<生きることのリアリティ>について。- 海外を旅し、海外で暮らしながら、思い、考えること。
日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。
日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。
海外ですごす時間が徐々に長くなってきたころ(それがいつだったか正確には思い出せないけれど)、「海外」で暮らす時間が、人生のうちの「半分」を超えると、どんな「感覚」を覚え、どんなことを考え、どんなふうにじぶんをかえてゆくことができるのだろうかと、思ったことがあった。
今は、その「地点」にさしかかったところである。でも、じっさいにその「地点」に近づいていくと、そんなことはあまり考えなくなった。それでも、ときおり、日本で暮らした時間と海外で暮らした時間を数えて、比べてみることがあるのである。
なにはともあれ、人生の5分の2以上を海外で暮らしてきたところで、「海外で暮らす」ことによってより鮮明に記憶にやきつけられたことについて、ブログ(「人生の5分の2以上を「海外」で暮らしてきて感覚すること。- 身体にきざまれる<日常の風景>。」)を書いた。
ブログのタイトルに書いたように、より鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>が、ときおり、ぼくのなかで<再生>されるのである。まるで、「今、現在」、その日常をこの眼で見ているかのように、である。
このことはぼくにとってとても大切なことなのだけれど、<日常の風景>は、「知識」としてではなく、身体的な記憶として、ぼくにリアリティを与えてくれる。動画や記事などで「知る」のではなく、この身体にきざまれるように、<リアリティの感覚>が生きている。
海外で暮らすようになるまえ、ぼくは、アジアを旅していた。
「旅」で獲得したものは、ありきたりの言葉かもしれないけれど、<生きることのリアリティ>ともよぶべき感覚であった。そのことは、旅をしている最中も感じるところであったけれど、旅のあとにふりかえりながら、より明確にことばにすることができたことでもあった。
「海外に暮らす」ことにおいても、いくぶん異なる仕方で、まただいぶ時間が経過してゆくなかにおいて、これまで暮らしてきた場所の<日常の風景>が、ぼくに「リアリティ」の感覚を与えてくれていることに、ぼくは気づいたのである。
それは、ぼくに、見田宗介(社会学者)の「生きるリアリティの崩壊と再生」にかんする見解を思い起こさせる。
見田宗介は、講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」(2010年8月、福岡ユネスコ協会)で、次のように語っている。
…ボランティアに限らなくてもいいですけれども、実際に自分が役に立つようなことならばやりたいと思っている青年と、リストカットをする、あるいは無差別殺人をする青年というのは同じものを求めているわけです。つまり、それは生きることのリアリティを求めている。そこが大事だと思います。今の日本の若い人たちはいわば同じものを求めているわけですが、求め方が違っているのです。日本の若い人たちが自分の体を傷つける、あるいは人を傷つける、あるいは人を殺そうとする、そういうものとは違った仕方で、生きるリアリティを求める方法を見つけ出すことができれば、そこでもう一つ新しい時代が開けてくる可能性があるだろうと、そういうふうに思うわけです。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』(弦書房、2012年)
「生きることのリアリティ」。
そう書くのはむずかしくないけれど、それは、頭で「知る」ことでなく、全身で生きてゆくなかで<知られていく>ことである。
それなりの時間を海外で暮らしてきたなかで、そんなことを、ぼくは思い、考えている。
<関係のゆたかさ>の内実。- ニュージーランドのニュースを見ながら思うこと。
20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
まだ冬がようやく明けたころであった。北島とはまったく異なる風景に、ぼくは魅了された。
南島で行ってみたいところはいくつかあり、そのうちのひとつが、クライストチャーチであった。でも、ニュージーランドの自然にすっかりはまってしまっていたぼくは、クライストチャーチにはそれほど滞在はしなかったのだけれど、数日滞在したバックパッカー向けの宿の空気感が、ぼくの記憶の片隅に、いまもただよっている。
そんなクライストチャーチでの悲しいニュースを見ながら、そんなニュージーランドの記憶がわきあがってくる。
大学を休学して住んだニュージーランド、それから夏休みを利用して旅したアジアなどの経験を重ねながら、その「道ゆき」で、ぼくは、社会学者の真木悠介(見田宗介)の本に出会った。ニュージーランドやアジアでの経験の素地がぼくのなかになかったら、ぼくは真木悠介の本に出会うことはなかったかもしれない。出会っていても、ぼくは読み流してしまったかもしれない。
それほどに、ニュージーランドやアジアでの経験は、ぼくにとって決定的であった。
クライストチャーチのニュースを見ながら、ニュージーランドの記憶とともに、ぼくの脳裡にうかんできたのは、真木悠介の「言葉」であった。
「旅」ということが、真木悠介にとっても転機となる経験であったが、真木悠介は『旅のノートから』という著書で、つぎのように、言葉をつむいでいる。
…関係のゆたかさが生のゆたかさの内実をなすというのは、他者が彼とか彼女として経験されたり、<汝>として出会われたりすることとともに、さらにいっそう根本的には、他者が私の視覚であり、私の感受と必要と欲望の奥行きを形成するからである。他者は三人称であり、二人称であり、そして一人称である。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
<横にいる他者>という他者論である。「他者」というと、たとえば<向かい合う他者>というように捉えられる傾向にたいして、真木悠介は<横にいる他者>という視点、そして、「三人称であり、二人称であり、そして一人称」である<他者>について書いている。
世界がもっとひらかれ、世界の多様性を享受してゆくには、この<横にいる他者>という視点、そしてそのような生きかたによってくるのではないか。ぼくは、そんなふうに考えている。
ニュージーランドでの暮らしと旅は、このことを切実に感じるための経験の土台を、ぼくに与えてくれたのである。クライストチャーチのニュースを見ながら、ぼくはそんなことを思う。
ツールの「メンテナンス」の大切さについて学んだこと。- シエラレオネで、東ティモールで。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
シエラレオネの電気も水道もない山奥、東ティモールの山間部にひろがるコーヒー農園など、そのような道があってないようなところを走る車両には、とても負荷がかかる。山奥ではなくても、交通機関どころか、交通網も整備されていないから、車両(さらにはロジスティクス)はプロジェクトをすすめるうえでのコアになる。
人の命も、仕事も、車両にかかってくるところがあり、ドライバーの方々は、車両のメンテナンスにいつも熱心である。朝早くから、車両のエンジン掛けから点検にいたるまで、ほんとうに余念がない。
そんな「姿」を鏡にして、ぼくは、じぶんの「姿勢」を見つめていた。
ドライバーの方にとっての「車両」は、ぼくにとっての「コンピューター」ということもできる。
もちろん、ぼくは、コンピューターだけで仕事をしていたわけではない。プロジェクトの「現場」、具体的には、難民キャンプや村々、コーヒー農園などの現場での仕事は、ぼく自身、つまり人間が問われるところだ。
だから、ぼくは「人間全体」が問われるところに、押しだされたのである。それはとてもチャレンジングであったし、ぼくも全身全霊で取り組んだ。
そんな「現場」にありながら、プロジェクトの運営や組織マネジメント、対外関係などにおいて、仕事のツールはやはり「コンピューター」であった。それは、ぼく自身の「拡張器官」であるとも言える。
けれども、都会のオフィスにあるコンピューターと異なり、プロジェクトの現場、それも電気や通信が整っていない現場でのコンピューター仕事である。そんな事情もあって、先進産業社会における都市で仕事をするのとは異なる諸々の注意点を含め、いろいろと気をつかうところであった。
いろいろと気をつかってはいたのだけれど、それでも、ぼくはほんとうにコンピューターをメンテナンスできているだろうか、また、ぼくの仕事を最善の仕方ですすめてゆくツールとなるようにケアできているだろうか、と、ドライバーの方々の車両メンテナンスにいつも横で接しながら、じぶんを振り返っていた。
それから、どれくらいケアできてきたか、どれくらいケアできているか。香港に移住してから、じぶん自身のコンピューターを含めて、どれくらいケアできてきたか。自信があるわけではない。忙しさを理由に、あとまわしにしてきたところもある。
でも、ときに、ドライバーの方々の「姿」がぼくの意識に、ふと思い起こされる。そんな「姿」が、メンテナンスの大切さを、ぼくのなかに呼び起こしてくれるのである。
「片づけ」を「済ましてしまう」のはもったいない。- 片づけの「プロセス」を大切にする。
家の「片づけ」をする。ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
家の「片づけ」をする。
ここでは、片づけのうち、部屋に散らかったものを元の場所にもどす「整頓」ではなく、必要ではないものや歓びではないものを「整理」していくこと、つまり「捨てること」について書いている。
タイトルに書いたように、「片づけ」を「済ましてしまう」という仕方はもったいない、と、ぼくは思う。
片づけは、ともすると、「さっさと済ましてしまうもの」と思われがちである。ほかにやることがいっぱいで、「さっさと済ましてしまう」ことができるのであれば、それに越したことがない、というのも、それはそれでひとつの見方でありあり方である。
けれども、たとえば、じぶんや人生を変えてゆこうとするとき、あるいはそのように意識はしていなくてもそのように心の奥のほうで望んでいるとき、「片づけ」を「済ましてしまう」のは、もったいないと思う。
片づけの「プロセス」そのものに、じぶんや人生を変えてゆくことの気づきやヒントなどが、いっぱいに、いっぱいにつまっているからだ。
片づけを「済ましてしまう」という仕方は、その言葉が語るように、片づけを完了した状態にプライオリティをおき、片づけの「プロセス」そのものを脱色してしまう。「プロセス」は、なるべく効率的なほうがいいとされる。
「プロセス」の効率性には、片づけそのものの効率性だけでなく、他の「ながら」行動を重ねることで時間の効率性を上げることも考慮されたりする。ぼくも以前はよくやっていたように、オーディオブックを聴きながら、片づけをすることで、一定の時間を二重に有効に使うことができる。
オーディオブックを聴きながらの片づけ自体が「悪い」と書いているわけではない。それがじぶんにとって「適切」なときもある。
そうではなく、片づけをしながら、「片づけ」を通して、オーディオブックを聴くのではなく、「じぶんの内面に耳をかたむける」ことで、じぶんや人生を変えてゆくときの気づきやヒントなどの「氷山の一角」にふれることができることを、体験として知っておきたい。
とかく、人は、「片づけを済ます」というように考えがちだからであり、また、「じぶん」と向きあうことをあらゆる手段・方法で避けようとするからである。
「片づけ」は、そのあり方によって、「片づけを済ます」片づけにもなるし、じぶんや人生を変えてゆく「プロセス」としての片づけとすることもできる。
ぼくは、この「プロセス」を、なるべく一歩一歩、たしかめながら、踏みしめているところである。
「学ぶ」を、ひろいひろい空間に解き放つこと。- 「学ぶ」にぬりこめられた時代の精神。
「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
「学ぶ」という言葉を目にしたり、「学ぶ」という言葉の響きを耳にしたとき、どのような気持ちをいだきますか?
人は、生きてゆくなかで、言葉に、じぶん自身の経験や社会的な意味合いをぬりこんでゆくのだということを思います。もちろん、「学ぶ」という言葉も例外ではありません。
じぶん自身の経験、それはたとえば両親や先生などの他者とともにつくってゆく経験でもありますが、「学ぶ」ということは、「じぶん」がつくられる段階からの経験であるため、じぶんが生きてきた環境やともに過ごしてきた人たちの影響を受けるものでもあります。
「学ぶ」ということをじぶんなりに定義する(できる)以前に、あるいはそもそも「学ぶ」という言葉以前に、「学ぶ」ということを経験として生きてきたわけです。
「じぶん」をつくってゆく段階で、「学ぶ」ということのあり方に疑問をもちながら、じぶんなりの「学ぶ」ということを考えてゆくこともできますが、じぶんの奥深くにまでしみこんだ経験のためか、また社会的な(周りの)影響からか、あまり考えずに大人になって、そのまま生きてきてしまうということもあります。
ぼくの経験としては、「学ぶ」ということのあり方にたいする疑問がどんどんどんどん大きくなっていったことから、その居心地の悪さが原動力になる仕方で、居心地の悪さをのりこえたくてもがいているうちに、いつしか、より広い海に出ていたというところだと思っています。
「学ぶ」は、ぼくの経験のうちに、試験やよい大学に入るためといった「何かのため」、それからそれをもっと時間的にひろげた「将来のため」、ということが、幾重にも幾重にも、ぬりこめられていたのでした。
ぼくの心身は、そんな「学ぶ」に、疑問を感じつづけてきたのです。
大学に入ってしばらくして、ぼくは、経済学者であった内田義彦(1913年~1989年)の本に出会います。岩波新書に収められている本で、たしか『読書と社会科学』という本だったと思います。
本を読むことで、社会をよみとく「眼」をつくってゆくこと。このことは、本を読み、学ぶことは「社会をよみとくため」ということでもあるのだけれど、それ以上に、ぼくは「学ぶ」こと自体の<楽しさ>をそこに見つけたのだと思います。
「~のため」ということと共に、それ自体で楽しいこと。つまり、「学ぶ」は手段的であるとと共に、あるいはそれ以上に、それ自体が、人が生きるということの本質なのだということ。
<学ぶ>ということは、「~のため」という理由が目的を必要としないままに、ほんとうは、学ぶことそのもののうちに歓びがあるということを、そのとき、ぼくは実感として、また意識的にわかりはじめたのだと思います。
「学ぶ」という言葉にどこか重い響きを聞きとってしまうのは、ひとつには、そこに「~のため」という功利的な考え方と経験があまりにも深く深くぬりこめられているからであると、ぼくは思っています。
「~のため」ということがいけないわけではありません。問題なのは、「学ぶ」を「~のため」へと、あまりにも狭めてしまっていること。だから、「学ぶ」を、もっともっとひろい空間に解き放ってゆくことが必要だということです。
でも、だからといって、「学ぶを楽しむべき」とやってしまうのはちがいます。楽しさや歓びは、強引に外側からつくるものではなく、内側からひらかれてゆくものです。
学ぶことを楽しむこと、そして学ぶことで成長すること。「~のため」という理由や目的の手前のところで、学ぶことや成長すること自体が歓びであること。
それは、どんな人にも、その生きることの核心に装填されている欲望である。そして、そのように解き放たれた「学ぶ」や「成長」ということが、これからの時代をひらいてゆく。ぼくはそう思います。
1995年、香港で撮影した写真を見て。- あのときの心象風景を感覚しながら。
先日、写真の整理整頓をしているときに、どこかにまぎれて所在がわからなくなっていた写真が出てきた。
先日、写真の整理整頓をしているときに、どこかにまぎれて所在がわからなくなっていた写真が出てきた。
「夜のマクドナルド」の写真。1995年、香港で撮影した写真である。
1995年、ぼくは大学の夏休みに、香港にいた。
成田空港からユナイテッド航空で香港に飛び、そこから中国の広州に行き、そこからベトナムに飛んだ。2週間ほどの一人旅で、ベトナムからふたたび広州、そして香港に戻る、というルートであった。
「夜のマクドナルド」の写真は、この旅の、初日の夜に撮影したものだ。
「撮影した」と言っても、当時はデジタルカメラなどはなく、使い捨てカメラを片手に撮影したもので、またじっさいの風景をきりとるというよりも、じぶんの心象風景をきりとろうとしたものであった。
初めての飛行機での旅は、この1995年の香港であった。
夜遅くに、以前の国際空港であった啓徳空港に到着したぼくは、バックパッカーたちが泊まる「重慶大厦」を目指し、あまりよくわからないままに、バスに乗車した。数人のバックパッカーたちが乗車するバスに乗り、彼(女)らが降りるところで、ぼくも降りた。
今であれば、行き先や行き方を適切に知ろうとするだろうし、あるいは声をかけていろいろと聞いたりするだろう。でも、そのときのぼくは、そのように振る舞うことをしなかったし(できなかったし)、なんとなく、ひとりで、じぶんのアンテナのゆくままに行ってみたかったのかもしれない。
そんなわけで、数人のバックパッカーたちが降りる場所で、ぼくもバスを降りて、夏の蒸し暑い香港の街のなか、「重慶大厦」を探すために歩くことにした。
しかし、一向に見つからず、時間だけが過ぎてゆき、時刻は夜中の12時を回っていた。途方に暮れながらも、ぼくは「対策」を練ることにし、そのとき、ぼくは、マクドナルドを見つけたのであった。
普段、東京ではマクドナルドはほとんど行かなかったのだけれど、香港のマクドナルドを見つけ、「知っている場」としての安心感を得ることができた。今ではなんでもないことのように思ってしまう出来事も、そのときは、ほんとうに安堵したことを感覚として覚えている。そして、そこで場所の目処をつけ、ぼくはふたたび、夜中の香港の街にくりだしてゆく「力」を得たのであった。
こうして内からわきあがる「力」を得て、マクドナルドをあとにし、その「心象風景」を写そうと、ぼくは、「夜のマクドナルド」にカメラを向けたのである。
「夜のマクドナルド」の写真は、そんな写真である。
なお、その夜は、そのあと、ほんとうに不思議な力にみちびかれてゆくように、ぼくは「重慶大厦」にたどりつき、そのなかの宿のひとつに、泊まることができた。
1995年から12年後の2007年から、ぼくは香港に住むことになる。
「夜のマクドナルド」で途方に暮れていたときは、そんなことはまったく思いもしなかったことである。
「重慶大厦」は、香港のチム・サー・チョイというところに、今も健在だ。そのチム・サー・チョイは以前の仕事場があったところでもあり、ほんとうに多くの時間を過ごしてきたところである。
でも、あの「マクドナルド」は、存在していないようだ。
じっさいに、あの「マクドナルド」がどこにあったのかは、ぼくは大体の感覚しかもっていないのだけれど、香港に住むようになってからチム・サー・チョイ界隈を探してみても、あの「マクドナルド」を見つけることはできなかった。
そんな香港も、住むようになってからほぼ12年が経つところである。
あの「マクドナルド」を現実には見つけることができなかったけれども、そのあいだに、ぼくはじぶんのなかに<別のもの>を見つけることができたように思う。
「過去」を手放しながら、 意識に現れた恩師の言葉に、ふたたび向き合う。
だいぶ昔のことで、正確にいつだったのか覚えていないのだけれど、高校生か大学生になってから、小学生のときの恩師に会いにいったことがある。もう、20年から25年ほどまえにことになる。
だいぶ昔のことで、正確にいつだったのか覚えていないのだけれど、高校生か大学生になってから、小学生のときの恩師に会いにいったことがある。もう、20年から25年ほどまえにことになる。
こんな具合に「いつ」だったのかも覚えていないし、またなぜ会いにいったのか、そのときぼくはなにを抱えていたのかも覚えていない。
けれども、あのとき訪れた学校(恩師が移られていた別の学校)の校門から下駄箱にかけての風景、そしてその風景の空気感のようなものが、なぜかぼくの記憶のなかに残っている。
でも、ぼくのなかにありつづけている、そのときの「教え」が、より鮮烈に残っている。
放課後の、夕暮れ時のことだったと思うのだけれど、近況を含め、いろいろと話をしながら、(たぶん)最後のほうで、恩師がぼくに向かっていわれたのだと思う。
「過去を振り返るときではないでしょ」
そのときに発せられた言葉はもう少し違う言葉だっただろうけれど、ぼくの「受け取った言葉」としてのニュアンスと混ぜ合わせると、そのような言葉であった。
「過去」を振り返っている場合ではなく、今を、そして未来に向かって歩むときでしょう、と、厳しさと優しさの両方が込められた言葉を、恩師はぼくに向けて放ってくれたのである。
昔の先生に会いにくるということは、ぼくが「現在」に問題・課題を抱えていて、ある意味「逃げ場」としての<過去>へと戻ってきたように、恩師はどこかで感じとられたのだろう。会いにきたぼくを、逆に「つきはなす・つきかえす」ことで、現在と未来にぼくを向けさせたのであった。
そんな言葉を受けて、「せっかく会いにきたのに…」という気持ちがいくぶんか湧いたのだけれど、時間が経てば経つほどに、ぼくはこの言葉に生かされているように感じるようになっていった。
そして今、現在と未来に目を向けながら、しかし、物理的に(家のあちこちに)そして心理的に(ぼくの内面に)、さまざまな「過去」が、好ましくない仕方で散乱し、つみあがり、ながれをせきとめている状況に正面から向き合っている。
恩師の教えからブログを書き始めたのだけれど、じっさいには、そんな状況に向き合っていたら、恩師の言葉が思い出されたのである。
「過去を振り返るときではないでしょ」
「過去」を大事にしない、ということではない。「過去」を振り返り、「過去」にきちんと向き合うべきときもある。「過去」の思い出にひたることだって、あっていい。
でも、「過去を振り返るときではないとき」が、やはりある。
恩師はそのようなタイミングを絶妙の仕方で感知し、教え子であったぼくに、<気づきの機会>を与えてくれたのである。「機会」と書いたのは、当時、ぼくが抱えていた問題・課題を詳細に話した記憶はないからである。ぼくがじぶん自身で気づき、向き合う機会を与えてくれた。ぼくはそう思っているのである。
物理的に、そして心理的に、「過去」を手放しながら、ぼくの無意識から意識の表層へとふたたび顔を見せた、恩師の言葉。
<気づきの機会>としてのこの言葉に、ぼくは20年以上経ったあとに、ふたたび向き合っている。ここ香港で。
「聴いていて、わかる」と「書いて、わかる」の段差。- メールマガジンを書きながら思ったこと。
「聴いていて、わかる」と「書いていて、わかる」は違うということを、メールマガジンのための文章を書きながら、また書いた文章をメールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」にのせてご登録いただいている方々に送信したあとに、ぼくはしみじみと思う。
「聴いていて、わかる」と「書いていて、わかる」は違うということを、メールマガジンのための文章を書きながら、また書いた文章をメールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」にのせてご登録いただいている方々に送信したあとに、ぼくはしみじみと思う。
「聴いていて、わかる」とは、誰かの話を聴きながら(あるいは「聞きながら」)、「それは知っている」とか、「それはわかっている」とか思うこと、つまり、じぶんはそのことについて「わかっている」と思うことを、ここでは指す。
このような思いは、「聴く(聞く)」だけでなく、本を読んでいるときにも、やってくる。本を読みながら、「こんなことは知っている」とか、「こんなことはわかっている」とか思うことである。
でも、そんなふうに思っていることがらも、じっさいに、じぶんで文章として書くとなると、途端に書けなくなってしまったり、思っていたほどわかっていないことに気づくことがある。
ぼくが配信させていただいているメールマガジンにかぎらず、このブログを書きながら、そのように思うことがやはりあるのである。
とくに、ぼくが勝手に師とさせていただいている、社会学者の見田宗介(真木悠介)先生が書かれるもの、「現代社会の構造」や「消費化・情報化社会」のことから、さらには、「時間」のことから「自我」のことにいたるまで、ぼくはこれまでになんどもなんども、辞書を引く以上の頻度で、読んできた。世界のどこにいこうとも、いつだって、何冊かは携えてきた。
でも、見田宗介(真木悠介)先生の世界観や視点や論理に触発されながら、それらをこのブログで書こうとするとき、「書けないこと」があるのだ。それも一度ではなく、いくども、である。
そこでくじけずに書こうとして、なんとか書いているときに、「わかる」というのが、「読んでいて/聴いていて、わかる」というのとは違う次元で、ひらかれるように感じることがある。
これが、「書いて、わかる」である。
ふつうは、「わかって、書く」ということなのだろうけれど、書いている感覚として、<書いて(いて)、わかる>というのが、ぼくの実感である。
<書いて(いて)、わかる>のは、「聴いていて、わかる」のとは、だいぶ、段差があるのである。
このことは以前から気づき感じていたことで、だから、簡単で平易なことがらであっても、それらを聴きながら、あるいは読みながら、ぼくは「それはわかっている」というふうには聴かないように/読まないようにしてきた。
簡単で平易なことがらであっても、それらを話したり、書いたりしている方々の「わかる・わかっている」度合いや次元は、表面的に聴いたり読んだりしている側がわかるのとは異なっているし、うえで述べたように、聴いたり読んだりして「わかる」ようでいても、じぶんが話したり書いたりすると思ったようにはできない程度の理解しか、じぶんにはなかったりするからでもある。
インプットとアウトプットの、この段差を、メールマガジンの文章を書きながら、また送信したあとに、ぼくは思ったのでした。
※ なお、メールマガジン「The Blog & More of Jun Nakajima」(現在のところ、2週間に1度配信)のご購読登録がまだの方、ぜひ、ご登録ください(このページ下に登録フォームがございます)。
服装よりも、むしろ髪に、その人があらわれる。- 「髪」をカットしてもらいながら、考える。
Thomas Thwaites(トーマス・トウェイツ)の著書『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』(Princeton Architectural Press)(邦訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』村井理子訳、新潮文庫)という、ユニークな本がある。
Thomas Thwaites(トーマス・トウェイツ)の著書『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』(Princeton Architectural Press)(邦訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』村井理子訳、新潮文庫)という、ユニークな本がある。
ヤギになって人間の悩みから解放されることを想像する。ふつうの人であればそこで折り返して「現実世界」に戻ってくるのだけれど、トーマスはそのような夢想をつきぬけてゆく仕方で、実験へとつきすすんでゆく。そんなユニークな実験録である。
そう、世界はいろいろな人たちで充ちているものだ。
そのような方向に「つきぬけること」はしないぼくは、冒頭(「Intoroduction」)の、ちょっとした記述が気になってしまう。
ロンドンのWaterlooで、トーマスはコーヒーショップに座って通勤の流れを見ながら、いろいろな「思い」を綴っているのだが、ぼくが気になったのは、かつてルイ・ヴィトンで働いていた友人がトーマスに語ったことである。
ルイ・ヴィトンの店員さんたちは、店に入ってきた女性を判断することにおいて、彼女の服装というよりも、彼女の髪を見るように訓練を受けるのだという。
なるほどなぁ、と、ぼくは立ち止まってしまう。
友人が語っただけのことなので、実際にどうかはわからないけれども、その話の正否はどうあれ、服装よりも髪を見て人を見極める、というのは、見極めの方法のひとつだなぁと思う。
ぼくの「経験の記憶」が、一気に作動する。
経験のなかでも、とくに、じぶんの「髪」に対する姿勢・態度という点から、この方法は結構大切なポイントをついているように思えてくるのだ。
人を見て、なんらかの「判断」をするときに、「見た目は関係ない」という見方もひとつだ。
でも、シャーロック・ホームズが「見た目」からさまざまな情報をひきだしてゆくように、「見た目」が語る情報は、やはりさまざまにあると、ぼくは思う。
くどい言い方かもしれないけれど、「見た目は関係ない」といった<見た目>もあるものだ。
「じぶんの外見は他人にどう見られてもいい」と思う人を大きく分けると、二種類に分けることができる。
● 「じぶんの外見」は、じぶんにとってもどうでもいい、という人
● 「じぶんの外見」は、じぶんなりにこだわる、という人
「他人にどう見られてもいい」という思いは同じであっても、そこに向けられる姿勢・態度は真逆になるのである。
ぼくの「経験の記憶」をたどると、いつしか、ぼくはこの内の前者、「じぶんにとってもどうでもいい」というところに向かっていたことがある。でも、そこから、後者へと、方向転換してきた。
「じぶんにとってもどうでもいい」ということは、正面からそうは思っていなくても、結局そうなっていたりする。いろいろな理由や事情をひっつけて、その方向に向かってしまうのだ。
そんなことが、たとえば、「髪」という外見に現れるのだ。
服装というよりも(服装もそうだけれど)、むしろ髪を見ると人(他者も、じぶんも)がわかることがある。
そんなことを、「髪」をカットしてもらいながら、ぼくは考える。トーマス・トウェイツの本の冒頭に書かれている、ルイ・ヴィトンで働いていた友人の話を思い浮かべながら。
「不死」のテーマをおいつづけて。- 養老孟司の「不死へのあこがれ」という文章を導きとして。
著書『Homo Deus』で、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は、人類が「飢饉、伝染病、戦争」を管理可能な課題にまでもってきたことを指摘しながら、人類が次に直面する課題は、次の3つとしている。
著書『Homo Deus』で、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は、人類が「飢饉、伝染病、戦争」を管理可能な課題にまでもってきたことを指摘しながら、人類が次に直面する課題は、次の3つとしている。
● 不死
● 幸せ/至福
●「神的な領域」に入ること
このうちの「不死」ということについて、とりあげたい。
最近読み返している養老孟司の本のなかに、「不死へのあこがれ」と題される、興味深い一節があったからである。それに、触発されたからである。
「不死」ということを、ぼくはときおり、思い、考える。
「不死」を痛切にねがうわけではないけれど、ぼくの内奥のどこかに「不死」をねがう気持ちがないとはいえない。以前は、死をおそれて「不死」を思うこともあった。
あるいは、これまでの人間の歴史をひもとくと、「不死」が語られ、希求され、それがなんらかの形となって残されているのを目にする。
「不死」のこれまでとこれから。
これから、テクノロジーの進展とともに、「不死」が追求されてゆく(いまも、追求されている)。
それにしても、「不死」への衝動を、根源的なところでひきおこしているのは、なんであろうか、どのようなメカニズムであろうか。
養老孟司の著書『遺言。』(新潮新書、2017年)のなかの一節「不死へのあこがれ」は、このような問いに応える。「意識」が考えることではなく、「意識」そのものにわけいることで、「不死」へと向かう(向かわざるをえない)「意識」について書いているのである。
「不死」を語るさいに、ヒトが必死に「デジタルの世界」を作ろうとするのはなぜか、という問いを、養老孟司は話の導入としている。
このような問いに、コンピュータのようなデジタル世界は、便利・合理的・経済的だからと、多くの局面では応える。この説明の仕方を「機能的な説明」と養老孟司は読んでいる。
人体でいえば、「心臓は血液を送り出すポンプである」という言い方であり、それで人は納得するし、この言明はわかりやすいから、「人工臓器」として心臓が最初につくられることになる。
この「裏にある暗黙の意図」をおう。
人工臓器は具合が悪くなれば変換する。この論理を延長してゆくと、この意図がわかるというのだ。
それが、「不死」である。
「不死」と「デジタル」の関係性が、ここで語られることになる。
…デジタル・パタンとは、永久に変わらないコピーだと述べた。なんとコンピュータの中には、すでに不死が実現されている。デジタル・パタンが死にそうになったら、つまり消えそうになったら、どんどんコピーを作ればいい。だからクラウドなのである。どこにコピーが存在しているのか、よくわからないけど、ともかくどこかにコピーが存在している。これをいたるところに置けば、実際的には死にようがなくなるではないか。だから自分の記憶、感情のすべてをコンピュータに入れたらどうなるんでしょうね、という質問がなされる。その暗黙の裏は「俺は死なない」ということであろう。
養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
これにつづけて、さらに、とても興味深い「考え方」が書かれている。
骨子は「空間の支配から時間の超越」。ヒトは、空間を支配しようとし、空間の支配が達成されると時間の超越という課題ぶつかり、その課題を解決しようとしてきたということである。
「空間の支配」の衝動につきうごかされながら、たとえば、かつてのローマ帝国や大英帝国ができた。空間を支配したところに、「時間の超越」という課題があらわれる。そこで、たとえば、秦の始皇帝は万里の長城を作り、エジプトの王たちはピラミッドを作る。石で作った巨大な建造物は、時間を超えて、いまでも残っている。
さらに、時間の超越のためにつかわれたのが「文字」である。養老孟司はそう指摘する。書かれたものは永久に変わらない。巨大な建造物をつくる必要もない。そうして、巨大な建造物に変わって、文字が「永久」をつくりだしてゆく。
そして、その延長線上にデジタル・データがあり、そこで時間の超越は終止符を打つ。
「時間と空間」というテーマは、ぼくにとって大きなテーマである。これからの「生きかた」をふりかえり、考え、その未来を構想するときにも、この二つの軸が「人生マッピング」のうえでも役に立つ。でも、そのような功利的な思考をとらなくても、このテーマそのものはぼくの好奇心がうずまくところだ。
それにしても、この「意識」そのもののメカニズムから、歴史をきりとり、現代社会をきりとり、また生きかたをきりとると、いろいろなものごとが「違って」見えてくる。
なお、「耳が時間、目が空間」をとらえるものであり、この二つを統合するのが「言葉」であるということを、養老孟司はべつのところで書いている。が、ここではそこには立ち入らないことにする。
ともあれ、「意識」そのものが、空間を支配し、時間を(ある意味)超越しようとし、不死を希求する。デジタル・データがある意味で時間の超越に終止符を打つようなものであるものとして、しかし、ヒトは、徹底的に、ほんとうに徹底的に、この「不死」をデジタル・データを駆使しながらさらに追求している。
ユヴァル・ノア・ハラリが書くように、「不死」は、残された人類の課題のひとつとして、徹底的に追求され、これからも追求されてゆく。
「意識」は、ヒトの身体に左右されるからべつに偉くないのだけれども、意識はそれが気にくわず、意識が偉いのだと主張しながら、不死を希求する。世界を支配しようとする。養老孟司はそう書く。
ヒトの生活から意識を外すことはできない。できることは、意識がいかなるものか、それを理解することである。それを理解すれば、ああしてはまずい、こうすればいいということが、ひとりでにわかってくるはずである。それはそんなに難しいことではない。
養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
知性。これも(ある意味)「意識」の産物とも言えるけれど、その知性のもっともすぐれたところのひとつは、「いかなるものかを理解する」ことである。
「意識」そのものを意識する、理解する。そこに<出口>がある。「意識」は意識そのものの性質と機能のなかに、みずからの<出口>を装填している。
「意識と感覚」の<段差>を意識する。- 養老孟司の提案。
養老孟司の視点とことばは切れ味するどく、スリリングだ。
🤳 by Jun Nakajima
養老孟司の視点とことばは切れ味するどく、スリリングだ。
20年以上まえに読んでいた『唯脳論』(ちくま学芸文庫)を読み返しながら、最近の著書『遺言。』(新潮新書、2017年)をふたたびひらいたら、養老孟司の視点とことばが、よりせまってくるように、ぼくは感じたのである。
これらで語られていることの核心は、「意識」と「感覚(感覚所与)」のことである。
養老孟司の書くものは、それを一文字一文字おっているときは、一般向けにわかりやすく語られてもいるから「わかりやすい」と感じるし、「わかったよう」にも感じるのである。
たとえば、少子化についても、その深いところ(意識と感覚という次元)で問題をとらえているが、とてもわかりやすい。
…子供が増えないのは、根本的には都市化と関連している。都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。ところが子供は自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う。意識的にはすべては「ああすれば、こうなる」でなければならない。…
養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
とてもわかりやすい視点だ。このように理解したそれぞれのトピックやエピソードはその通りであろう。
でも、そこで終わりにせず、養老孟司が<きりひらこうとしていること>にとどまって、さらに、じぶんの理解を深めてゆく方向に一歩一歩進んでみると、それまでに理解してきたことの核心が見えて、ぱっーと、視界がひらけてくる。少なくとも、ぼくにっとてはそうであったのである。
その語られていることの<革命的視点・視座>がほんとうに「わかる」とき、ぼくたちが見ている「世界」がまるでちがったものに見えてくる。
このような<革命性>は、「意識」そのものにきりこんでゆくことで、これまで光があてられてこなかったことに光をあてて、「意識」そのものをきりひらいてゆくことにある。
人は何かをかんがえたり言葉にするときに「意識」を使うのだけれど、その「意識」自体を問うことは(あまり)されず、不動の「前提」とされてきたようなところがある。
養老孟司は『遺言。』のなかで、「意識について考えること」がタブーとされてきたのだと書いている。すべての学問は「意識の上」に成り立っていて、「意識」自体を考えることはその「足元を掘り起こす」ことになるから、タブーとされてきたのだと指摘する。『遺言。』は、明示されているように、このタブーを解き放とうとするものでもある。
「意識」は<同じ>にしようとし、「感覚」は<違う>という。
養老孟司はこのことを、いろいろな知見と事例をまじえながら、説いている。いろいろな問題が、「意識」と「感覚」の対立や矛盾などとして(そのように「見える」ものとして)、現実には立ち現れる。環境問題も、少子化も。
でも、そこにさらに大切なポイントとして、意識と感覚は「階層が違う」ことを指摘している。意識と感覚の<段差>である。
さらに注記されるのは、「階層」においては、意識(「同じ」)が「上」だと考えてしまう問題である。この暗黙の了解(意識は感覚より階層が上)のもとに、「意識中心の都市型社会」は、個々の具体的な社会問題などで、「意識」が「感覚」に勝利することが多くなる。
このことを知ったからといって、個々の問題がすぐさま「解決」するわけではない。
でも、それらの対立や矛盾(に見える)ことの根源的な理由を、ぼくたちの「意識」自体のありかたのなかに、しっかりと措定しておくこと。根源的な「問題」(対立や矛盾)を抱えているのは、ぼくたち自身にあること。
養老孟司は、「おわりに」で、山口真由『リベラルという病』(新潮新書)にふれながら、つぎのように書いている。
…たとえば、強いフェミニズムは、感覚で捉えられる男女の「違い」を無視し、なにがなんでも男女を「同じ」にしようとする。「病」というしかない。「同じにする」がどんどん強くなって、信仰の域に達する。それがアメリカの「リベラルという病」だ、ということになる。
「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それがいわば私の拙い提案である。養老孟司『遺言。』(新潮新書、2017年)
なるほど、と思う。
ぼくたち自身(「意識と感覚」)を理解すること(「意識」すること)。そしてその地点から出発するだけで、「問題」のとらえかたも、議論の仕方も、そして(おそらく)解決の仕方も、だいぶ変わってくるのではないかと、ぼくは思う。
「職業タイトル」を深いところで超えて。- <人間全体として生きる>こと。
串田孫一(1915-2005)のことを、作家の辺見庸は著作『水の透視画法』で書いている。
串田孫一(1915-2005)のことを、作家の辺見庸は著作『水の透視画法』(集英社文庫)で書いている。
辺見庸が見た夢のなかに、すでに亡くなられた串田孫一の姿を見たことから、串田孫一にお会いしたときのことを思い出す。東京の新宿でただ一度会い、3時間の話をしたときのことである。
辺見庸は、串田孫一を「なんとよべばよいのか」と自問した。串田孫一にはいろいろな「顔」がある。哲学者、詩人、エッセイスト、翻訳家、アルピニスト、画家など。でも、どれもぴんとこない。このような「職業名」があてはまらない。
辺見庸は、結局のところ、尊称としての<ひと>と、串田孫一を心のなかでよんできたのだという。
<ひと>として、生きる。
やはり、岡本太郎(1911-1996)のことばがわきあがってくる。
ぼくはパリで、
人間全体として生きることを学んだ。
画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、
もっと広く人間、全存在として生きる。
これがぼくのつかんだ自由だ。岡本太郎『壁を破る言葉』(イースト・プレス)
1930年にパリに渡り、10年ほどをパリで過ごしたという岡本太郎。20代をパリに生きながら、<人間全体として生きる>ことを学んだのである。
人間社会の成り立ちと発展のなかに「分業」がくみこまれており、人は自分の生を「職業」に限定する仕方で生きていく。
このようなことを話はじめると、「スペシャリスト/ジェネラリスト」という、さらに限定された議論にはいっていってしまうことがある。もちろん、そのような議論が妥当性をもつ場や文脈もあるけれども、串田孫一や岡本太郎のことばや生きかたは、このような二分法そのものを裂開してしまうのだと、ぼくは思う。
スペシャリストであろうが、ジェネラリストであろうが、あるいはその両方であろうが、<人間全体として生きる>ことが土台であるように、仕事をし、生きてゆくことができる。
「職業タイトル」があろうと、あるいはなかろうと、<人間全体として生きる>ことを土台とすることができる。
ぼくは、この「限定」していく力にたいして我慢できなかったりして、つい、<人間全体>のほうへ、心身が向かってしまう。
全存在として生きる。岡本太郎のいうように、これが「自由」であるということもできる。
なお、<人間全体>とは、ぼくにとっては、「職業という領域」だけのことではない。もっとひろくとらえている。
カール・ユングのいうような精神の「全体性 wholeness」であり、また五感でいえば現代テクノロジーによる各感覚器官の拡張(だけ)ではなく「感覚の全体性」である。
もういちどくりかえしておくと、たとえば「個/全体」というような二分法において「全体」が優位であるということではない。
この「個/全体」という見方そのものを裂開し、つきくずす方向へ、生きかたをひらいていくということである。生きることの土台として、<人間全体として生きる>ことである。
日々の「儀式 rituals」のなかで。- サマセット・モームの「仕事」。
小説家のサマセット・モーム(1874-1965)のことが突如気になって、Wikipediaの「サマセット・モーム」をひらく。
小説家のサマセット・モーム(1874-1965)のことが突如気になって、Wikipediaの「サマセット・モーム」をひらく。
なぜ突然「サマセット・モーム」が気になったかは数日前のことにもかかわらずもう忘れてしまった。作家の原田マハの本を少し読み始めていて、ゴッホやモネの「芸術」に少しふれていたときであったようにも思うのだけれど、どのようにつながっていったのか思い出せない。ゴッホとゴーギャンのつながり、そこから、ゴーギャンとサマセット・モームの作品『月と六ペンス』につながったのかもしれない。
なにはともあれ、サマセット・モームが気になる(そんなふうに突然に「気になる」ことって、ありませんか?)。
こんなふうに「突然に気になること」を、ぼくは大切にする。そこにかすかに見える「糸」を導きとしながら、その先になにが待っているのかわからないけれど、その糸をつたってゆく。
Wikipediaの「サマセット・モーム」(日本語版)を読んでいたら、いくつか目にとまったことがあった。そのひとつが、つぎのようなエピソードである。
・アイデアが出ない時は、ひたすら自分の名前を繰り返しタイプライターで打ち続けていた。(Wikipedia「サマセット・モーム」)
「アイデアが出ない時」の対処法はこれまで関心をもってきたから、「あの」サマセット・モームの対処法に目がとまったのであった。このエピソードの出典が定かではないので、実際に、誰が、どこで、どのように語ったのかはよくわからない。
でも、サマセット・モームであれ、ほかの誰かであれ、「ひたすら自分の名前を繰り返しタイプライターで打ち続ける」という方法に、ぼくは興味をもつ。
芸術家は、その「作品」にこそ味わうべきものがある。けれども、ぼくは、その作品のつくられ方にどうしても関心がいってしまうのだ。
「作品」を楽しまないわけではない。作品は作品で楽しみながら、でも、そこで関心がおさまらないのである。
ぼくは、Mason Currey著『Daily Rituals: How Great Minds Make Time, Find Inspiration, and Get to Work.』(Picador, 2013)をひらいて、サマセット・モームをさがす。
ベートーベン、フロイト、アインシュタイン、ピカソなどの偉大な人たち(great minds)がどのように時間をつくり、インスピレーションを得て、仕事にとりかかっていたのか、それら「日々の儀式 daily rituals」を集成した本である。
その本をひらいて、目次に目をとおしていたら、気になっている「Somerset Maugham」がやはりある。
サマセット・モームの伝記(Jeffrey Meyers著)によりながら、Mason Curreyはモームの「日々の儀式」について書いている。
その核心的なところでは、モームにとっては、書くことは、仕事(vocation)というよりも「中毒 addiction」のようなものであったようだ。
ほぼ92年の人生で78冊の本を刊行したモームは、朝、3時間から4時間を書くことにあて、1000字から1500字書くことを自分に課す。
ただし、机にすわる前から湯船につかりながら最初に書きたい2つの文章を考える。そうしていったん仕事がはじまると、一心不乱に書いたようだ。さらに景色を見ながら書くことはできないから、机はいつもなにもない壁に面していたという。
こんなふうに、モームの「日々の儀式」は書かれている。
こんな仕事の仕方を「方法論」の観点から、いくつかをとりあげることもできる。また、こんな描写から、サマセット・モームという人を想像して、楽しむこともできる。
そんなふうに思いながら、Wikipediaの「サマセット・モーム」の英語版(W. Somerset Maugham)を読んでいたら、モームが、ここ香港に来たことがあること、そのことについて書いた文章があるようなことがわかる。
モームは、この香港をどのように「見た」のだろう。このことが気になってくる。
突如気になりはじめた「サマセット・モーム」は、ぼくを、どこに連れていってくれるのだろうかと、ぼくは、突如現れたかすかに見える「糸」をたどってゆく。
「トランクひとつ分の幸せ」(小松易)。- 片づけ、海外生活、充実。
家の「片づけ」をすすめながら、ときに「片づけ」の本に目をとおす。
家の「片づけ」をすすめながら、ときに「片づけ」の本に目をとおす。
たとえば、佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(ワニブックス、2015年)。「ミニマリスト」という生きかたで、人生が変わってきた経緯やヒントが綴られている。英訳も出版されていて、ここ香港の書店でもみかける本だ。
この本のなかで、究極のミニマリストであった人物たち、マザー・テレサやマハトマ・ガンディーなどに言及されている。このような人物たちにふれることは、究極のミニマリストになろう、と声高に叫ぶためではなく、究極のミニマリストたちはすでに存在していたのだから「モノが少ない対決」には意味がないことを語るためである。
マザー・テレサが遺したモノは、着古したサリー、カーディガン、手提げ袋、それからサンダルであり、またガンディーの部屋には何もなかったという。古代ギリシャの哲学者ディオゲネスは、最終的に布一枚だけを所有していただけであったという。
「モノが少ない対決」には意味がないことはたしかだ。
モノの「量」にフォーカスしすぎることは、片づけのほんらいの目的のひとつであろう、本人のしあわせという観点からは意味がないのだけれど、それでも、気になるところである。
他の本に目をとおしながら、ぼくはつぎのようなことばに出逢う。
「トランクひとつ分の幸せ」。
かたづけ士である小林易の『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』に出てくることばである。
あなたの人生を豊かにするモノの量は、私がアイルランドに留学したときのトランクひとつ分の荷物かもしれません。トランクひとつ分の幸せこそが、いちばんステキな幸せかもしれません。
小松易『たった1分で人性が変わる片づけの習慣』電子書籍版(KADOKAWA/中経出版、2017年)
大学時代にアイルランドに留学していた小林易は、3カ月の留学生活を終えて、帰国の荷づくりをはじめる。
荷づくりのために、ベッドの下に収納していたトランクを出したとき、小林易は衝撃をうける。「トランクひとつ」で3カ月生活できたこと、またモノの少ない生活のほうが充実していたことに、である。
「トランクひとつ分の幸せ」である。
「トランクひとつ分」といえば、ぼくの海外暮らしも「トランクひとつ分」であったともいえる。だから、このことばにひかれてのであろう。
ニュージーランドを去るときも、西アフリカのシエラレオネを去るときも、東ティモールを去るときも、いずれも「トランクひとつ分」(正確には、大きなバックパックひとつ分+手荷物)であった。
シエラレオネと東ティモールは、住んでいるあいだ、日本と行き来しながらモノの移動もあったけれど、さいしょとさいごの「INとOUT」ともに、「トランクひとつ分」であった。
そして、小林易が感じたように、そんなモノの少ない生活は充実していた。
ここ香港ではだいぶモノが増えてしまった。「トランクひとつ分」とまではいかないだろうけれど、いまいちど、「モノ」を少なくしているところだ。それも、ただの「モノ」のことではなく、それ以上に、もっと内面の整理整頓もふくめて、ぼくはいろいろと手放している。
ところで、「片づけられる自分」になるために、「必要最小限の荷物だけ」を手にした旅行を、小林易はすすめている。その理由のひとつは、旅行の荷づくりが、片づけにともなう、「捨てる基準」を決めるトレーニングとなるからである。
この方法については、ぼくも共感するところがある。旅をかさねてきたぼくの思うところである。
前述のように「モノが少ない対決」には意味がないのだけれど、ぼくたちのしあわせには、思っている以上に「モノ」が必要ではないことを、ぼくは思う。
香港の、「レモンいっぱいのレモンティー」。- レモンは「いっぱい」でもいいんだ、という認識への再設定。
香港の街に出て、食事をするときによく飲む飲み物は「ホットミルクティー」。香港式のホットミルクティー(港式奶茶)である。「香港式」は、とても濃い紅茶に、無糖練乳がたっぷりと入ったミルクティーである。お店によって「味」はさまざまで、その「さまざま」を味わってゆくのも楽しい。
香港の街に出て、食事をするときによく飲む飲み物は「ホットミルクティー」。香港式のホットミルクティー(港式奶茶)である。「香港式」は、とても濃い紅茶に、無糖練乳がたっぷりと入ったミルクティーである。お店によって「味」はさまざまで、その「さまざま」を味わってゆくのも楽しい。
けれども、12年ほど前に香港に移り住んで印象深かった「香港式」は、ミルクティーよりも、むしろ「レモンティー」であった。なぜかと言えば、レモンがたくさん入っていたからである。
レモンがいっぱいに入っている、ただそれだけのことだけれども、「ただそれだけ」のことが、ぼくの脳を少しずつ侵食していくことになる、「香港式」のひとつであったと思う。
レモンの輪切りがいっぱいに入っている紅茶。
このことの「インパクト」をひとことであらわすのであれば、「レモンはいっぱいでもいいんだ」というひとことである。
ぼくたちがある文化の中で暮らしてゆくなかで、ぼくたちはいろいろなものごとを「デフォルト」設定してゆく。ぼくたちが「気がついた」ときにはすでに「デフォルト設定」されていたものもあれば、暮らしてゆくなかでじぶんなりの「選択」を通してデフォルトとして設定してゆくこともある。
「レモンティー」で言えば、日本で暮らしているなかでは、レモンは「輪切り1枚(あるいは2枚?)」であった。少なくとも、ぼくのなかでのデフォルト設定は、そのようであった。そこに暮らしているときは、そのことに対してとくに何か思うわけでもなく、紅茶とともに出される輪切り1枚のレモンの香りとテーストを楽しんでいた。
そのようなデフォルト設定が、香港に来て、「再設定」を迫られることになる。別に誰かに頼まれて再設定を迫られるわけではないけれど、ぼくの「頭の中」で、レモンティーのイメージ設定をしなおすことになる、ということである。
香港の街のふつうのお店でレモンティー(例えば、冷たいレモンティー)を頼むとしよう。そうすると、レモンの輪切りは1枚ではなく、5枚ほどがぎっしりとグラスの底にしずめられて、出てくることになる。なお、紅茶それ自体も、濃い紅茶だ。
これらいっぱいのレモンをスプーンなどで押しつぶしながら、レモン汁を抽出し、紅茶にまぜてゆく。飲み物にシロップ(また砂糖)はふだんはあまりいれないぼくも、香港式のレモンティーにはシロップをいれることになる(あるいは、出されたときに、すでにシロップがまぜられている)。
味も香りもつよい香港式のレモンティーは、こうして、楽しむことができる。
香港に住むようになるよりも、さらに12年ほどをさかのぼった年に、ぼくは旅ではじめて香港に来たのだけれども、そのときは、これらの「香港式」を充分に楽しむことはなかった。
住むようになってはじめて、ぼくは、これらに親しんでゆくことになる。じぶんが「飲む/飲まない」ということにおける「親しさ」ということではなく、ぼくの身の回りの「環境」に、あたりまえのように存在しているという<親しみ>である。
こうして、レモンは輪切り1枚のデフォルト設定が、再設定されてゆくことになる。
香港のレモンティーのレモンは、いっぱいだ。レモンティーのレモンは、いっぱいあってもいい。必ずしも、輪切り1枚でなくてもいい。
もちろん、レモンの輪切り1枚という「レモンティー」のよさもある。そのかすかな香りとテーストが身にしみてくることもあったりする。
でも、ときおり、香港の日系のレストランに行ってレモンティーを頼むと、レモンの輪切りが1枚ついて、レモンティーが提供される。そんなとき、少しさびしさのようなものを感じて、ぼくの頭の中のレモンティーの設定が変わったことを認識したりすることになる。
そして、このようなことは、「レモンティー」だけではないなと、思うことになる。
レモンいっぱいのレモンティー(香港式のレモンティーが日本のレストランで提供されるとすれば、こんな名前がつけられるだろうか…)のように、ぼくのそれまでの「認識」を書き換えてきたような体験・経験を、ぼくは、ここ香港で、さらには東ティモール、西アフリカのシエラレオネ、ニュージーランドでしてきたのだということを思うのである。
追記:
ブログの写真に「レモンティー」をのせたかったのだけれど、写真がなくのせていない。最近はすっかり「香港式ホットミルクティー」なのである。
「We shall not cease from exploration…」(T.S. ELIOT)。- 「終わり」にたどりつくところ。
ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著書『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)のはじまりのところに、T・S・エリオット(1888-1965)の詩集『Four Quartets(四つの四重奏)』からの抜粋の一部をおいている。
ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著書『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)のはじまりのところに、T・S・エリオット(1888-1965)の詩集『Four Quartets(四つの四重奏)』からの抜粋の一部をおいている。
We shall not cease from exploration
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.T.S. ELIOT
「はじまりと呼ぶものはしばしば終わりであり、終わらせることははじめることである」というようにはじまる『Four Quartets(四つの四重奏)』「Quartet No. 4: Little Gidding」の最終節(第5節)の、そのほぼ最後のところに記されている言葉である。
「われわれはエクスプロレーション(探検・探査)をやめることはない。すべてのエクスプロレーションの終わりはわれわれがはじめた場所に到着することであり、またその場所を初めて知ることである。」
「はじまりと終わり」の、その「構造」だけをざっくりととりだせば、メーテルリンク『青い鳥』、パウロ・コエーリョ『アルケミスト』などにも見られる構造である。また、社会学者である見田宗介=真木悠介の著作(『気流の鳴る音』『宮沢賢治』)でも見られる、ものごとを読み解く「四象限と円環」も、おなじ構造をもっている。
ロバート A. ジョンソンは、「人生の前半/(中年)/後半」を語ってゆくなかで、このことばを導きの糸としている。
大切なことは、このような構造をただ単に「知る」ことよりも、「生きる」ことであるように、ぼくは思う。つまり、実際に、体験・経験することである。ヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』で、シッダルタが、この体験・経験の中にひたすら身を投じていったように。
じぶんの心身を通じて<知ること>は、ぼくたちの<知恵>となり、生きることに深みをつくりだしてゆく。
エクスプロレーションの終わりにたどりつく場所は、はじめた場所であるかもしれないけれども、その風景は重層してゆく風景であり、やはり異なる仕方でぼくたちの目に見える。
ぼくも、いろいろなエクスプロレーションの果てに、結局「はじまりの場所」に戻ってきたようにも思うのだけれど、そのエクスプロレーションのはじまりには見えていなかった仕方で、その場所を眺めているように思う。エリオットが書くように、まるで「And know the place for the first time」のように。
「静けさ・静寂・沈黙(silence)」を味方につける。- Robert A. Johnsonの体験に耳をかたむけて。
ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)は、現代において、ひとびとが「静けさ・沈黙(silence)」に耐えられないことにふれている。
ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)は、現代において、ひとびとが「静けさ・沈黙(silence)」に耐えられないことにふれている(著書“Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life”)。
あるときロバートは、友人の勧めで、「Isolation Tank(アイソレーション・タンク)」(その他、sensory deprivation tankなどとも呼ばれる)を体験することにする。
「Isolation Tank(アイソレーション・タンク)」とは光や音が遮断されたタンクで、リラクゼーションなどを目的として、ひとはタンクのなかの入り、その感覚を遮断されたなかで塩水に浮かぶ。リラクゼーションに限らず、メディテーションや代替医療としても使われているようだ。
現代生活の忙しさからいっときのあいだ離れ、ピースフルなときを体験する。昔の人たちなどが見たら「理解できない」活動であろうけれど、忙しい現代人にとっては、そのような「とき」はそれほど貴重でもある。
ロバートはそうしてタンクのなかに入り、タンクのドアが閉じられる。棺桶のようにも感じながら、しかし、タンクのなかでの「solitude(孤独さ)」に感謝し、静けさを心待ちにする。
しかし、思ってもみなかったものがやってくる。センチメンタルで、ひたすら繰り返される類の音楽である。それが、タンク室の小さなスピーカーから流れてくる。静けさに包まれると思っていたら、まったく逆に、音楽に包まれてしまう。
こうして、「solitude(孤独さ)」のときはうちやぶられ、ロバートは20分ちかくのあいだ、この音楽を我慢せざるをえなくなったという。
タンクのドアがひらき、ロバートは非難したい気持ちをおさえて、「なぜ音楽をながすのか」とオペレーターに尋ねる。オペレーターは応える。「今日ほとんどの人たちは、まったくの静けさ(total silence)にがまんできないんです」と。
ロバート・ジョンソンの気持ちもわかりながら、しかし、「まったくの静けさにがまんできない」人の気持ちも、けっして人ごとではない。
20年以上前、ニュージーランドの田舎をひとり歩きながら、ぼくはその「静けさ」にがまんできなくなったこともある。なにも、20年以上前までさかのぼらなくても、ここ香港で暮らしながら、部屋の静けさを打ち消してしまうように、音楽をかけてしまうこともある。
この近代・現代社会に生まれ、そのなかで生きてきたぼくのなかには、こんな現代人の特徴が刻印されている。
でも、ここ数年、ぼくはいっそう、「静けさ・静寂・沈黙(silence)」をじぶんの味方としてきた。そんなことも手伝って、タンクのなかでのロバートの憤りも、わかる。
「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、かつてインタビューで、現代社会が「silence(沈黙・静寂)」ではなく、あまりにも「noise(ノイズ)」に充ちていることに対して警鐘をならしていた。
真剣な面持ちでゆっくりと、静かだけれど凛とした声を発するフレッド・ロジャースの「語り」は、なぜか、ぼくの印象につよくのこっている。
そんなフレッド・ロジャースの「語り」が、ぼくのなかで、ロバート・ジョンソンの「語り」と共振しながら、ひびいている。
「静けさ・静寂・沈黙(silence)」は、ぼくたちの味方である。
「定住と遊動」のこと。-「定住革命」(西田正規)の視点から、「遊動の衝動」をまなざす。
「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」。真木悠介は、かつて、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)の本編のさいごのほうに、このように記した。
「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」。真木悠介は、かつて、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)の本編のさいごのほうに、このように記した。
「翼をもつこと」だけでなく、「根をもつこと」の欲求。「根をもつこと」だけでなく、「翼をもつこと」の欲求。いずれもが<人間の根源的な欲求>であると、人間の欲望・欲求の構造を徹底的に探求してきた真木悠介は書いた。
「根をもつ」という定住のあり方が、現代の人間社会のデフォルト的な様態である。そこに、ひとびとの「物語」が生成し、語られ、そうしていっそうデフォルトの状態が強化される。
けれども、現代社会がゆるぐなかで、より自由な、さまざまな生きかたが模索されてきている。
そのような問題関心において、ぼくは、西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)を読む(もともとは、新曜社から1986年に発刊され、絶版になっていた)。
「定住」というあり方に距離をおいて、移動をくりかえす「遊動」との比較のなかで、「定住革命」という視点を導入しながら、定住と遊動をとらえなおす。
不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく。この単純きわまる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。
…
ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えたのである。この変化を「定住革命」と呼んでおこう。およそ一万年前、ヨーロッパや西アジア、そしてこの日本列島においても、人類史における最初の逃げない社会が生まれた。西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)
「不快なものには近寄らない、危険であれば逃げていく」という、生きる基本戦略は、いわば「初期設定」として、また生きられてきた時間の長さと深さとしても、人の身体の奥深くに刻印されているのだろう。
そこに「定住革命」が起こる。まさに「革命」である。
「動物に脳がつくられた理由というのは、遺伝子レベルでは間に合わないことをするため…つまり、環境に適応するため」と養老孟司は語っているけれど、人間(ホモ・サピエンス)の「脳」は、「初期設定」である生きる基本戦略でさえも、比較的みじかい期間で、のりこえてしまう。
定住に伴って現れてきた現象、食料生産の開始、都市の発生と発展、社会の分業化・階層化などは、「脳化社会」(養老孟司)ともあわせて、考えてみることができる。
西田正規の「定住革命」の視点でおもしろいのは、定住生活は「遊動生活を維持することが破綻した結果として出現した」という視点である。
食料生産などの活動による経済的能力の向上などに定住生活の出現をみる見方とは、逆転した見方だ。つまり、「定住がデフォルト」(定住が望まれることもあたりまえ)という見方ではない視点を、西田正規は、人類史のなかに位置づけ、そこから定住と遊動をとらえかえしている。
そんな西田正規の、「ノマド」(遊動民)に対する見方もおもしろい。
逃げない社会のなかにあっても、人々が逃げる衝動を完全に失ったわけではないだろう。定住社会の間隙を縫ってすり抜けるノマド(遊動民)たちは、その後も絶えたことはなく、また、定住社会における不満の蓄積は、しばしばノマドへの羨望となって噴出する。だからこそ定住社会は、ノマドの衝動をひたすら隠し、わけもなくノマドたちに蔑視のまなざしを投げ、否定し続けてきたのであろう。
西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年)
1980年代に書かれたこの文章であるが、歴史はその後、情報通信テクノロジーの発展を支えとしながら、「ノマド」的なライフスタイル/ワークスタイルを積極的に選びとり生きる人たちを目撃してきている。
そのような人たちへのまなざしは、いまだ、「定住者会」のまなざしから脱却していないようにもみえる。まなざしも、それから社会システムも、いまだ、移行途中だ。
そんななかで、「定住革命」の視点もとりいれながら、ぼくは、じぶん自身の内奥にひそむ「遊動の衝動」へと、<ポジティブなラディカリズム>の姿勢で、まなざしを投げかける。
1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれる。- 串田孫一にふれながら。
2019年は思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読もうと、2018年の終わりちかくに、ぼくは思うことになった。年始にさっそく鶴見俊輔の著作を手にいれ、読みだしたら、一気に脱線してしまった。著作のなかで鶴見俊輔がふれる人たちを、そのたびごとに追っていたら、まったく進まなくなってしまったのだ。
2019年は思想家の鶴見俊輔(1922-2015)の著作を読もうと、2018年の終わりちかくに、ぼくは思うことになった。年始にさっそく鶴見俊輔の著作を手にいれ、読みだしたら、一気に脱線してしまった。著作のなかで鶴見俊輔がふれる人たちを、そのたびごとに追っていたら、まったく進まなくなってしまったのだ。
でも、それが「鶴見俊輔」という先達の魅力のひとつでもあるように、ぼくは感じるようになる。
そのあと、ふしぎなことのように、ぼくは、鶴見俊輔と同じくらいの年代に生まれた先達たちの著作に、なぜか、とても惹かれるである。
1910年代から1920年代くらいに生まれた人たちの書くことばにである。
ここのところ、串田孫一(1915-2005)の著作(『知恵の構造について』)にはじめてふれてみて、その文体と思索にひきこまれている。
串田孫一のことを知ったのは、もう20年以上まえのこと。作家の辺見庸の対談相手のひとりとして、串田孫一が選ばれていた。経歴をみると、当時ぼくが通っていた大学の教壇に立っておられたこともあるようで、いっそう、ぼくの印象に残っていた。
それから20年以上が経って、ぼくは、ふと、串田孫一の著作を読みたくなったのだ。少しまえに読んでいた、辺見庸の著作(『水の透視画法』)にも、串田孫一との対談の思い出が書かれていたことに、触発されたのかもしれない。
辺見庸は、串田孫一を「なんとよべばよいのか」と自問している。哲学者、詩人、エッセイスト、翻訳家、アルピニスト、画家など、どれもぴんとこない。「職業名」があてはまらないのだ。辺見庸は、結局のところ、尊称としての「ひと」と、串田孫一をよんでいる。
そのように<ひと>としかよぶほかないような人物に、ぼくは惹かれたのかもしれない。
『知恵の構造について』(角川文庫、1969年)のさいしょのほうから、ひきこまれてしまう。
私は今日ひるすぎから、あることを考えはじめて、それを帳面に書きつけたり、ぼんやりと目をつぶっていたりしていましたが、どうにも抜けられない溝のようなところへ落ちこんでしまうので、夜になってから、ひさしぶりに望遠鏡を近くの草原に持ち出して、ついさっきまで、星をのぞいていました。…
串田孫一『知恵の構造について』(角川文庫、1969年)
それから星の世界にひたり、帰り道に近所の家から聞こえてくるピアノの音(ショパンの「エチュード」)にひかれ、その音にみちびかれた想像はひろびろとした花園を舞う蝶のイメージと思い出をひらいてゆく。
やがて机にもどってきた串田孫一は、つぎのように、書き継いでゆく。
私はこんなことをして、昼間のうち少しいじめつけてしまった思考に、きれいな星のひかりや、なごやかな調べや、それに蝶の翅からあざやかな色などをそそぎこんで、だいぶこころよい気分をつくりあげることができました。
私はひとになんと言われても、自分が、こうしたこころよい気分にひたっていられるときは、何ごともうまくできますし、自分の過去に積まれている苦悩も、ごく自然に整理されてゆくので、これは尊いときだと思います。…串田孫一『知恵の構造について』(角川文庫、1969年)
こんなふうに思索がつづられている。ぼくは、なぜか、とても惹かれてゆくのである。
気がつくと、1910年代から1920年代くらいに生まれている先達たちである。
鶴見俊輔(1922-2015)はもとより、鶴見俊輔の著作でふれられている、著書『ゲド戦記』で知られるアーシュラ・K・ル=グルヴィン(1929-2018)。最近ふと著作に出会い読んでいる、ユング派の分析家Robert A. Johnson(1924-2018)。それから、串田孫一(1915-2005)。
これまでも読んできていたけれど、いっそう惹かれる、整体の野口晴哉(1911-1976)も1911年に生まれている。
ここで「理由」については立ち入らないでおこうと思う。そんなにかんたんにくくりだすことをしたくないし、また、ぼくの個人的な理由が大半かもしれないから。
でも、ぼく「個人」をとおして、この現代だからこそ求められるものも見えてくるかもしれない。あるいは、この現代において、ぼくと同じように、1910年代から1920年代くらいに生まれている先達たちに触発されている人たちがいるかもしれない。
そんな感覚につきうごかされて、ぼくは、こんなブログを書く。
「捨てる時に、大切な本に出会える」(中谷彰宏)。- 「本」との関係をみなおすこと。
片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法が、2019年、Netflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』によって、再度脚光を浴びている。
片づけコンサルタントであるMarie Kondo(近藤麻理恵、こんまり)の「KonMari Method」という方法が、2019年、Netflixで配信されているリアリティ番組『Tidying Up with Marie Kondo』によって、再度脚光を浴びている。
脚光を浴びることで(脚光を浴びれば浴びるほどに)、もちろん「批判」的なコメントも寄せられる。そのなかに「本」の片づけをめぐる意見も錯綜していた。メディアの記事やSNSの投稿がいりまじり、ちょっとした言葉の捉え方や「解釈」(言っていないことを読みかえてしまうことを含め)はさまざまであることを感じる。
でもなにはともあれ、最後は「自分」がどうしたいかである。ぼくはそう思う。
ぼくは、かつて「本を捨てるなんて…」と思っていたこともあるし、「Book Lover」であるけれども、紙の本は長い時間をかけて減らしてきた。「KonMari Method」のように「一気に」ではないけれど、じぶんなりの仕方で、何年もかけて、徐々に、徐々に。
その代わりに電子書籍を増やしている。紙の本で残っているのは、ぼくにとってのバイブル的な本たち(多くは電子書籍にもなっていない本たち)である。それらのほとんどが、社会学者である見田宗介=真木悠介の著作である。
この20年ほどを共にしてきた本たちである。
「本を片づける(捨てる)」ということをすすめてゆくうえで、「柱」としてきた考え方・見方のひとつに、「断捨離」で知られる、やましたひでこの考え方・見方があった。
男性にも、女性にも、それぞれ、ため込みがちがちなモノがあります。
特に、男性は、プライドを大事にする生き物。「自己重要感」を満たしてくれるモノ、「自分はすごい!」とアピールできるモノを抱え込みがちです。やましたひでこ『大人の断捨離手帖』
やましたひでこが挙げる例は、「コレクター商品」「ネクタイ」「本」。このうちの「本」を抱え込む背景には、「知識コンプレックスが潜んでいる可能性がある」と、やましたひでこは書いている。「知識があるオレ」とか「デキる男」とか「かしこい自分」等々。
じぶんを振り返ったとき、そのような一面はあると思いつつ、また、この「世界」に対峙してゆくための武器のような安心感も感じたのである。
でも、蔵書として残す必要はなく、学んだことはこの心身に残してゆけばよいと、さらには紙の本というもの(知識の「かたち」)に「執着」しないようにと、ぼくは徐々にだけれど、紙の本を手放してきたわけである。無理をせず「自炊」もしながらだけれども。
それから、作家の中谷彰宏の著作『なぜランチタイムに本を読む人は、成功するのか。』(PHP研究所、2016年)には、64項目にわたる「人生が変わる読書術」が書かれている。そのひとつに「捨てる時に、大切な本に出会える」という方法が共有されている。
「蔵書」を限りなくゼロに近づけ、「思い出の本」(=メモリアル)だけを残す。
蔵書を持つのは発展途上の時代です。
捨てる時に、大切な本に出会います。
とっておくと、埋もれていきます。
とっておきたい本は、大学生ぐらいの時に買った本です。
そのあとも、面白い本には出会いますが、とっておくほどではないのです。
これがメモリアルとの違いです。
…中谷彰宏『なぜランチタイムに本を読む人は、成功するのか。』(PHP研究所、2016年)
トータルにして100冊にも満たず、ボロボロになったメモリアルの本だという。
それにしても、「捨てる時に、大切な本に出会える」という仕方に、ぼくはひかれるのである。「捨てる時に、大切な本に出会える」。とてもすてきな言葉だ。「捨てる」という時に本を捨てるのだけれども、ほんとうはなにを<捨てる>のだろうと、じぶんに問うてみることもできる。
この本に書かれている、その他の「工夫」にも触発されながら、ぼくは、本を徐々に減らしてきたのである。
いまのこっている本、見田宗介=真木悠介の本は、確かに大学生ぐらいの時に買った本であり、「メモリアル」でもある。日々、読んでいる本である。これらの本を含めトータルでは60冊くらいのところに、ぼくはいる。
電子書籍の本棚はいっぱいにあるけれども、ぼくは、とても自由な気持ちを感じている。
それにしても、本の書き手たち、著者たちはどう思うだろうか、とも思う。いろいろな本があるし、なかには本を大切にしてほしいとも思う人たちもいるかもしれないけれども、それ以上に、読み手の人たちの生の明かりをいっそう明るく灯し、読み手の人たちが行動するための、あるいは生きてゆくためのインスピレーションとなってくれることを望んでいるのだと思ったりする。
本が「とっておかれる」ことではなく、ことばをとおして、人や世界が「変わってゆく」ことを。