社会構想

社会学者「見田宗介=真木悠介」先生の応答に、15年以上触発されつづける。-「理論・理念」と「現実・経験」の間で。 by Jun Nakajima

社会学者「見田宗介=真木悠介』先生による、朝日カルチャーセンターの「講義」で、ぼくは、見田宗介先生に質問をさせていただいた。見田宗介先生の応答が、15年以上経過した今も、ぼくを触発し続けている。...Read On.

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「どういう人たちと関わりたいか」。- 世界中に増殖する火種となる「新鮮な問いの交響する小さな集まり」(見田宗介) by Jun Nakajima

社会学者「見田宗介=真木悠介』先生による、朝日カルチャーセンターの「講義」(2001年3月24日)は、その内容においても、そのスタイルにしても、ぼくを捉えてやまなかった。...Read On.

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「未来」を考える拠り所。- 加藤典洋著『人類が永遠に続くのではないとしたら』と向き合って。 by Jun Nakajima

文芸評論家の加藤典洋が、日本の「3・11の原発事故」をきっかけに、「私の中で変わった何か」に
言葉を与えた著書、『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)。...Read On.

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Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方 by Jun Nakajima

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。

「見田宗介=真木悠介」の方法 - 本質への/からの視点 by Jun Nakajima

社会学者「見田宗介=真木悠介」の文章が
ぼくにとって魅力的な理由のひとつは、
本質的な問いに降りていくことにある。

常に「本質」への視線を投げかけていて、
本質的で、根源的な視点が地下の水脈に
流れている。

著書『気流の鳴る音』では、
「根をもつことと翼をもつこと」という
人間の根源的な欲求を展開していく。

同著には、また、
「彩色の精神と脱色の精神」と題される
文章が記されている。


われわれのまわりには、こういうタイプ
の人間がいる。世の中にたいていのこと
はクダラナイ、ツマラナイ…という顔を
していて、…理性的で、たえず分析し、
還元し、…世界を脱色してしまう。…
また反対に、…なんにでも旺盛な興味を
示し、すぐに面白がり、…どんなつまらぬ
材料からでも豊穣な夢をくりひろげていく。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房)


真木悠介先生は、この「二つの対照的な
精神態度」を、
<脱色の精神>と<彩色の精神>と呼ぶ。

この対照的な精神態度は、
ぼくたちの日々の生活への「見直し」を
せまる。

ぼくは、10代のきりきりとした時期に、
「脱色の精神」にとりつかれていた。
そんなぼくは、海外への旅をきっかけに
「彩色の精神」を取り戻していくことに
なった

また、次のような根源的な視点も
ぼくをとらえて離さない。

見田宗介先生は『社会学入門』(岩波
書店)の中で、「自由な社会」の
骨格構成を試みる。

この社会構想は、発想の二つの様式を
もとに展開される。

それは「他者の両義性」である。


他者は第一に、人間にとって、生きる
ということの意味の感覚と、あらゆる
歓びと感動の源泉である。…
他者は第二に、人間にとって生きる
ということの不幸と制約の、ほとんど
の形態の源泉である。…

見田宗介『社会学入門』(岩波書店)


この他者の両義性をもとに、
「交響圏とルール圏」という社会構想
の骨格を、この「入門」の書で展開
している。
(「入門」はある意味で「到達地点」
でもある)

このように、「見田宗介=真木悠介」
の方法のひとつは、
本質的な問いに降りていくこと、
根源的な地点から思考することである。

日々の生活のなかで、表面的な現実に
疲れたとき、ぼくは、本質的で
根源的な地点に、思考を降ろしていく。

「頭の中の辞書」を見直す - 外国語の効用 by Jun Nakajima

「頭の中の辞書」の見直し、
つまり「自分の世界を書き換える
方法」
を進めていく上で、
「外国語の効用」は極めて大きい。

日本語の言葉や言葉の意味を
一旦「止める」こと。
「言葉を止める」には、
外国語の言葉と文法を「言葉の鏡」
として使っていくことができる。

例えば、「自立」という日本語。
英語の形容詞では「independent」
である。

この「自立」と「independent」
という言葉の「間」にみられる
定義や語感の違いが、ぼくたちに
「考える」ということを迫る。

日本語だけでこの作業をすると、
「言葉に染みついた意味と感覚」
につきまとわれることになる。

言葉の一つ一つには、
社会や時代、自分の生活経験が
あまりにも深く刻まれている。

言葉の意味だけでなく、文法、
言葉が語られる背景や文化に
至るまで、刻まれている。

だから、外国語という「言葉の鏡」
を活用する。

まったく同じものをうつす「鏡」
ではないけれど、この鏡は
大きな力をもっている。


ぼくは「英語」という言葉の鏡を
利用してきた。
英語にどっぷり浸かることで、
ぼくの「頭の中の辞書」を見直して
きた。

そして、それはうまい具合に、
効果を発揮してきたのだ。

それは、時に、
「(身近な)家族のアドバイス」
よりも、
「(距離のある)第三者のアドバイス」
が受け入れやすいのと同じように。

「頭の中の辞書」を見直す -「世界」を書き換える方法 by Jun Nakajima

ぼくたちの頭脳にある言葉や物事の
「定義」は、驚くほどに、思い込みと
間違いに充ちている。

何かの都合で、何かを読んだり聞いたり
していて、自分が思っていたことの
間違いに気づく。

ぼくたちの「世界」は、言葉と言葉の
解釈で構成されるものでもある。
言葉が間違っていると、「世界」は
間違ったパーツでつくられてしまう。

人と人のコミュニケーションは、
ひとつの「世界」とひとつの「世界」
の間のコミュニケーションでもある。
だから、すれ違いや誤解が常である。

だから、時に、「世界」のパーツを
見直すことは、とても大切である。
「自分の頭の中の辞書」の定義を
見直すことである。

見田宗介・栗原彬・田中義久編の
『社会学事典』(弘文堂)は、
「引く事典」だけでなく「読む事典」
でもある。

ひとつひとつの項目に惹かれ、
言葉の世界に引き込まれてしまう。

事典の最初の項目は「愛」である。
これほど、人によって、定義や解釈
が異なる言葉もない。

ぼくの「頭の中の辞書」では
「愛」の項目はこう書かれている。

「愛とは、自分と相手の境界が
ないこと、なくなること」

『社会学事典』ではこのように
定義されている。

 

愛とは、主体が対象と融合すること、
一体化することであり、またそこに
成り立つ関係でもある。愛の対象は
一つの宇宙である。主体は対象に
ひきつけられることによって己れを
消尽しつつ、自らを宇宙へと開き、
直接、無媒介的に宇宙の中にいる。
主体と対象との間にはもはや
隔てるものがなく、愛は「消尽の
共同体」(バタイユ)として
存立する。・・・

『社会学事典』(弘文堂)より


これを読みながら、身体の震えと
共に、一人うなってしまう。
また、たった一つの言葉の、その
拡がりに驚かされる。

「頭の中の辞書」の見直し、つまり
「自分の世界を書き換える方法」は
二つある。

  1. 「辞書」や「事典」で学び、書き換える。
  2. 意識的に「自分なりの言葉」に書き換える。

1の作業だけでも、深い娯しみを
得ることができる。
関心と感心、驚きの連続である。
「インターネット時代」における
「ネット言葉」だけの世界に陥らない
ための方法でもある。

2は、既成の概念を超えていくこと
でもある。
自分の「世界」を積極的につくり
だしていくことである。

「世界を止める」(真木悠介)のは、
最初は「言語性の水準」である。

ただし、それは、身体性、行動、
それから生きること総体(生き方、
人生)に影響を与えていく。

ぼくは、ここ数年、「自立」という
言葉の書き換えをしてきた。
ぼくの「自立」は、狭い定義で、
それが日常の様々なところに
弊害を生んできていたからだ。

だから、「自立とは…」を書き換える。
自立は自分だけで立つのではない。
周りの応援や支えも、自立に含まれる
というふうに。