「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(5)マオリの家族 by Jun Nakajima

1996年、ニュージーランドの北端から、
南に向かって、ぼくは歩いていく。

10月10日、いよいよ、北端を出発する。
前日にキャンプサイトで出会った日本人、
大介さんに見送られる

一歩一歩がゴールに向かっていると思うと
気持ちが高揚した。
つい、一歩一歩の歩みが早くなってしまう。

しかし、最初から、ルート探しに戸惑って
しまった。
道らしき道があるところもあれば、
また道しるべが不明確なところもある。

慣れないぼくは、間違った方向に歩んで
しまう。
最初から、1時間半も彷徨ってしまった。

ようやく、正確なルートに戻ったところで
マオリの家族に出会った。
父親と子供、そして子供の祖父の3名。
この辺りで、貝を採り、家に戻る途中だと
いう。

ぼくは、この後、90マイルビーチを下る
のだと説明する。

すると「食べ物はたくさん持っていますか?」
と言葉が返ってきた。

「一応、持ってきています。」と
ぼくは答える。

すると、貝で一杯になった袋から、
大きな貝を3つ取り出し、ぼくに差し出した
のだ。
ついでに、食べ方も教えてくれる。

彼らと別れ、Twilight Beachまで進む。
初日は、そこでテントを張った。

夕食には、頂いた貝をスープに入れて
食べた。

ニュージーランドを「歩くこと」には
一杯の物語が生まれていく。

夜中に起きたとき、夜空にひろがる星たちは
限りなくきれいであった。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(4)応援 by Jun Nakajima

1996年、ニュージーランドの北端から、
南に向かって、ぼくは歩いていく。

人が真剣に何かに挑戦しているとき、
多くの人が応援してくれる

応援は励ましの言葉であったり
時には違った形でやってくる。

ニュージーランドの北端を出発する
予定日は、10月10日としていた。
あまり意味はないけれど、日本では
体育の日。
歩くのにはよい日だと、勝手に決めた。

前日の10月9日に、北端の手前の街に
あるキャンピング・サイトで、ぼくは
一人の日本人に出会う。

こんなところで、日本人に会うとは
思ってもいない。

その日、ぼくは、彼、大介さんと
話をし、励ましをもらう。

それから、助言ももらう。

「ゆっくり行くこと」
「途中無理をせず、必要であれば
勇気ある撤退を。」

これらの助言で、気持ちの面において
余裕ができた。

翌日、10月10日、北端に向かう途中
まで、一緒に歩いてくれた。

そして、お別れは、オカリナで、
「上を向いて歩こう」をふいてくれた。
大介さんと別れ、ぼくが遠くに見えなく
なるまで、大介さんはふきつづけてくれた。

北端から、90マイルビーチに降りたち、
歩いているとき、通りかかったツアーバス。
バスが止まって、降りてきた女性は、
ぼくを気遣ってくれた

彼女は、大介さんから、ぼくのことを
聞いていたのだった。

ぼくたちは、生かされている。

励ましと、
音楽と、
気遣いと、
助言に。

ぼくたちは、生かされ、そして
生きている。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(3)励まし by Jun Nakajima

ニュージーランドの北端から、南に向かって歩く。

「90マイルビーチ」を歩きながら、ぼくは、
幾度となく、思い出すことになる。

北端から南へ歩くぼくに、本当に多くの人たちが、
激励をおくってくれたこと。

90マイルビーチを歩いているとき、
ビーチを走るツアーバスが、ぼくのところで止まった。
ツアーコンダクターと思われる女性が降りてきて
ぼくに声をかける。

ぼくがここに来る前に出会った人が、
彼女にぼくのことを伝えてくれていたのだ。

「大丈夫?」

彼女はぼくを気遣ってくれた。

そして、この辺に湧き出る水は、砂っぽいけれど
飲めることを助言してくれた。

後に、ぼくは、この湧き水に助けられることになる。

人が真剣に何かに挑戦しようとしているとき、
挑戦しているとき、
多くの人が応援してくれることを、
ぼくはしみじみと感じた。

この経験だけでも、歩くことには、意味があった。

(続く)

「Happy Chinese New Year!」の言葉 ー マレーシアにて。 by Jun Nakajima

旧正月のマレーシア。

路上でココナッツを購入する。
マレー系の家族が、作業分担してココナッツを
さばいていく。

ココナッツを選ぶ人。
硬いココナッツの殻を割る人。
割ったココナッツからジュースをとり、
中のココナッツの身を取り出す人。
そして、ビニール袋に入れ、紐で閉じる。

3つを購入。
お金を渡すと、マレー系の店員さんから
言葉が返ってくる。

「Thank you. Happy Chinese New Year!」

マレーシアは、マレー系、華人系、インド系などの
人から成る国である。

本来はマレー系の人たちにとっては自身に関係のない
旧正月。

でも、言葉を通じて、リスペクトを伝える。
心温まる瞬間である。

ココナッツを購入したときは、「お店とお客様」
という関係が影響しているかもしれない。

ただし、ここだけではない。

ショッピング・モールのエレベーターで言葉を
交わしたマレー系のグループも、
去り際に、「Happy Chinese New Year!」と
声を投げかける。

文化の壁を、さらっと、乗り越える一言である。
互いの文化をリスペクトする。
言葉の大切さが凝縮される経験であった。

「言語を学ぶこと」の「先の先」にあるもの by Jun Nakajima

英語、中国語、テトゥン語といった言語を
学んできた。そして、まだ学んでいる。

「言語を学ぶこと」で世界は拓かれてくる。

言語を学ぶことの「先」には、たくさんの
ベネフィットが待ち受けている。
旅行ができる、会話することで生活できる、
仕事を得ることができる、外国語書籍が読める、
インターネットで外国語ページが読める、
などなど。

でも、言語を学ぶことの「先の先」には、
3つのことがあるように、ぼくは思う。

  1. 人とのコミュニケーションの渇望
  2. 「世界」を拡げていくことの渇望
  3. 自分や自分の背景としての文化を知る渇望

大学時代、夏休みはバックパッカーで
アジアを一人旅した。
中国、香港、タイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー。

どこにいても、現地の言語が話せたら素晴らしい
のにな、と感じた。

ベトナムを旅立つときは、将来ベトナム語も勉強
しよう、と思った(今現在できていないけれど)。
中国語をもっと勉強しよう、と思った(今現在、
まだ流暢にはなれていないけれど)。
人とのコミュニケーションの渇望を感じた。

「世界」は言葉でできている。
「世界」の解釈は、言葉でつくられている。
だから、新しい言葉を学ぶと、「世界」は
拡がっていく。

「’世界」が拡がりながら、自分が住んでいる
「世界」と、この言語が話される「世界」とを
比べていく。
そのようにして、「自分」というもの(現象)を
取り崩し、つくりなおしていく。
「比較社会」的に、自分の住んでいる「社会」
(「世界」)を客観的に見ていく。
牢獄にいる「自分」を、解きほどいていく。

言語を学ぶことの「先の先」に、
ぼくは、これらのことを渇望してきたのだと思う。

だから、今日も、「世界」を少しでも
拡げていこう。
その意味でも、生きることは、冒険である。

テトゥン語で生きる ー 東ティモールにて。 by Jun Nakajima

東ティモールでは、テトゥン語(Tetum, Tetun)で
生きてきた。

「テトゥン語で生きる」とは、文字通り、テトゥン語が
できないと、会話ができないということ。
英語が通じない。

首都ディリであれば、英語でも生きていくことができる。
ただし、首都ディリを離れると、テトゥン語あるいは
インドネシア語(あるいはその地方の言語)ができないと
生活が困難である。

仕事場は、首都ディリとコーヒー生産地のレテフォホ。
レテフォホに行く時は当初「通訳」をお願いしていた。
ただし、毎回というわけにはいかない。
いつしか、必要性にかられ、ぼくは、テトゥン語を
覚えていった。

これまでに学んできた英語と中国語とは異なり、
最初から「話す」「聞く」から始めた。
そして、後に、文法や単語の綴りを学ぶ。
日本での言語教育と逆の方法。
文字というより音で学ぶ。日々の会話で学ぶ。

その内、日常会話はもとより、スタッフとの会議、
コーヒー生産者との会議、さらには農業省での
プレゼンテーションもテトゥン語でできるようになった。

この言語習得経験は、学ぶことが多かった。

  1. どんな言語でも学ぶことができるという感覚
  2. 「必要性」という環境設定の有効性
  3. 「音」から学ぶことの有効性

世界で約80万人が話すというテトゥン語。

「テトゥン語ができるようになったとしても
80万人しか喋れないからなあ」

当初はそう思っていた。

しかし、テトゥン語で生きていくことから多くを
学んだ。
そして、東ティモールの人たちと生きていくことが
できた。

中国語を学ぶ ー 経験から。 by Jun Nakajima

ぼくは、10代の頃、英語を学ぶことが好きであった。
英語を学んでいる間、日本にいても「今ここではない」世界に
行くことができる感覚をもつことができたからかもしれない。

英語を「武器」として、大学入試をなんとか通過した。
大学では、1990年代初頭に「中国の時代が来る」と言われて
いたことから、中国語を専攻にすることにした。

大学では、他の文系大学のように「自由きまま」にという
授業ではなく、高校の授業のように、比較的少人数での
講義が展開された。

点呼があったから授業に遅れることもできず、
また欠席が多いと大学2年から3年に上がるのが困難に
なるため、きっちりと授業に参加した。

文法のクラス、中国人の教授による会話のクラス、
中国文学のクラス、歴史のクラスなどで、忙しかった。
ただ、中国語に熱心になれず、ついていくのでやっとで
あった。

大学2年目が終わり1年大学を休学して、ニュージーランド
で過ごす。
ぼくは、そこで、読書に目覚めることになった。
ぼくは、「何か」を掴んだのだ。

大学に復帰してからは、授業に熱心になった。
中国語をさらに深めるよりは国際関係論のゼミを選択したが、
中国語のクラスには熱心に参加した。
小学館の中国語の辞書は、手垢で真っ黒になるまで
使い倒していた。
授業では漫画コボちゃんを題材に中国語翻訳をしたりもした。

大学卒業後は、中国語からは「離れる」ことになる。
「途上国の開発学」を専攻し、国際協力の道に進むことになる。
それでも、中国・中国語は、ぼくと関わっていくことになる。

国際NGOで活動していたときは、西アフリカのシエラレオネ
で、中国料理にしばしば行ったものだ。
こんなところに、中国人のコミュニティーがあることに
驚いたものだ。

東ティモールでも、インドネシア系・マレー系華人の人たち
によく会った。
そして、東ティモール後は、香港に移ることになる。

中国語が、いつのまにか、ぼくに戻ってくることになった。

今でも、日々は英語(また日本語)を主要言語として
つかっている。

ただ、これも何かの縁。中国語(普通語・広東語)を
一から学ぼうと、ぼくは、思う。

英語を習得する ー 英語圏、アフリカ、アジアで。 by Jun Nakajima

世界で生ききるために、ぼくは、英語を学んできた。

最近の日本でも、フィリピンのセブ留学などが流行って
いるようである。

ぼく自身の英語の学びは、次の方法をとってきた。

  1. 好きな分野を見つける
  2. 英語を話さないと生活できない環境で生活する
  3. 日々の生活に英語をしのばせていく

「好きな分野」とは、自分が好きな分野で、英語を
学んでいくことである。
学校で学んでいるときも、ぼくはこんな方法をとった。

・音楽が好きで、「洋楽」の歌詞で学ぶ
・英語参考書を読んでいて「格言」が好きになり学ぶ
・「シドニー・シェルダン」の小説を英語で読む
などなど。

「英語を話さないと生活できない環境」は、大学以降
に、例えば、こんな環境に自分を置いた。

・アジアへのバックパック旅行
・ワーキングホリデーでニュージーランド(NZ)で生活
・NZの住まいは、他のニュージーランド人6名と共住
・NZでは、日本食レストランで勤務し、英語で仕事
・NZでは、短期間、ファーム(農場)ステイ
・NZでは、一人旅(キャンプ、トレッキングなど)
・西アフリカのシエラレオネで仕事。仕事は英語
・東ティモールでの仕事。一部は英語
・香港での仕事。仕事場は英語
・マレーシアで生活
などなど。

英語圏、アフリカ、アジアで、英語に浸かってきた。

「日々の生活に英語」では、今もこんな風に生活
している。

・iPhoneの言語設定は英語
・Mac Book Airの言語設定は英語
・アマゾンKindleで英語書籍を毎日読む
・Podcastで英語でトピックを学ぶ
・Audio Bookで英語でトピックを学ぶ
・ニュースは英語(BBC, CNNなど)で得る
・雑誌も英語のもの(Time誌など)を購読
・映画は英語で楽しむ
などなど。

英語「を」学ぶ、というより、英語「で」学ぶ、
ということである。

英語は、ぼくの世界を拓いてくれた。
英語圏で、アフリカで、そしてアジアで。

英語を学びはじめて、すでに30年が経過した。
まだ、日々、学びの連続である。

100年時代の生き方:書籍「ライフ・シフト」 by Jun Nakajima

これからの時代を生きていく上での「必読書」の
一つとしては、下記を挙げておきたい。

『The 100-Year Life: Living and Working
in an Age of Longevity』
By Lynda Gratton & Andrew Scott

日本語訳『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)』

日本でもベストセラーとなっている書籍。

自分が100歳まで生きるとしたら?

という地点から、自分の人生を見直していく。

本書は豊富な統計データやシミュレーションも
提示しながら、100年時代の人生を展開している。

この本を読みながら、「人生80年」という錯覚を
自分がなんとなくもっていたことに気づく。
ぼくは一生涯働き続けるつもりだけれど、
人生80年と人生100年では、やはり戦略が
異なってくる。

「定年」ということで考えるべきことも、
様々に変わってくる。

ぼくが住んでいる香港でも「定年」は
大きなトピックだ。

香港では雇用関連法では「定年年齢」は
定められていない。
会社が任意で決めていくことができる。
あるいは、決めないでおくこともできる。
その中で、60歳なのか、65歳なのか、
などの議論が起きてくる。

しかし、「人生100年」の視点からは、
この議論は色褪せてくる。
当面は、現状に対処するため、定年と
それにまつわる施策は必要だけれども、
同時に、「人生100年」から考える
制度や施策も議論していく必要がある。

人生100年。

人生80年視点では人生の後半戦のぼくは
人生100年視点ではまだ前半戦。

後半戦に向かうまでの10年で、
ぼくは後半戦を楽しむ戦略と土台を
打ち建てる。

「手を振る女性」が伝えたかったこと ー 東ティモール騒乱から。 by Jun Nakajima

2006年のある日の午後、ぼくは、ディリにある
事務所から車で5分程離れたところにある住居へと
急いでいた。

スタッフが運転する車両の助手席に座り、
誰もいない通りを見ながら、状況を分析していた。
首都ディリの治安が悪くなってきている状況である。

通りには誰もいない。車両もまったく見られない。
静けさが漂い、ぼくたちの車両の音だけが響く。

ディリの繁華街の入り口にさしかかったところで、
ぼくたちは、通りで女性二人が手を振っていることに
気づいた。
どうやら、ぼくたちに向かって、手に振っている。

ぼくたちは、仕事に関係のない人たちは
車両に載せないことになっている。
だから、「何だろう」と思いながらも、先を
急ぐことにする。

そこの交差点を左に曲がれば、すぐに住まいに
到着するが、一方通行であるため、迂回しなければ
ならない。

車両は迂回して、先ほどの地点からすぐのところにある
住まいのコンパウンド前で止まる。

ぼくは車両の後部座席から荷物を取り出し、
スタッフに気をつけるように言葉を残して、
コンパウンド内に入る。

コンパウンド内に入った途端に、後ろで銃声が鳴り響く。
一発の銃声ではなく、連続的な銃声である。

住まいに入ると、テレビでは、BBCが
首都ディリの緊急事態を報道している。
目の前の通りでの銃撃戦のことを報道している。

スタッフは大丈夫だろうか、と心配になる。
車両だから、走り抜けてくれているだろう。

「手を振る女性たち」は大丈夫だろうか。
何が起こっているかの状況もわからず
助けの手を差し伸べることもできなかった。

その後、幸いにも、「一般人」が死亡したケースは
報道されなかった。
でも、時に、ぼくは、手を振る女性たちが
差し向けた「眼」を思い出す。

そして、その「眼」は、東ティモールを超えて、
紛争地域などで助けを求める人たちの眼に重なって
ぼくには見えるのだ。

世界の各地で、人々は、手を振っている。

緊急事態の「全体像」は後にならないとわからない ー 東ティモール騒乱から by Jun Nakajima

緊急事態が起きたときの行動は、
その緊急事態の「中」にいるときには
わからない。

後になって、緊急事態が収まり、
振り返るときになって、ようやく「全体像」が
見える。

「全体像」が見えないからこそ、
その場でどのように対処したらよいか、
どのように対応したらよいか、
の判断は非常に難しい。

「2006年の東ティモール騒乱のとき・・・」
という話をする際、
ぼくは、すでに「振り返る視点」で
その状況を語っている。
全体像を前提にしながら、語っている。

しかし、まさに「そのとき」は、
「東ティモール騒乱」などの「名前」が
つけられる前の状況に置かれていたわけだ。

だから、「そのとき」に対応する際に
大切なことは次のことである。

① 「パニック」にならないこと
② 身の安全を確保すること
③ 可能な限り状況を把握・分析し判断すること

これらのために、日頃から、情報を収集し、
可能な限りでシミュレーションをしておくことが
大切である。

今の時代、誰が、どこで、どんな事態に
遭遇するかは、わからない。

「世界で生ききる」ために、
ぼくたちは、「安全」を「当たり前」とせずに、
準備して、いつでも「起動」できる状態にして
おきたい。

東ティモール騒乱 ー 東京での一本の電話 by Jun Nakajima

2006年、東ティモール騒乱。
独立後平和を取り戻していた東ティモールの街に
また銃声が響く。

ハンドルを失った東ティモール政府は、オーストラリア
政府など、他国に支援を要請。
同日には、他国の軍隊が上陸する。
翌日には、ぼくたちは、インドネシアのジャカルタに
退避。それから、東京に戻ってくる。

他国の軍隊が首都ディリに入ったものの、
情勢は即座にはよくならない。

首都ディリに戻りたい一心のぼくは、
関連機関から許可がおりず、日本で待機する。

夕方、仕事場から家に電車で帰宅途中のぼくに、
一本の電話が入ってきた。
国外からの電話で、緊急事態と思い、
ぼくは、静かな電車の中で、携帯電話に出る。
やはり、東ティモールのスタッフからだった。

「事務所が危ないんです。事務所の備品を退避
させますが、よいですか?」

緊迫した声だった。
首都ディリの事務所の周辺が不安定性を増していた。
事務所の警備員と事務所周辺のコミュニティが、
事務所を守ってくれている。

携帯電話が使えない日本の電車だったが、
ぼくは、静かに、話す。
ぼくは、次の停車駅である板橋駅を待って、
そこで下車することにした。

事情を聞き、ぼくは「ゴー・サイン」を出し
安全第一を伝えて電話を切る。

電話を切ると、板橋駅のプラットフォームの
静けさに包まれる。

東ティモールの首都ディリと東京。
ぼくは、その「間」で、不思議な感覚に捉えられる。

そして、ぼくは思いを、ディリに戻る日に向けて
投げかける。

旅行で日本を訪問した人たちから。ー「道案内」という光 by Jun Nakajima

日本に旅行で訪れた人たちと話す。
日本での経験談を聞く。

しばしば耳にするのは、この二つである。

①日本は(道など)「きれい」である。
②日本人は「親切」である。

日本人は親切である、ということの経験は、
「道案内」を受ける経験からだ。

道に迷う外国の人たちが、道を尋ねる。
そうすると、丁寧に道案内を受ける。
時には、夜遅いからと車でおくってくれるなどの
経験をする。
遠くまで、一緒に歩いて、教えてくれる。

このような経験が、日本・日本人の印象をつくる。
これは、ぼくたちが想像する以上に、深い印象を残す。

「道案内」ということが、道に迷う人たちに
「光」を与える。

迷っているという暗闇への光。

「日本人」というイメージへの光。

そして、人間性への光。

この小さなことの積み重ねが世界をつくる。

ニュージーランドで「本」に開かれる by Jun Nakajima

ワーキングホリデー制度を利用して
ニュージーランドに滞在していたときは、
ぼくはオークランドの日本食レストランで働いていた。

休日は、オークランドの散策。
その一つに「オークランドの図書館」があった。

ニュージーランドに来る前まで、ぼくは、普段
本を読んではいなかった。
大学の授業で指定された本を読んだりすることは
あっても、進んで本を読んだりはしない。

そんなぼくが、ニュージーランドの図書館を訪れ、
本棚を眺め、本を手に取る。
英語を学ぶ機会とすることもあったのだけれど、
それ以上に、ぼくは、学びたくなったのだ。

手に取った本のなかには、「国際関係論」があった。
学術的な本である。

その後、オークランドの古本屋に行っては、
「The Twenty Years’ Crisis」(E.H. Carr) などの
国際関係論の本を購入したりした。
(大学休学を終え、大学に復帰したとき、
ぼくは、アメリカ人の教授による「国際関係論」の
ゼミに参加することになる。)

ニュージーランドから東京に戻り、
大学に戻っていくなかで、
いつのまにか、「本」が日常の生活になくては
ならないものになっていった。

読めば読むほど、次の本が読みたくなる。
ジャンルを問わず、興味のむくままに、読む。

ニュージーランドの図書館で、
ぼくは、何を通過したのだろうか。
ぼくは、何を得たのだろうか、
あるいは、何を失ったのだろう。

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(2)90マイルビーチ by Jun Nakajima

なにはともあれ、1996年、ぼくは、ニュージーランドで
徒歩縦断を目指して、歩くことにした。

オークランドを出て北端に向かう。
北端に行くことから、すでに困難の連続であった。

また、北端といっても、北端周辺に何かがあるわけでもなく、
ぼくは道らしき道のない田舎道を歩いて、北上することになる。

「歩くこと」は、ただ歩くのではないという事実も、
身にしみて知ることになる。
背中には18キロ程の荷物を背負うのだ。
この重さには、さすがに、まいってしまった。

さて、北端のポイント、レインガ岬に到着する。
そこから、ぼくは、海沿いのルートを選択。
90マイルビーチ」と呼ばれ、海岸線が延々と続くルートである。
誰もいないビーチで、海の光景も絶景である。

しかし、背中の荷物が、ぼくにのしかかり、途中からは
自分との闘いになってしまう。
ビーチを堪能する余裕はなくなってしまう。

特に、水が重い。
ビーチのどこにも、水道はない。
だから、節約しながら、ぼくは水を飲む。

歩いても歩いてもビーチが続く。

夜はビーチから内陸に入る境界線あたりでテントを張る。
ここなら、波はやってこないことを確認する。

内陸から水がちょろちょろと流れ出ている箇所を見つけ、
ぼくは、安堵と共に、その水を採取して夕御飯をつくる。

また、明日も、ビーチを延々と歩くのだ。
まずは休養をきっちりと取っておこう。
ぼくは、海岸線に鳴り響く波の音を耳にしながら、
眠りにおちる。

(続く)

「歩くこと」ー ニュージーランドで歩く(1)目標 by Jun Nakajima

1996年、ぼくは、大学2年を終えたところで1年間休学し、
「ワーキングホリデー」に出ることにした。

当時、日本がワーキングホリデー制度を締結していた国は、
オーストラリア、カナダ、ニュージーランドであった。

ワーキングホリデー制度の「王道」であったオーストラリアに
行きたかったのだけれども、人数制限のため、申請ができなかった。
第二候補のカナダも、申請時期か何かの問題で申請ができない。
残るは、ニュージーランドということで、アルバイトで貯めた
50万円程を手に、ニュージーランドに行くことになった。

ニュージーランド滞在中、ひとつの「目標」を定める。

・ニュージーランドを「徒歩で縦断」すること

当時、ワーキングホリデー中に、自転車などを利用して
国を一周したり縦断したりということが、「やること」の
ひとつとして一部に定着していた。

ぼくは、そこで、自転車ではなく「徒歩」に決める。
大学1年から2年にかけて東京でやっていたアルバイトで、
ウェイターとしては毎日とことん歩いていたからである。

到着して半年ほどは、オークランドの日本食レストランで
働きながら、生活を楽しむと共に、「準備」を進める。

アウトドアショップに行き、靴・上着・テント・簡易ガスなど
を購入する。地図も手に入れる。

そして、一軒家に同居していたフラットメートたちに見送られて
ぼくは、「徒歩縦断」の旅に出る。
ルートはニュージーランドの北端から南端を目指すことにした。
北端の方が、住んでいたオークランド(北島に所在)から
近いこと、また南島はまだ冬が明ける時期で寒いことが
理由であった。

当時も、今も、なぜこんなことしたのかはよくわからない。
でも、ぼくは、とにかく、歩くことにしたのだ。

(続く)

最初の「扉」となった書籍 - "The Success Principles" by Jun Nakajima

自己成長・自己啓発関連の書籍の中で、最初の「扉」となった書籍は
Jack Canfield “The Success Principles”であった。

2007年初頭、休暇を過ごすために東ティモールから来ていた
香港の書店で、ぼくは、たまたま、この書籍を手にする。

ずっしりと厚さと重みのある書籍である。
「成功原則」が67項目にわたり書かれた書籍で、600頁以上もある。
(日本語翻訳版は、項目を絞って出版されている。
読みやすい英語であるから、ぜひ英語でも読んでほしい著作である。)

600頁以上もあるけれど、休暇中のぼくは、シドニーシェルダンの
小説を読むがごとく、時間も忘れてのめりこんでしまった。

「成功原則」は、できるものから、すぐに実行に移した。
東ティモールに戻ってからも、実際にワークショップで使ってみた。

ぼくにとっては、すぐに「結果」が伴うものではなかったけれど、
今の時点から見ると、いろいろな仕方で「結果」が出てきている。

また、書籍は、様々なトレーナーやスピーカーや著者などの情報に
充ちていて、ぼくは、この書籍を「基地」として、様々に探求して
いくことになったのだ。

書籍は、このような「基地」があると、その拡がりをみせていく。
そのような書籍に出会えたことは、奇跡である。

「旧正月」を生きる by Jun Nakajima

香港や中国、その他中華圏では、毎年1月あるいは2月には、旧正月を迎える。
旧暦による正月で、時期は毎年変わる。
2017年は1月28日が旧正月にあたる。

海外に出て、旧正月が生活や仕事の中に入り込んできたのは、
東ティモールでのことであった。

東ティモールでは、中国系インドネシア人がビジネスを展開していた。
例えば、建設用の資材などを扱う店などである。
ぼくたちも、プロジェクト用の資材を調達する必要があり、
しばしば店に足を運んだ。
ただし、旧正月前後は、資材の入荷がストップした。
店の「ボス」である中国系インドネシア人も、休暇を過ごすため
国外に出てしまい、交渉ごとなどが滞ってしまう。

だから、旧正月を見越し、プランを立てる必要があった。
2007年に香港に移住してからは、旧正月は完全に生活の一部となった。
香港では、旧正月に始まる3日間は、法定の休日である。

今でも、香港の方や華人の方から、聞かれる。

「日本は、旧正月は祝うのですか?」

「日本は旧正月は祝いません。1月1日です」と回答をしながら、
時折、ぼくは考え込んでしまう。
日本も明治維新の前は旧正月を祝っていたという。
旧正月を祝っていた日本人は、どのような感覚を持っていたのだろう。

旧正月を祝うことには、すっかり慣れてしまった。
旧正月が明けると、新年が完全に明けたことを感じる。

春の訪れを微かに感じながら、自分の1年プランをレビューし、
ぼくは1年の一歩を進む。

紛争とクラシック音楽 by Jun Nakajima

最近はクラシック音楽を聴くようになった。
香港で、クラシック音楽を聴く。
香港には、世界から一流の奏者がやってくる。
規模が小さい香港だけれど、これはよいところだ。
Lang Lang以外であれば、チケットも比較的容易に手にはいる。

それにしても、ぼくにとってのクラシック音楽は、小学生から
10代にかけて退屈極まりない音楽であった。
だから、ぼくは、ロックやパンクロックにはまっていく。
10代は、そのような音楽のバンド活動に熱中していったのだ。

時を経て、ぼくは、海外ではたらくようになる。
最初の赴任地は、西アフリカのシエラレオネ。
赴任した当初2002年は、紛争終結後間もない時期である。
国連が組織する平和維持軍が駐屯する国であった。

シエラレオネでは、紛争の傷跡を見て、心身の深い痛みを
負う人たちと接触し、暮らし、仕事をしていく。
そのような生活をおくっていくなかで、いつからか、ぼくは
クラシック音楽を聴くようになっていた。

そもそも、クラシック音楽が生まれた時代は、
戦争や紛争が絶えない時代でもあった。
クラシック音楽の美しい調べには、痛みや悲しみが
埋め込まれているのだ。

クラシック音楽を聴きながら、ぼくは、音楽がつくられた時代の
人たちのことを思う。
そして、この現代において戦争や紛争に翻弄されてきた人たちの
痛みや悲しみを感じ、祈りと微かに光る希望を抱く。

「偏見」からの出口 by Jun Nakajima

「〇〇人」とか、「貧困」とか、人は「カテゴリー」を使いながら生きている。

でも、それらカテゴリーには、時代の「偏見」や世間の「偏見」が染みついている。
メディアの情報や他人が口にしていた情報が積もる。
それら「偏見」は、想像の中で肥大する。
肥大した「偏見」は、いつしか「偏見」の衣をぬぎさる。
「当然のこと」として、ぼくたちの思考に住みつくのだ。

「偏見」からの出口のひとつは、「固有名詞」との出会いだ。
「〇〇人」であれば、「〇〇人である」人と直接に出会っていくこと。
一緒に話をしたり、行動を共にしていくことである。

東ティモールにいるとき、ぼくは、「ポルトガル人」に対して「偏見」的なものを抱いていた(東ティモールは、昔はポルトガル領であった)。

でも、あるとき、実際に「ポルトガル人」の方と共に休日を過ごすことがあった。
その際に、ポルトガル人の「カテゴリー」が消えていく感覚をぼくはもった。
カテゴリーではなく、個人になったのだ。

「カテゴリー」は、生きていく上で有用である。
「考える」ことは、「物事を分ける」ことである。
カテゴリー化することである。
そのことで、人類が得たものは、はてしなく大きい。
他方で、失ってきたもの、弊害をもってきたものも大きい。

だから、「偏見」からの出口は、「固有名詞」との出会いである。
そして、他者からは、ぼくも「固有名詞」である。
ぼくが、他者の偏見に対して「出口を照らすこと」もできる。

「世界を生ききる」上で、大切なスタンスである。