村上春樹
「…先生」と呼んでしまう人。- 村上春樹にとっての「河合先生」(河合隼雄氏)のことから。 /
ここ香港で話される「…先生(sin sang)」は、成人男性に対する呼び名だから、ぼくはときに「先生(sin sang)」と呼びかけられたりするのだけれど、ここでは日本の「先生」のことを書いている。
Read More村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「空間(異国)」編:ヨーロッパでの3年。 /
小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。
Read More村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「時間(年齢)」編:四十歳という分水嶺。 /
村上春樹の「エッセイ」は、「小説」に負けず劣らず、魅力的な文体とリズムで書かれている。
Read More「風のことを考えよう」(村上春樹)。- 「風」に吹かれ、惹かれ、かんがえてみる。 /
村上春樹のデビューから2010年の未発表の文章が収められた『雑文集』(新潮社、2011年)を読み返していたら、「風のことを考えよう」という、以前読んだときにはあまり気に留めなかった短い文章に、目が留まった。
Read More「物語の善きサイクル」(村上春樹)。- 希望や喜びをもつ語り手であること。 /
「Life as Stories」(物語としての生)というテーマでいろいろとかんがえ、他の人たちがどんなことをかんがえ書いている(いた)のかを探り、発せられる言葉にこころを沁みわたらせる。
Read More「カキフライ理論」(村上春樹)にうなってしまう。-「りんごの果肉(理論)」(見田宗介より)に繋げて。 /
村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。
Read More香港にふりそそぐ雨に触発されて思うこと。- 「雨の楽しみ方」への想像力の獲得。 /
香港では、夏至にむかって、雨が降ってはやみ、やんでは降る。今年初の台風を迎えた後も、雨が香港に、ふりそそいでいる。...Read On.
Read Moreことばの限界・限定性を前にして。- 「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(村上春樹)という願い。 /
言語・ことばを伝えること、そしてそれが相手に届くこと。ぼくたちはつくづく願う、「ことばが届きますように」と。...Read On.
Read More結婚と「井戸掘り」。- ぼくが(想像上で)「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく。 /
日本の国外(海外)にそれなりに長くいると、逆に「日本」を考えてしまうようなところがある。ホームシックなどとは違う。...Read On.
Read Moreどんな髭剃りにも「生き方」が詰まっている。- 「どんな髭剃りにも哲学がある」(モーム)に倣って。 /
「どんな髭剃りにも哲学がある」。と、サマセット・モームが書いているのを、村上春樹の著作でだいぶ前に知った。...Read On.
Read More村上春樹に教わる「クラシック音楽を聴く喜び」。- ピアニストLeif Ove Andsnesの音楽を体験として。 /
ぼくが、クラシック音楽を聴くようになったのは、日本の外で、仕事をするようになってからだ。正確には歓びをもってクラシック音楽を聴くようになったことである。...Read On.
Read More腹が立ったときに、村上春樹(の本)に相談すると想像してみたら。 /
まったく想像のこととして。腹が立ったとき、作家の村上春樹に「村上さん、腹が立って仕方がないんですよ」と、相談をもちかけたとする。...Read On.
Read Moreぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」。- 転回、コミットメント、物語の力。 /
「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」(とブライアン・ウィルソン)ということを書いた。そうしたら、それでは、ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」はどうなんだろうと、思ったのだ。...Read On.
Read Moreぼくにとっての「香港と村上春樹とブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズ)」。- 名曲「God Only Knows」に彩られて。 /
人も、本も、音楽も、たまたまの偶然によって、すてきに出会うこともあるけれど、ときに「すてきな出会いに導いてくれる人」に出会うという偶然に、ぼくたちは出会うことがある。...Read On.
Read More川上未映子・村上春樹著『みみずくは黄昏に飛びたつ』- 「抽斗」を増やしながら生きてゆくこと。 /
…同じことが「村上春樹」にも言える。人は、村上春樹が大好きな人、村上春樹が好きな人、それらどちらでもない人に分けられる。...Read On.
Read More村上春樹著『翻訳(ほとんど)全仕事』から学ぶ、翻訳・仕事・生き方の作法 /
村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』(中央公論新社)の主要なコンテンツは、次の二つである。...Read On.
Read Moreひどく疲れた日にそっとひらく本 - 言葉の身体性とリズム /
ひどく疲れた日に、
ぼくには、そこに帰っていく
ような本がある。
本をそっとひらき、そこで語られる
言葉の海にはいっていく。
1. 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
新作が本日発売された村上春樹氏。
小説だけでなく、「紀行文」も
ぼくたちの奥底に染みいる。
この本は、スコットランドと
アイルランドへのウィスキーの
旅を綴った美しい本である。
スコットランドとアイルランド
の美しい風景、それからウィスキー
の深い香りが漂ってくる。
スコットランドのアイラ島。
村上氏は、現地式をまねて、
生牡蠣にシングルモルトを
とくとくと垂らして、口に運ぶ。
…至福である。
人生とはかくも単純なことで、
かくも美しく輝くものなのだ。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
これを知って、試さずには
いられない。
ぼくも幾度となく、この至福の
時を楽しむ。
この本は、文章だけでなく
村上氏の奥様、陽子さんの
写真が、心の深いところに
響いてくる。
これらの美しい写真が
言葉に表しようのない感情を、
静かに呼び覚ますのである。
ひどく疲れた日に、ぼくは
村上春樹氏のこの本を
そっと開く。
スコットランドを綴る最後に、
ボウモア蒸溜所のマッキュエン氏が
口にする「アイラ的哲学」が
置かれている。
「みんなはアイラ・ウィスキーの
とくべつな味について、あれこれと
分析をする。大麦の質がどうこう、
水の味がどうこう…。でもそれだけ
じゃ、…魅力は解明できない。
いちばん大事なのはね、ムラカミ
さん、…人間なんだ。…人々の
パーソナリティと暮らしぶりが
この味を造りあげている。…
だからどうか、日本に帰ってそう
書いてくれ。…」
というわけで、僕はそのとおり
に書いている。神妙な巫女みたいに。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
ぼくも、その御宣託を受けるように
この言葉を心にしずめて、
この小さな美しい本を閉じる。
2. 見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店)
この本も、美しい本である。
社会学者の見田宗介先生が
宮沢賢治を通じて、自我という問題、
<わたくし>という現象を考える。
宮沢賢治の文章(と生)と見田宗介
の文章(と生)が織りなす、まさに
<存在の祭り>というべき本である。
この本を読んでいると、ぼくの
精神がおちつきを取り戻していく。
村上春樹氏の文章と同じように、
見田宗介先生の文章は、
言葉が生きている。
リズムがあり身体性を感じるのだ。
この『宮沢賢治』は、
宮崎駿の映画のように、
「主人公」が異世界を通過して
肯定的に現実世界に戻ってくる
構成ですすんでいく。
見田先生は宮沢賢治の詩篇「屈折率」
から、宮沢賢治の生涯に思いを
馳せる。
<わたくしはでこぼこ凍ったみち
をふみ/このでこぼこの雪をふみ>
と、くりかえしたしかめている。…
あれから賢治はその生涯を歩きつづ
けて、…このでこぼこの道のほか
には彼方などありはしないのだと
いうことをあきらかに知る。
それは同時に、このでこぼこの道
だけが彼方なのであり、この意地
悪い大きな彫刻の表面に沿って
歩きつづけることではじめて、その
道程の刻みいちめんにマグノリアの
花は咲くのだということでもある。
見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店)
宮沢賢治の美しい詩篇と、
見田宗介の美しい文章に触れ、
ぼくも「このでこぼこの道」が
彼方であることを確かめる。
3. 真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
真木悠介先生の life work(生の
ワーク)である『旅のノートから』。
次のような扉の詞が置かれている。
life is but a dream.
dream is, but, a life.
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
この扉の詞にはじまり、
「18葉だけの写真と30片くらいの
ノート」である。
真木悠介著作集ではなく、原本の
「表紙の写真」は、インドの
コモリン岬で、真木悠介先生が
撮った写真である。
この「コモリン岬」での話については、
後年、見田宗介の名前で出版された
『社会学入門』の中に収められた
「コラム コモリン岬」にてつづられて
いる。
とるに足らない話と言いながら、
とても感動的な話である。
この「ノート」は、真木悠介先生に
とっては、「わたしが生きたという
ことの全体に思い残す何ものもないと、
感じられているもの」であるという。
一葉一葉の写真が、
ひとつひとつの文章が、
一言一言の言葉が、
ぼくの内奥に深く響いていく。
「言葉に癒される経験」である。
繰り返しになるが、
言葉が身体的である。
言葉が生きているのだ。
ひどく疲れた日。
ぼくは、そっと腰をおろし、
これらの本をそっとひらく。
本の世界に、
静かな言葉の海のなかに、
そっとはいっていく。
いつしか、
言葉が言葉ではない世界に
ひきこまれていることを
感じるのだ。