(logic)」の語源は、「ロゴス(logos)」=言葉であり、言葉はその本質にして「論理」的なのである。
そのことを、津田は、「言葉」とは「境界線」であると表現している。
言葉は機能(「境界線」)として、対象を切り分けるのである。
切り分ける機能として、それは「考える」ということを本質として内包していることになると、ぼくはかんがえる。
「考える」とは「書く」であると、津田久資が述べていることに興味をおぼえ、ぼくは立ち止まる。
人が考えているかどうかを決めるのは、その人が書いているかどうかである。
アイデアを引き出すとは、アイデアを書き出すことにほかならない。少なくとも大多数の人にとってはそうである。…
本当に何かを考えたときには、そのプロセスや最終的なアウトプットについて、何かしら必ず書いているはずである。逆に言うと、それがない限り「考えていた」とは言えないのである。
津田久資『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)
例として、ダイエーの故・中内功がとんでもないメモ魔であったこと、エジソンの生涯3500冊のノートなどが挙げられ、逆に「少数派の例外」として「小説の最後の1行が決まるまで、ペンを執らない」作家の三島由紀夫が取り上げられている。
「書く」ことは、視覚化することでもある。
人間の文明が「視覚」を発展の原動力としながら、「視覚」文明をつくりあげてきたということを、ぼくは重ね合わせながら、かんがえてみる。
文明の発展の構造と駆動はぼくのなかでまだ漠として繋ぎあわさっていないけれど、「書く」ことで世界がひらかれてきたことは、「書く」ことの力を思えば、経験上わかるように思う。
埴谷雄高の語る「夢と現実」。- これまでの言葉や思考を<括弧でくくる>とき。
「学ぶ」ということの深い意味を体験としてわかりはじめたことのきっかけのひとつとして、経済学者であった内田義彦の著作があった。
「学ぶ」ということの深い意味を体験としてわかりはじめたことのきっかけのひとつとして、経済学者であった内田義彦の著作があった。
かすかな記憶では、大学での「国際経済学」講義の課題図書のひとつであったと思う。
社会科学を学ぶことで物事を視るための<メガネ>を変えていくというようなことを、ぼくは内田義彦から学び、その「教え」に触発されながら、ようやく<学ぶこと>を理解しはじめ、やがて、<メガネ>を変えることで、世の中が違って見えるようになることに、驚きと興奮、そして(ぼくにとっての)救いのようなものを感じた。
それまで20年間生きてきたなかで、ぼくのなかに蓄積されていた「言葉」や「考え」が、確固たるものではなく、<不確かなもの>として立ち上がってくるようになった。
ぼくが小さい頃から「違和感」を感じ続けてきたことのひとつとして、「現実(リアリティ)」、そして「夢」ということがある。
世間も大人たちも「現実を見なさい」と語り、見えないプレッシャーを投げかける。
そこで語られる「現実」ということに、ぼくは違和感を感じ続けてきたのである。
ようやく<学ぶこと>をしはじめたぼくは、いろいろな人たちの著作のなかで、多様で深い「言葉」と「思考」に出会い、これまで蓄積されていた言葉や考えを解体していくようになった。
これまでの言葉を<括弧でくくる>ことで見直し始めた頃、作家の辺見庸の著作群に出会い、辺見庸が影響を受けてきた作家などにも手をひろげていき、そのなかに作家の埴谷雄高(はにやゆたか)がいた。
「夢と現実」について次のように語る埴谷雄高に、ぼくは出会う。
…夢について、初めは誰でもそうでしょうけれども…現実の人間の生活から遠く離れた架空な、きれぎれな低次な意味しかもっていないものだと思っていた。人生の小さな装飾というぐらいにみていたのです。ところが、成長するにつれて、考え方が逆転してきて、どうも僕たちの現実自体が夢を見る見方にこそ支えられているという気がしてきた。夢を見ているその夢の枠から「僕」がでれないとまったく同じ仕方で、まったく同じ制約法でどうも僕たちは「僕」と「もの」のなかにいる。こう思えてくるとどうも夢のほうが僕たちの生を支えている素朴な原型であって、われわれのもっているこののっぴきならぬ思考法はむしろ夢に規定されている。…
埴谷雄高『凝視と密着』未来社、1969年
ここでは「夢」というものが、きれぎれなものから生の素朴な原型というものにいたるまで重層的に語られている。
「人生の小さな装飾」としての夢が、成長の過程において<括弧>くくられ、現実を包摂するようなものとして生きられ、感覚され、見晴るかされている。
それは、ぼくの生きることの経験に根ざした直感に、直接に接続される言葉の表現を与えてくれるようなものであった。
そのような言葉との出会いが、人の生の道ゆきを照らし出してくれる光源となってくれる。
「読まな、損やでぇ」の本から本へ。- 河合隼雄『こころの読書教室』の語りで、心の深みに降りる。
20歳になるまで、ぼくは本という本をほとんどといってよいほど読まなかった。
20歳になるまで、ぼくは本という本をほとんどといってよいほど読まなかった。
経験とじぶんでかんがえることが大切と思っていたのだと思うけれど、今思うと、それこそ浅いかんがえであった。
経験とじぶんでかんがえることに、「本」(他者の書くもの、また語り)が加わることで、経験とかんがえること自体にひろがりと深みがでるのだ。
そんな「本の読み方」と本から学ぶ(本と共に生きる)歓びを、ぼくはいろいろな人たちに学んだ。
そのうちの一人、心理学者・心理療法家の河合隼雄は、『こころの読書教室』(新潮文庫、原題『心の扉を開く』)のようなものとして、次のように書いている。
私はできるだけ多くの人に本を読んでもらいたいと思っている。それも、知識のつまみ食いのようではなく、一冊の本を端から端まで読むと、単に何かを「知る」ということ以上の体験ができると思っている。一人の人に正面から接したような感じを受けるのだ。
「情報が大切と言いながら、現代の情報は『情』抜きだから困る」と言ったのは、五木寛之さんである。私もこの考えに賛成だ。人間が「生きている」ということは大変なことである。いろいろな感情がはたらく、そして実のところ、その感情の底では本人も気づいていない、途方もない心の動きがあるのだ。そのような心の表面にある知識のみを「情報」として捉えていたのでは、ほんとうに生きることにはつながって来ない。
河合隼雄『こころの読書教室』新潮文庫
インターネットの発展は、日々、はるかに多くの「情報」の創出をうながしている。
情報空間は「知識のつまみ食い」の機会を次から次へと、つくっている。
しかし、「知識のつまみ食い」をくりかえしてもくりかえしても、なにかが抜けてしまっているような感覚におちいる。
河合隼雄が語るように、心の表面の知識を情報として捉えても、「ほんとうに生きること」にはつながっていかないと、ぼくも思う。
河合隼雄の読書のひろげ方(アンテナの張り方)は、「尊敬する人、好きな人の推薦」だという。
ぼくもまったく同じ「アンテナの張り方」をしている。
だから、『こころの読書教室』で河合隼雄がすすめる本を読む。
4回の講義録として編集されたこの本では、それぞれの講義ごとに、「まず読んでほしい本」五冊と「もっと読んでみたい人のために」五冊が紹介されている。
河合隼雄の関西弁では「読まな、損やでぇ」の、合計20冊の本たちである。
深層心理学の専門書はなるべく避けられ、小説や児童文学・絵本などがとりあげられている。
講義は、「まず読んでほしい本」で紹介された本を読み解きながらすすめられてゆく。
「話の筋」の、いわゆるネタバレがあるけれども、それだけで「わかった」という表面的な世界ではなく、深い世界へと降りてゆくような本である(「まず読んでほしい本」を読んでからこの本を読むのがよいのだろうけれど、ぼくは先に河合隼雄の講義に耳をすましてしまった)。
「私と“それ”」「心の深み」「内なる異性」「心ーおのれを超えるもの」という講義に、ぐいっとひきこまれてゆくのをぼくは感じ、そしてこの「一冊」を読むことで、やはり河合隼雄という人に正面から接したような感覚がわきあがるのだ。
それはこころの深いところに降りてゆくような対話のようなものである。
河合隼雄はこの本を講義録をもとにしてつくられている理由として、「語りかける言葉の方が、人間の心の扉を開いて下降してゆくのにふさわしいと思われる」(前掲書)と語る。
はっと、ぼくはそこで、河合隼雄の語りにひきこまれていった理由のひとつが紐解かれたようにも思った。
「silence(沈黙・静寂)」のこと。- フレッド・ロジャース、ジョン・ケージ、見田宗介。
「silence」(沈黙・静寂)ということをかんがえる。
「silence」(沈黙・静寂)ということをかんがえる。
「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組の司会者であった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、かつてインタビューで、現代社会が、「wonder」(おどろき)ではなく、あまりにも「information(情報)」にばかり関心をもってしまっていること、また「silence(沈黙・静寂)」ではなく、あまりにも「noise(ノイズ)」に充ちていることに対して、警鐘をならした。
ロジャースの静かだけれど凛とした声は、ぼくの心に直接に届くひびきをもって、伝わってくる。
「沈黙」でつらぬかれた有名な作品「4’33’’」を創った音楽家のジョン・ケージにとって、沈黙はいわゆる沈黙ではない。
…ジョン・ケージは沈黙は環境に存在するあらゆる音の一瞬の総和であると語った。彼は同じことを、「沈黙は生きている」と表現することもできた。
デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論』NTT出版、1999年
沈黙が、時空間の「欠如」と捉えられがちな現代とは異なり、そこには「あらゆる音の一瞬の総和」とみる反転の視点が鮮やかに提示されている。
沈黙におかれるとき、ぼくのなかでときおり、ジョン・ケージのこの反転の視点があらわれる。
「愛の変容/自我の変容」と題された文章で、社会学者の見田宗介は「現代短歌の感覚と思想」を追いながら、最後に二つの短歌を取り上げて、そこに、現代を超えていくことのある種の「乗り越え」のイメージをとりだしている。
ためらわず車椅子ごと母を入れナース楽しむねこじゃらしの原 吉田方子
「愛」ではなく奉仕ではなく献身ではなく親切ではなく感謝ではないような仕方で、三人は自由に結び合っている。ねこじゃらしの原に酩酊することで、人と人との間にしかれているという国の境を越境している。
それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧 渡辺松男
<孤高>ではなく<連帯>ではなく、複数の存在が存在しきっている仕方。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年(※その後、見田宗介『社会学入門』岩波新書に加筆して収録)
「ねこじゃらしの原」も、「紺の高み」も、いずれも、ノイズではなく、沈黙・静寂のなかに風景がおかれている。
しかし、その静けさは、関係の冷たさを体現するものではなく、逆に、関係の「境界線」がなくなってしまうようなところに顕現している。
20年程前に、ニュージーランドの自然を歩きながら、人は静寂や寂しさのようなものを克服する(逃れる)ようにして「都会」をつくったのかもしれない、という想念がかすめる。
都会の喧騒と彩りがとても魅力的に映り、また都会に戻って来るとぼくの自我は「安心のような感情」を抱いたりする。
しかし都会に長くいると、そのノイズに疲れてしまう。
今は、都会と自然という切り分け方そのものが、「情報テクノロジー」の世界のなかでは、その境界線をあやふやにしている。
どこにいても、人はいつのまにか「情報の渦」のなかに投げ込まれてしまう。
だからときには(あるいは日常に)、「沈黙」に身体をさらしたい。
それは欠如に身をおくことではなく、「あらゆる音の一瞬の総和」とでも呼べるような、また存在の境界線がなくなるような、そのような時空である。
「みんなで「私」というものをやってくれている」(河合隼雄)。- まわりと自分の関係が見えてくるとき。
「人とのつき合い」における<全体性>とも言うことのできる視点を、著書『こころと人生』(創元社)で河合隼雄は述べている。
「人とのつき合い」における<全体性>とも言うことのできる視点を、著書『こころと人生』(創元社)で河合隼雄は述べている。
河合隼雄が俳句を始めようと句会に参加したら、いろいろな人たちがいろいろに言ってくる。
はじめてにしてはうまい、と言ってくれる人もいれば、いやみを言う人もいる。
俳句とはぜんぜん関係のない話をしてくる人もいる。
悪口を言う人もいて腹が立つこともあるけれどと前置きをしつつ、そうしたことの全体が「私が生きている」ということだとわかってくるということを、河合隼雄は、この文章の元となった講義で、冗談をまじえながら聴衆に語りかけている。
…「私が生きている」といっても、一人で生きているわけじゃないですから、この人ともこの人ともみんな関係がある。その中で私が「いい句ができたなぁ」と思って喜んでいるときに、パッと悪口を言ってシュンとさせる人というのは、考えたら「私が生きている」ということにものすごく大事な人なんですね。
河合隼雄『こころと人生』創元社
シュンと言ってくれる人がいないと天狗になってしまうこともあるなかで、天狗になりかけたときに、そのような人が現われることで「全体のバランス」のようなものがある、と。
河合隼雄は、生きることで一見「面白くない」体験を、全体性のなかで「面白い」体験に転回する視点を語っている。
この話につづいて、「人」だけにかかわらない視野へと、河合隼雄は視線を上昇させていく。
…極端にいえば自分の周囲にある草でも、鳥でも、石でも、木でも、みんな自分と関係がある。そして、みんなで「私」というものをつくってくれているというか、「私」というものをやってくれているんじゃないかというふうに、僕はこの頃思います。
河合隼雄『こころと人生』創元社
「私」というものをつくるってくれているというか、「私」というものをやってくれている。
「私は他者である」(例えば、良心の声は両親の声)ということが、ここでは徹底されて、「私」というものをやってくれるものとしての「まわり」の全体性が語られる。
この表現の鮮烈さと深さに、ぼくは心の中でうなってしまう。
河合隼雄はそのような体験の例として、自分の家に帰るときの「風景」を挙げている。
いつもであれば、どこかの家の松の木が見え、何気なしに通りすぎている風景において、ある日突然に松の木が見えなくなる。
訊いてみると、ある理由で切ってしまったということを知って、残念な気持ちがおしよせてくる。
この気持ちは、ぼくも昨年(2017年)、ここ香港で、身にしみて感じていた。
香港にやってきた台風が、一夜にして、これまで悠然と立っていたかのような木々を倒してしまった。
倒れかかった木々は危険だから、取り除かれてしまい、そこには、ぽっかりと空間ができてしまったことに、ぼくは残念な気持ちと寂しさを感じたものだ。
同時に、これまでの何気ない風景に、ぼくは生かされていたということを知ることになった。
最近、残った木々たちはその力強さを取り戻してきているように、ぼくには見えていた折、ぼくは河合隼雄のこの文章に出会った。
河合隼雄は次のように、語っている。
…どういうことかというと、その松の木はそれまで、自分の人生を支えるひじょうに大事なものとして存在していたということです。
そんなふうに、「いろんなものがまわりで自分を支えてくれている」というふうに思えるようになってきたら、普通の社会でいうような意味での「お金が儲かる」とか、「子どもがどこの大学へ行っているか」とか、そんなことだけじゃなくて「私はちゃんと生きています」という感じが、だんだんとしてくると思います。…
河合隼雄『こころと人生』創元社
「私」というものをまわりがやってくれている。
そのことを、「私」が失くなってしまい自我がくずれおちていくように感じるのではなく、逆に、「私」を豊饒化しているのだと感じるような<全体性の視力>を、河合隼雄はわかりやすい言葉で、しかし経験を深いところで生きてきた人しか語れない言葉で、語ってくれている。
<物語>としての自己(鷲田清一)を基盤にして。- 「語りなおすこと」への繊細なまなざし。
哲学者の鷲田清一は、東日本の大震災から一年が経とうというときに、著書『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)を書き、危機や痛みに直面したときの「語りなおし」ということを語っている。
哲学者の鷲田清一は、東日本の大震災から一年が経とうというときに、著書『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)を書き、危機や痛みに直面したときの「語りなおし」ということを語っている。
そのように語ることの、ひとつの出発点は、<物語>としての自己のあり方である。
わたしたちは誰しもが、わたしはこういう人間だという、じぶんで納得できるストーリーでみずからを組み立てています。精神科医のR・D・レインが言ったように、アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのことです。
人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティをじぶんに向けてたえず語りつづけ、語りなおしていくプロセスだと言える。
鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)
生きていくなかで、これまでじぶんに語りつづけてきたストーリーが崩壊していくような契機に、ぼくたちは出会う。
阪神大震災や東日本の大震災などの天災、大切な人をなくしてしまうこと、病気になることなど、「危機と痛み」の直面する。
その都度、人は、じぶんのストーリーを語りなおしていく。
…事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、…深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへとなんとか着地する。…言ってみれば、<わたし>の初期設定を換える、あるいは、人生のフォーマットを書き換えるということです。
鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)
鷲田清一は、<わたし>という「物語の核心(コア)」をなすものとして、次のものを挙げている。
- 出自(じぶんは誰の子か)
- 性
これらのコアに、さらに3つのことを加えている。
● じぶんにとって大事な人
● 家
● 職
震災などでは、これらのいずれか、あるいは複数を喪失しているなかで、じぶんの「物語」を語りなおしていかなければならない。
このような認識を基盤にして、鷲田清一は、それらが現場でどのようになされるのか/なされるべきなのかを、繊細な言葉で、丁寧に語っている。
ぼくは大学時代に、鷲田清一の著書『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』を読んだことがある。
詳細は覚えていないけれど、ただ「聴く」ということについて、とても繊細な見方があるのだと、ぼくは本の語りの息づかいに耳をすませていた。
『語りきれないことー危機と痛みの哲学』のなかでも、「聴く」ことへのまなざしが生きていて、そのことの方法と困難さにふれられている。
語る声と聴く耳。
フランスの思想家ミシェル・フーコーは、「声と耳」に「権力」の構図をあきらかにしたけれど、ここでの<声と耳>は、じぶんと他者が存在を分かちあうようなものとして書かれている。
しかし、鷲田清一が書いているように、言葉が交わされる場とその関係性はとても繊細なものであり、また「分かる」ということは「他者の心持ちを知りつくせないことを思い知ること」(鷲田清一)でもあるのであろう。
はたして、他者の「語りなおし」に、この繊細さをもって寄りそうことができているだろうか。
石牟礼道子の文章と「視線」。- 見田宗介=真木悠介の思想と交響する唄。
小さい山に周りを囲まれた海が空からの光をきらめきで映し、遠くにかすれるように大海がひろがっている。
小さい山に周りを囲まれた海が空からの光をきらめきで映しかえし、その遠くにはかすれるように大海がひろがっている。
このような風景を見るとき、日本の九州の「不知火の海」が風景に重なって、ぼくには見える。
不知火海を、ぼくは実際に自分の眼で見たわけではないけれど、作家の石牟礼道子の作品にあらわれるものとして、ぼくの「眼」をつくっている。
ぼくの眼に「石牟礼道子の眼」が重ねられるのだ。
不知火の海は「水俣病」が発生したところである。
ぼくが「不知火の海」を視界に見るとき、人間社会の矛盾が凝縮されながらも、この世界の美の表出を見ているようだ。
2018年2月10日、作家の石牟礼道子は亡くなられた。
ぼくがどこでどのように石牟礼道子のことを知ったかは、よく覚えていない。
水俣病を扱った著書『苦海浄土ーわが水俣病』(講談社文庫)の書名はどこかで知っていたかもしれない。
直接的に石牟礼道子のことを知るようになったのは、社会学者の見田宗介(=真木悠介)の仕事を通じてであった。
見田宗介=真木悠介の仕事における問題意識、そして人を解き放つことの方向性をしめすものとして、石牟礼道子の存在と作品は、見田宗介=真木悠介の存在とその仕事と、深いところで交響するものである。
見田宗介=真木悠介の著作において、たとえば、次のような著作で、石牟礼道子がとりあげられる。
●『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)
●『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)
●『白いお城と花咲く野原ー現代日本の思想の全景』(1987年、朝日新聞社)
●『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
●『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
●『社会学入門』(岩波新書、2006年)
また、見田宗介は石牟礼道子の作品の「解説」や書評的なものも書いている。
●見田宗介「孤独の地層学」(『定本 見田宗介著作集Ⅱ』所収)、石牟礼道子『天の魚ー続・苦海浄土』(講談社文庫版)の「解説」
●見田宗介「石牟礼道子『流民の都』」『朝日新聞』朝刊、1973年(『定本 見田宗介著作集Ⅹ』所収)
見田宗介をはじめ、水俣の問題にかかわってきた人たちは、水俣病を「水俣の病」とするのではなく、「わたしたちの病」としてとらえている。
ひとつの社会を生きるひとびとの「人と人とのつながり方」の問題である(『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年)。
石牟礼道子が言うように、「わたしたち自身の中枢神経の病」である。
この「病」を、人はどのようにのりこえていくことができるだろうか。
「よりよく生きる」という、ぼくがじぶんに問うてきた問いは、こののりこえを考るための問いでもある。
石牟礼道子の文章について、見田宗介は次のように書いている。
石牟礼道子の文章は、失語の海の淵からのことづてのようだ。みえないものたちの影をみる視力のように、語られないものたちを語ることばをよびさます。<区切られないもの>の矛盾と多義性をじぶんの中に幾層にも響かせながら、それでも石牟礼は、あえて言い切ることもする。<おかしくならずにいられるだろうか>、こういう断念の一切を澄ませたうえで、そしてまた、人間の上を流れる時間の一切が砂に埋もれ<地質学の時間のように眺められる日>からの視線をもうひとりの自分の視線としながら、<人間はなお荘厳である>と、石牟礼は言う。海はまだ光っていると。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年
石牟礼道子の作品『椿の海の記』のふしぎな世界にひたっていると、この「海の光」が浮かび上がってくるように、見えてくる。
石牟礼道子の視線は、ぼくの視線にかさなって、生きている。
南伸坊が河合隼雄から心理療法を学ぶ(『心理療法個人授業』)。- 対話と関係から生まれる言葉と学びの深さ。
イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズ(新潮社)がある。
イラストレーターの南伸坊(みなみしんぼう)が「個人授業」で学問を学ぶ著書シリーズがある。
生物学個人授業(岡田節人)、免疫学個人授業(多田富雄)、解剖学個人授業(養老孟司)、それから心理療法個人授業(河合隼雄)がある。
河合隼雄の著作たちを読みすすめていくなかで、シリーズにおける『心理療法個人授業』(河合隼雄・南伸坊、新潮文庫)に出会った。
河合隼雄が「先生」で、南伸坊が「生徒」である。
南伸坊が、河合隼雄から「個人授業」で心理療法や臨床心理学を学び、レポートを書く。
河合隼雄がレポートに対して応答する。
第1講から第13講にわたる内容は、「専門書」ではない、対話形式から生み出される、根本的なトピックに充ちている。
以下のような「講」のタイトルを見るだけでも考えさせられる。
第1講 催眠術は不思議か?
第2講 頭の中味をを外に出す
第3講 心理学は科学か?
第4講 心理療法は大変だ
第5講 心理療法とヘンな宗教
第6講 謎の行動、謎の言葉
第7講 人間関係が問題
第8講 心理療法と恋愛
第9講 箱庭を見にいった
第10講 「物語」がミソだった
第11講 わかることわからないこと
第12講 ロールシャッハでわかること
第13講 やっとすこしわかってきたのに
河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫
心理学も心理療法も知らない南伸坊の視線・視点、南伸坊のするどいレポート、対話の中に言葉を生む河合隼雄。
「そもそも心理学とは?」ということから、講をすすめていく内に、南伸坊と河合隼雄とのあいだの関係性、また南伸坊の「気づき」が深みを増していくのを感じることができる。
人が生きていくための心理の「学」が語られている。
ぼくのフォーカスである「物語」については、講義も終わりに近づく「第10講」で、南伸坊が予感に充ちた気づきで「物語」のトピックを取り上げて、河合隼雄にぶつけている。
南伸坊は、「なるほどなァ!」とわかった気になりながら、そもそも「物語」とはなんだ、と考える。
南伸坊はそんなことを語りながら、次のようにも語る。
「人生に予め意味などない」
という意見に、私は合点していたのだったが、予めないからこそ、意味をつくろうとするのだともいえる。
なんだか、茫々としてくる思いだ。いままでこんなことを、考えたこともなかった。
河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫
生きることの「物語」を真摯に考え始めた人の言葉が、ここに興味深く湧いている。
河合隼雄は、あらためて、臨床心理学における「物語」の大切さを書いている。
…われわれ臨床心理士のところを訪れる人は、いわゆるビョーキとか異常などというのでない人(大人も子どもも)が多くなってきた。それは、南さんが詳しく書いているように、それぞれの人が自分自身の「物語」をいかように生きるか、ということを相談に来て居られる、とも言えるだろう。
河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫
両親と別れて住んでいる子供が、「お父さんは大金持だ」とか「お母さんは女優なの」と言うことに対して、これらは「虚言癖」ではなく、そのような「物語」に支えられて子供たちはなんとか生きているという、暖かい視線を投げかけることを、河合隼雄は提示している。
講義は、最後の3講で、心が「わかる」と「わからない」という二つの側面を語っている。
これら二つを、共に、謙虚にひきうけていくことの中に、河合隼雄の心理療法の本質がつめられている。
南さんの「わかる」に「わからない」を「つなげる」というのは、本当にいい言葉である。われわれ臨床心理士の仕事の本質がうまく言い表されている。…
…「わからない」と自覚する謙虚さが必要だが、これは、自信がないのとは、全く異なる。自信のないのは、はなから何もわからない人である。「わかる」に「わからない」をつなぐ人は、「わかる」自信と「わからない」謙虚を共存させている。…
すぐにわかりたい方は、こんな本など読まず、本屋に行けば、御要望に応える本は、ありすぎるほどある。…
河合隼雄・南伸坊『心理療法個人授業』新潮文庫
レポートで南伸坊も書いているように、河合隼雄の言葉を引用しようとすると、あれもこれもで、尽きることがないから、どこかで禁欲しなければならない(ぜひ購入してお読みください)。
それくらい、「本当にいい言葉」で充ちている。
それだけ、「大変な」世界をくぐりぬけてきているのだと、ぼくは感じる。
文庫版には「おまけの講義」で、ネット社会における「関係性の回復」について、河合隼雄が書いた記事が掲載されている。
ここにも、言葉の宝物が埋まっている。
別のブログで、このことについては、ふれたいと思う。
「コンステレーション」から物語へ。- 河合隼雄がユングを読み解きながら(ユングと生きながら)。
心理学者の河合隼雄は、京都大学の最終講義(河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫)で、ユングがよく使ってきた「コンステレーション」(constellation)という言葉を手がかりに、こころのこと、心理療法のこと、生きることを語っている。
🤳 by Jun Nakajima
心理学者の河合隼雄は、京都大学の最終講義(河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫)で、ユングがよく使ってきた「コンステレーション」(constellation)という言葉を手がかりに、こころのこと、心理療法のこと、生きることを語っている。
「コンステレーション」という単語は、そのものでは「星座」を意味する言葉である。
「コン」(con-)は「ともに」(with)にあたり、ステレーションの「ステラ」は「星」を意味し、「星座」という意味をもっている。
ユングがたよりにしてきた「コンステレーション」は、星座のことではなく、心の問題を扱う上で、はじめは「コンプレックスがコンステレートしている」というように使っていたという。
河合隼雄は、ユングが使ってきた「コンステーション」の使われ方と意味合いの変遷を追いながら、「コンステレーション」の言葉の重要性と可能性を聴き手に伝えている。
また、それらを語ることで、河合隼雄が辿ってきた道の「物語」を語っている。
ユングが精神医学の世界にデビューした契機は、「言語連想のテスト」とそこでの気づきであったという。
言語連想テストでは、「山」という言葉にたいして、連想する言葉をすぐに言ってもらう。
川という人もいれば、名詞ではなく、動詞で答える人もいる。
あるいは、黙ってしまう人もいる。
ユングの「気づき」は、連想において「時間がおくれる」ということにあったという。
「山」ということで連想されるのが、恐ろしいものであったりして、人によっては言葉が出てこなくなってしまう。
心の中に「かたまり」ができている。
それは、心理学で言われる「コンプレックス」ということであり、ユングは、前述のように、「コンプレックスがコンステレートしている」と表現していたようだ。
その後のユングの研究の道ゆきにおいて、1940年頃からユングは、「元型(アーキタイプ)がコンステレートしている」というような表現を多用していく。
元型(アーキタイプ)は、人間の心の深くにそのような元型があり、それがいろいろにあらわれるというように、ユングが考えようとしていたときの、キーワードである。
河合隼雄がユング研究所での資格をとった1965年。
ユングの流れをくむC.A.マイヤーの60歳の誕生日祝いに、弟子たちが論文を書いてマイヤーのお祝いをしたという。
その論文のなかに、マイヤーに関する面白い論文を、河合隼雄は見つけることになる。
…われわれが心理療法をするということは、いろんな仕事をしているんだ。時には忠告を与えるときもあるし、時には来られた人の気持ちをちゃんと、こちらがそれを反射してあげる。…けれども、マイヤーは特別なことをやっている。マイヤーは何をしているかというと、「コンステレートしている」という言葉がそこで出てくるんですね。
…クライエントが来られたら、その内容に対して何か答えを言ってあげるとか、解釈してあげるんじゃなくて、その人のセルフリアライゼーション、自己実現の過程をコンステレートするんだ、と書いてあるんですね。そして、その人が自己実現の過程をコンステレートして自己実現の道を歩む限りにおいて、その人にともについていくのだ、と書いてあるわけです。これは私にとって非常に衝撃だった。
河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫
河合隼雄に衝撃を与えた「コンステーション」は、その後も、河合隼雄の実践と研究を方向付けていく。
河合隼雄に学ぶところのひとつは、河合隼雄はユングを読み解きながら(ユングの研究と生きながら)、研究や研究成果に埋没するのではなく、現実や実際の生や状況などとの間で、きわめて冷静に物事を見て、実践につなげているところである。
安易に理論に傾倒するのではない。
地に足をつけながら、しかし空高く飛翔していくという二面性をともにひきうけているのである。
そうしてひらかれてきた実践と研究は、「物語」という軸において、河合隼雄の深い関心を呼び起こしていく。
講義のなかでも、終わり近くで、「コンステレーションと物語」ということを簡潔に語っている。
…人間の心というものは、このコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているということだと私は思います。
河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫
そうして、河合隼雄は日本の神話などへの関心を、その後の残りの生のなかで形にし、ぼくたちにとってほんとうに「大きなもの」を残してくれている。
ぼくの大きな関心のひとつも、「物語」という軸に収斂してきている。
個人が生きることにおける「物語」、家族が一緒に生きていく「物語」、チームや組織が一緒に生きる「物語」、そして社会が共につくっていく「物語」。
そこに、ぼくは、「煮詰まった時代」(養老孟司)をひらく大きな可能性を見ている。
崩れゆくものに「ざわめく未来」を見る眼。- 宇佐美圭司の「廃墟巡礼」の旅。
画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。...Read On.
画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。
アトリエでの制作から一年間解放された画家が、1998年から1999年にかけて、アジア各地や北アフリカに至るところに、文化遺産や遺跡の崩壊の場を訪れ、言葉を紡いだ。
旅の全体を貫くテーマは「崩壊と生成」。
言葉は、まさしく「生成」していくようにして、『廃墟巡礼』(平凡社新書、2000年)としてまとめられた。
廃墟の遺跡などを求め、旅を続ける。
廃墟をどのように「現在」に持ち帰れるかと問いながら、廃墟のなかに「未来」を予感する。
廃墟には崩壊と生成の振動があり、変容のなかでざわめく未来が予感される。蕾の崩壊が花の生成であり、散る花びらは種子の結実を祝福する。崩れゆくもののなかにこそ、生成するものの新たな息吹があふれ出すのだ。…
イランでは私はいくつもの「タッペ」の丘に立った。…
丘はつるりとした固い盛り土だ。しかし、それはざらざらした内部を持っている。ざらざらした内部へと想像力を向けること。
旅は、そんな「つるつるからざらざらへ」の一歩ずつの歩みだしだろう。
宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年
旅は、「ざらざら」を求めて、「ざらざら」の感触を頼りに、想像力をひろげていく。
宇佐美の身体は、タイ、ヴェトナム、インド、イラン、中国、北アフリカへと移動を続けながら、廃墟にめぐりあってゆく。
『廃墟巡礼』という本の文章や写真は、そのような経過を追っている。
文明という時間と空間を大きな視野でとらえる宇佐美の思考は、しかし、宇佐美の「創作」の過程のようにも、ぼくには聞こえてくる。
まるで、宇佐美がアトリエに立って、筆を持っているところに、ぼくがそばに立っているような感覚だ。
そのようであることで、「創造」ということの深い地層に、宇佐美圭司に導かれてゆく「旅」でもある。
この本を読んで、旅の終わりに、「崩壊と生成」から立ち上がる「未来」はこういう未来だというように、なんらかの「答え」を得るわけではない。
そうではなくて、ぼくたちは、崩壊と生成のなかに未来が立ち上がる「手がかりの見方」を得る。
「手がかりの見方」ですぐさま未来が見えるわけでもないけれど、「ざらざら」への想像力の入り口をつかむようなものだと、ぼくは思う。
別の言い方をすれば、それは崩壊から生成への「動き」をつかむようなものだ。
宇佐美圭司は、眼下の波しぶきに「静止・沈黙」を見ながら、その「運動(動き)」を、次のように記している。
…それは廃墟に液体を感受するのと同じことかもしれない。私は画家として、動かない画面に、どう動きや時間を表現しようかと試行錯誤を繰り返してきた。そんな精神の習慣が、「静」に「動」を読みとる眼や意識を付与するのかもしれない。
宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年
宇佐美圭司の旅からすでに15年以上経過したけれど、世界は引き続き「大きな移行」のなかに置かれている。
このトランジションは、「崩壊と生成」の<運動>でもある。
一言で言い換えれば、<創造>の過程である。
ぼくたちは、崩壊と生成の間隙に、どのような「ざわめく未来」を見ることがきるのか。
どのような「ざわめく未来」をひろいあげ、つくっていくことができるのか。
それは、(人類が存続する限りにおいて)終わりのない旅である。