CNNの記事にみる、最下位ランナーの「物語」。- ランナーには、いつだって、個々の<物語>がある。 /
CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。
Read More「旅で人は変わることができるか?」。- 旅人「沢木耕太郎」のまなざし、それから「大沢たかお」の旅。 /
「旅で人は変わることができるか?」
Read More沢木耕太郎『深夜特急』の旅のはじまりとしての「香港」。- 沢木耕太郎にとっての<香港>。 /
作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。
Read More「もう遅い」けれど、「遅すぎ」ではない。「なにかをはじめる」思想。- 糸井重里氏のことばと視点。 /
糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。
Read More「プラスチック・ワード」(ペルクゼン)に関心をもって。- 松岡正剛の書く「一夜」を参考にしながら。 /
膨大な情報と知見と好奇心が織りこめられている、Webサイト「松岡正剛の千夜千冊」。
Read More三木成夫の著書との出会い。- それは、「ひとつの事件」(吉本隆明)である。 /
解剖学者の三木成夫(1925-1987)。
Read More<空間的な移動>による「人生41年」環境を経験したこと。-「なにを書こうか」とひらく、糸井重里の文章との「対話」から。 /
「なにを書こうか、ずっと迷っていた。…」と、糸井重里は今日、2018年10月30日の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を書き始めています。
Read More見田宗介の読み解く「村上春樹」の小説。- 「週末のような終末」とあたらしい強い思想の方へ。 /
ぼくが個人的に「師」と仰ぐ、見田宗介先生(社会学者)。
Read More高橋源一郎の「システム」、大江千里の「物語」、Patricia Graceの文学。- 他者に「出会い」、そして「知ること」。 /
作家の高橋源一郎が他者のことを論じたり、書いたり、あるいは他者と話したりする前の前段階として採用する、「全作品を読む・見る・聞く」システム。
Read More高橋源一郎の「システム」(リスペクトの作法)に学ぶ。- ついでに、「二重人格」を見て取る、その視覚も。 /
「多重人格」のことを別のブログ(「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。)で書いたあとに、いくつかの文章を読んでいたら、作家の高橋源一郎が書いた文章に目がとまりました。
Read More「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。 /
「自分とは何か」をめぐる、ささやかな、でもぼくにとっては切実な冒険について、その少しのことを別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書きました。
Read More生きかたにかんする「必読書」の一冊。- 真木悠介『気流の鳴る音』という必読書。 /
「海外に出てゆくさいの『必読書』の一冊」として、以前、内田樹の著作『日本辺境論』(文春文庫)を挙げました。
Read More「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。 /
「ほんとうの自分」ということが問われたりします(今日は文体を少し変えて書こうと思います)。
Read Moreグローバル化による価値観の変動。- たとえば、「社会的流動性」による人々の格付け。 /
「グローバル化」や「グローバリゼーション」という言葉は、時を経るにつれて、そのものとしてはあまり使われなくなってきているようなところがあるように見える。
Read More安田登に教わる、『論語』の読み方について。- 「四十にして惑わず」を一例に。 /
『論語』という書物は、ひろく人びとをとらえてやまない書物であったことは、論語に関連する本の多さ、たとえばビジネスと論語をつなげた本などのつらなりからも知ることができる。
『論語』岩波文庫版の訳注者である金谷治は、冒頭の「はしがき」で、論語に対して「古くさい道徳主義を連想する人も少なくないはずだ」と想定しながら、そのような人たちの多くが「いわゆる食わず嫌い」であるだろうとし、そのような人たちによっても論語がひろく読まれることを期待している。
岩波文庫版は、『論語』の原文・読み下し・現代語訳があわせて掲載されているから、「食わず嫌い」の読者にとってもありがたい構成となっている。
ところどころ読んだ『論語』の文章のなかに道徳主義的なものを感じ、この書物から遠ざかっていたぼくは、岩波文庫版の『論語』を読みながら、やはり、どこかに「古くさい道徳主義」的なものを感受してしまう。
きっちりと読みたいなと思いながら、他方で読めないなと思ってしまう。
そのように行き交う気持ちを、思ってもみなかった仕方できりひらき、導いてくれたのが、能楽師でもある安田登による『論語』の読み方の教示であり、読解であった。
『論語』の読み方について、安田登は、つぎのように、核心を一気につきぬける。
…『論語』を読むときに注意しなければならないのは、それを現代の文字で読んではいけないということです。なぜならば、孔子の時代にはない漢字が『論語』の中に使われているからです。
「現代の文字で読んではいけない」という読み方(「正しい」読み方というよりは、読み方のひとつ)。
ぼくがまったく思ってもいなかった仕方で、安田登は、読み方の方法を提示しているのだが、この方法が、『論語』を読むことにおいて、「光」が差し込むように、ぼくの前に提示されたのであった。
孔子は紀元前500年くらいの人で、安田登が指摘するように、ゴータマ・シッダールタやソクラテスなどと同時代人であり、カール・ヤスパースが「軸の時代」と名付けた時代、思想が一気に開花した時代の生きていたのである。
しかし、『論語』が書かれたのは(諸説あるだろうけれど)それから400年ほど経過してからであって、ゴータマ・シッダールタの教えと同様に、書かれるまでは「口承」で伝えられてきたものである。
孔子の時代の文字は(現在の研究からは)「金文」(青銅器に刻まれた文字)であったといい、『論語』が書かれたときに、当時(漢)の文字で書かれたという、その「ギャップ」に、安田登は注意を向けている。
とても合理的な考え方である。
そのようなギャップの一例として安田登が挙げているのが、『論語』に出てくる「四十にして惑わず」という、「不惑」である。
「四十にして惑わず」などとは思わないということが、いろいろな人たちによっても語られてきたし、実際に、ぼく自身の経験としても、そんなことはない、と言わざるをえない。
より詳細な説明は安田登自身の言葉にふれるのがよいと思うが、簡単に言うと、「惑」という漢字は古くには見られないこと(甲骨文にも、西周の金文にも、孔子時代の金文にもない)、だから、孔子は「不惑」などとは言っていなかったかもしれないこと、代わりを調べてみると(「心」を取った)「或」という字体があることである。
そして、文字の成り立ちから見ると、「或」とは、「境界によって、ある区間を区切ること」を意味するといい、また藤堂明保によれば、「惑」とは「心が狭いわくに囲まれること」だという。
安田登はこうして「不惑」を「不或」と考え、「分けない心」「限定しない心」、あるいは(心に限る必要はないから心を外して)「限りない身体」というように捉えている。
つまり、じぶんはこういう人間だと限定しがちな四十歳の人たちに向かって、「自分を限定してはいけない」と言っているのだということになる。
孔子という人の思想や人柄を考えてみてみても、このほうが、整合性があるのだともいうことができると思う。
それにしても、『論語』の「原文」はそれが書かれた時代の漢字だ(ある意味ではそのとおりなのだが)と思い込み、その地平だけから読み取ろうとすることから解放してくれる安田登の方法と読解に、ぼくは強く惹かれるとともに、ほんとうに多くのことを教えられるのである。
そしてなによりも、『論語』というものの世界が、幾重にも深くなって、ぼくの目の前に現れてくる。